第八百十八話 クニツイクサ(五)
九月も下旬を迎え、夏が緩やかに遠ざかろうとしている。
寒気を覚えるのは、多量の雲が空を覆い隠し、陽光の一筋すら届かないから、というわけではないが。
ここは空白地帯。
地形の激変、気象の異常が当然のように巻き起こる魔界である。
そして、いままさに真星小隊が、新たな任務を遂行しようとしているのは、第九衛星拠点の遥か北部、オトヒメの〈殻〉龍宮をも越えた先に広がる、だだっ広い平原であった。
龍宮戦役は、スルトの〈殻〉ムスペルヘイムの崩壊によって幕を閉じた。
ムスペルヘイムは、龍宮近隣における最大規模の〈殻〉であり、複数の〈殻〉を併呑して作り上げられた領土だった。
そんな広大な領土が一夜にして消滅したとあれば、その真っ白な空白の大地の領有権を巡り、数多の幻魔が入り乱れるのは当然の帰結なのだろう。
殻主として己が〈殻〉を持つ鬼級幻魔の大半が、領土的野心に突き動かされている。
故にこそ、龍宮防衛に協力を求めたマルファスの声など、届くはずもなかったというわけだ。
さて、幸多たちの前方には、かつてのムスペルヘイムが横たわっている。
魔界そのものたる赤黒い大地は、以前、緋焔峡谷と呼ばれた山脈である。谷間から深紅の炎が噴き出していた様は、昨日のことのように思い出せたが、今現在、そうした現象は見受けられなかった。
この地域に満ちていた熱気も、嘘のように消えて失せてしまっている。
ムスペルヘイムという〈殻〉が持つ特徴が、あの熱気と火柱だったのだろう。
〈殻〉は、なにかしらの特徴を持つ。
それは〈殻〉という結界が部外者、侵入者を拒絶するための阻害効果とも呼ばれるものである。殻印を持たざる部外者は、結界の阻害効果によってなにかしらの悪影響を受けるのである。
ムスペルヘイムの阻害効果は、まさに熱であった。
ムスペルヘイムの広大な領土内には、常に莫大極まりない熱気が渦巻いており、侵入者の体力を奪い、あるいは肉体を構成する魔素を燃焼させていたのである。その阻害効果を視覚的に認識したのが、ムスペルヘイムに燃え盛っていた火柱なのだ。
ムスペルヘイムが崩壊したことにより、当然、阻害効果もすべて消失した。
残されたのは、スルトによってでたらめに作り替えられた大地の有り様であり、谷間を覗き込めば、どこまでも続くような深い穴が口を開けているようだった。
「どういうつもりなんだろう?」
黒乃が疑問とともに小首を傾げたのは、後方を振り返りながらのことだった。
今回の任務は、幸多率いる真星小隊の単独任務ではない。
第七軍団の複数の小隊が、戦団本部から派遣されてきた技術局の面々と、天燎財団の技術者集団〈思金〉の人々を幻魔から護るというのが、この度の任務の概要である。
その任務を言い渡されたとき、最初に幸多の脳裏を過ったのが、疑問符だった。
技術局の導士たちを護衛するというのは、わかる。
なにかしら実験を行うために空白地帯に赴くというのは、ありがちなことだ。幻想空間上での実験も重要ではあるが、それだけでは机上の空論になりかねない。
現実世界での検証、実験を繰り返しながら、新技術、新兵器の完成を目指していくのが戦団技術局のやり方なのだ。
それは、いい。
しかし、だ。
なぜ、天燎財団の技術者集団などというものが、戦団と行動を供にするのか、それがまるで理解できなかった。
「天燎っていや、戦団を糾弾していた急先鋒だったよな?」
「うん、そうだね。特に前理事長はね……」
「天燎鏡磨……」
「ん?」
「いや、こっちの話」
幸多は、思わず口を突いて出た言葉が部下たちに聞こえていたことに慌てた。真白が変な顔をするが、すぐに話題を戻す。
「天輪スキャンダルねえ」
「あれ、大事件だったよね」
「表向き、財団が起こした事件として処理されたけれど、実際には、〈七悪〉が暗躍していたんだよ。〈七悪〉の一体、アスモデウスがね。だから、主犯とされた天燎鏡磨は、ある意味被害者だった」
「それは知ってる。有名だからな」
「〈七悪〉の存在が明らかにされて、それで、財団の評判も少しは落ち着いたもんね」
「財団そのものが悪いわけではなかったからね。アスモデウスは鬼級幻魔だ。鬼級幻魔の手にかかれば、抵抗のしようがなかったはずだよ。戦団技術局が毒牙にかかってもおかしくはなかったし、そうなっていたら、戦団がどれほどの損害を被っていたものか」
考えるだに恐ろしい、と、義一は肩を竦めてみせた。
