第八百十七話 天燎の思惑(九)
「全て、わたしどもの思惑通りに推移しております。父上」
「ふむ……」
十四郎が、鏡史郎と面と向かい合って話し合うのは、いつ以来だろうか。
実の父であるのと同時に天燎財団の総帥である鏡史郎は、長らく十四郎とは縁遠い人物といっても差し支えなかった。
幼い頃は、そうでもなかったはずだ。
しかし、財団の基盤ができあがり、鏡史郎自身が勢力拡大に熱を入れ始めると、子供との間に距離が生まれていったのも当然の成り行きだったのだろう。
やがて十四郎も、天燎のために尽くさなければならなくなり、日夜仕事に追われるはめになっていったのだから、こうして話し合う時間など、持てるはずもなかった。
顔を見合わせることは、少なくない。
財団の幹部会議が開かれれば、大抵の場合、総帥も顔を出した。
そして、その場には、全てを取り仕切る兄の姿があったのも、いまや昔の話だ。
兄は、死んでしまった。
収監先で幻魔に浚われたというだけで無事を諦めざるを得なかったが、さらに悪魔に魂を売り渡して改造人間となった挙げ句、幻魔の如く人類に牙を剥いたというのであれば、戦団に討伐されたとしても文句はいえなかった。
むしろ、幻魔として死んでくれてよかった、とすら、十四郎は思っている。
幻魔に成り果てた鏡磨の存在は、未だ燻り続けている天輪スキャンダルの残り火を、幻魔災害の彼方へと追い遣ってくれたものだ。
天輪スキャンダルの首謀者・天燎鏡磨は、幻魔と相通じる存在であり、人間ならざる怪物だった――そのような噂話がまことしやかに囁かれているほどだ。そして、それによって財団の評判が下がるということはなく、むしろ、財団は被害者だったのだと考えてくれる市民もいるくらいだ。
鏡磨の死は、財団に存分に役だったというわけである。
最悪の事件を起こしながらも、その後始末をつけてくれたということだけは、評価してもいい。
もちろん、天輪スキャンダルが天燎鏡磨の存在全てを否定するのだが。
「クニツイクサは、天都計画のための布石に過ぎませんが、しかし、だからこそ慎重かつ丁寧に行うつもりです。戦団への協力、情報提供も惜しみません。腹の底までお見せしましょう。わたしは、あのひととは違いますから」
「鏡磨か」
「はい。あのひとと同じ轍を踏んではなりません。それだけは、肝に銘じております故、御安心のほどを」
「うむ。わかっている」
鏡史郎は、厳かに頷き、十四郎の柔和な表情を見つめた。
鏡磨とは正反対に近い性質の持ち主である十四郎は、財団幹部や関係者の人気も高く、声望もあった。
鏡磨が失脚し、彼の派閥が力を失うと、十四郎の一派が財団における主流派となったが、鏡磨派から十四郎派に鞍替えするものも少なくなかった。そしてそうした人材も受け入れる器の大きさ、懐の広さがあるのが、十四郎という人間である。
鏡磨の後任としてなんの問題もなかった。
「だが、くれぐれも気をつけることだ。企業は、長らく戦団を敵視しすぎた。戦団があればこその央都であり、人類生存圏だという事実を理解しながら、己が勢力の拡大、権益の追求に心血を注ぎすぎたのだ。その結果、どうなったかわかるか?」
「……戦団に余計な敵意を抱かせる羽目になりましたね」
「そうだ。余計な敵意、余計な警戒、余計な監視……全て、余計なものだ。本来であれば、戦団と企業は、互いに手を取り合い、この世界の有り様に立ち向かっていくべきだった。だが……わたしのような古い人間たちは、己の野心に素直になりすぎたのだ」
「それによって天燎は、企業連でも最大規模の勢力になりましたよ。おかげで、大手を振って大事業を行うことができそうです」
「それも確かだが……しかし、もう少し上手くやれたのではないか、と、考えることもある」
「父上」
十四郎は、鏡史郎の発言の数々が、父らしからぬものであることに気づき、はっとした。
そういえば、ここのところ、鏡史郎に元気がないという話を母から聞いていたことを思い出す。