アスモデウスがなぜ天燎鏡磨と天輪技研を支配し、操ろうとしたのかはわからないが、それによって、戦団は、アスモデウスの固有波形を観測し、記録することができたのは重畳というべきなのか、どうか。
それにより、アスモデウスの支配下にある人間を判別できるようになったのだから、悪いことではあるまいが。
もっとも、天輪スキャンダル以降、新たにアスモデウスに精神支配された人間は確認されていない。スキャンダル以前に魔法をかけられ、影響下にいた何十人もの市民は、戦団の導士たちによってその支配から解放された後、厳重なまでの監視下に置かれているという。
アスモデウスが再びそうした人々に手を出す可能性は、皆無とはいえないからだ。
幸多は、前方の渓谷地帯を見遣り、それから後方に視線を向けた。
後方を注目しているのは、なにも黒乃たちだけではない。
この度の任務に動員された導士たちの大半が、後方の様子を気にしていた。
十小隊、合計四十四名の導士が、今回の任務に動員されており、それら導士たちは、空白地帯に着陸したトリフネ級輸送艇を中心として布陣している。いずれも導衣を着込み、法機を手にした導士たち。臨戦態勢なのだ。
そして、トリフネ級輸送艇の後部昇降口が開き、積み荷が降ろされようとしている様を見れば、幸多も注目せざるを得ない。
白銀の巨人が、ゆっくりとその全体像を見せつけてきたからだ。
「あれは……イクサ? いや、違うか」
「イクサみたいな機械の巨人ではあるね」
「天燎がまたなにか企んでるんじゃねえのか?」
「さすがに同じようなことはしないと思うけど……」
「どうだかな。おれは一切信用してないぞ」
「信用のおける企業じゃなくなったのは、そうだけど……」
「うーん」
真白や黒乃が言いたい放題にいうのを聞きながら、幸多は、機械仕掛けの巨人たちがトリフネの荷室から現れる様を見つめ続けていた。
それは、確かにイクサのようだったが、外見的な印象はまるで違った。
イクサが鎧武者の巨人ならば、それは鎧騎士の巨人というべきだろう。色合いも大きく異なる。イクサは黒基調に金という天燎の象徴色そのものだったが、新たな巨人は、白基調に銀という正反対とでもいうべき色合いだった。
見るからに禍々《まがまが》しさすら感じたイクサとは異なり、どこか正義の味方めいた印象を与える。
印象だけではあるのだが。
四機の巨人たちがトリフネから降りてくる様をその近くで見守っているのは、天燎財団の関係者たちであり、その中には天燎十四郎の姿もあった。
天燎鏡磨が失脚した直後、天燎高校の新たな理事長に就任した人物である彼は、現状、圭悟たち天燎高校の生徒からの評判は上々らしい。鏡磨とは異なり、生徒第一主義的な考えが伝わってくるのだという。
柔和な表情からして、神経質そのものだった鏡磨とはまるで異なる印象を受けるのも、生徒の評判に一役買っているのではないかと思えた。
人間、外見的な印象を重視しがちだ。どれだけ内面が大事だとわかっていても、最初に認識するのは外見なのだから、仕方がない。
さらにいえば、ふくよかなその体型も、どこか安心感を与えるのではないかと思えた。
そんな天燎十四郎は、四機の巨人がトリフネから地上へと降り立つ様を見て、満足感を覚えているように見えた。
その側には、戦団の技術者たちもいて、イリアの姿もある。
「今回の任務の詳細が極秘にされていた理由がわかったよ」
「うん?」
義一の発言に、幸多は彼を見た。義一は、黄金色の瞳で巨人たちを見ている。
「天燎財団との共同作戦というのなら、周囲にもらされるわけにはいかないよね」
「それは……そうかも」
「っていうか、財団側が秘密にしておきたかったんじゃねえの? あんなのが開発中だなんて、発表どころか噂もなかったろ」
「そうだね。それもあるかも」
「しかもさ、イクサで大失敗してるんだぜ、天燎」
真白のいうとおりだ、と、幸多は想った。
脳裏には、天輪スキャンダルの光景が浮かび上がっている。
財団の新戦略発表会と銘打たれた場で突如暴走を始めた機械仕掛けの巨人たち。果てには幻魔と化し、破壊活動を始めたものだから、戦団はそれらを徹底的に破壊しなければならなかった。
その最後、マモンが誕生したことは、記憶の奥底で鮮烈な光を放っている。
幸多が拳を握り締めたのは、そういう経緯があるからにほかならない。
天燎財団への悪印象は、拭い取れない。