時期的にいえば、鏡磨が死んでからだ。
鏡磨は、怪物と成り果て、討伐されて、死んだ。その結果、財団の評判が多少取り戻されたのは皮肉なのか、どうか。
十四郎としては、兄の死になんの感傷もなかったのは、長らく敵対派閥として戦い続けてきた相手だからということもあるだろうし、鏡磨の性格上の問題も大きい。
鏡磨は、偉大なる企業人だったが、人間として尊敬するべき点がなにひとつとしてなかった。
だから、だろう。
鏡磨が死亡したという話を聞いたときには、むしろ、清々《せいせい》したのだ。
そして、そんな自分に愕然としたものだった。
それほどまでに兄に対する蟠りを抱いていたのか、憎んですらいたのか、と。
そんな兄だが、両親は、人並み以上に愛情を注いでいたのは間違いなかった。
鏡史郎が失意の底に沈んでしまったのだとしても、おかしくはない。
「わたしは、兄の代わりにはなりませんが、兄の分も働きますので、どうかお気を確かに」
「……十四郎」
「兄は、人の十倍働くことを心情としていたようですから、そうですね……わたしは、ひとの十五倍は働くこととしましょうか。そうすれば、兄にも追いつけるでしょう」
十四郎は、父の多少窶れたような顔を見つめながら、いった。確かに考えてみれば、そういう風に受け取れた。心労が、顔面に現れている。つい先日まであれほど野心的で、精力的だった父の顔が、面影すらなくなっているようなのだ。
それほどまでに鏡磨の死が衝撃的だったということだろう。
しかも、鏡磨は、人間として死ねなかったのだ。
幻魔の如き怪物に成り果てて、死んだ。
ありったけの愛情を注ぎ、育て上げたはずの我が子が、人間ならざる怪物へと変わり果て、討伐されたことの心痛は、十四郎には想像も付かない。
ただ、鏡史郎が深く息を吐く、その息吹の重々しさに胸が痛むだけだ。
「……おまえは、おまえらしくやりなさい。なにも鏡磨の真似をする必要はない。鏡磨には鏡磨の、十四郎には十四郎の生き方がある。やり方がある。それが間違っているのであれば正すのが上に立つものの、父たるわたしの役割だった。しかし、わたしは……」
鏡史郎の脳裏には、鏡磨との日々が走馬灯のように過っては、消えていく。
「わたしは、結局、鏡磨のことを見てやれていなかった。央都の勢力争いに躍起になって、そのためであればどのような手段を用いても構わないなどと放言し、鏡磨にも好き放題にさせてしまっていた。その結果、鏡磨を失う羽目になった。わたしは、なんと愚かなことをしてしまったのだ」
「父上……」
「鏡磨のようにする必要はない。十四郎。おまえにはおまえの才能があり、力がある。その才能と力を存分に発揮すればいい。そのために財団は全力で支援しよう。天都計画、大いに結構。ただし、戦団と足並みを揃えることを忘れてはならんぞ。戦団あってこその人類だということもな」
「はい。もちろんです」
十四郎は、深々と首肯すると、執務室を後にした。
執務室に一人取り残された鏡史郎は、端末を操作し、幻板を出力する。
そこに、鏡磨が最後に出席した会議の記録映像が映し出され、鏡史郎は、鏡磨の顔を見るだけで涙を流した。
鏡磨は、人間としての尊厳をみずからの意志で踏みにじったのだろうということは、想像が付いた。
鏡史郎ほど、鏡磨の人間性を理解していないものはいまい。
鏡磨は、目的のためならば手段を選ばなかった。
そして、鏡磨がなによりも戦団を敵視していることも、知っていた。
天燎財団の勢力を拡大する上で、もっとも強大な敵は、戦団なのだ。戦団さえなければ、天燎の天下になる――鏡磨が常日頃からそのように漏らしていることも、知っていた。
そのような人間に育て上げたのは、ほかならぬ鏡史郎である。
だからこそ、鏡史郎は、ただ謝るしかないのだ。
「すまない……鏡磨……すまない……」
戦団憎しのあまり、怪物に成り果てて死んでいった我が子のこと想うと、それだけで胸が張り裂けそうだった。