第八百六話 天燎の思惑(二)
予期せぬことばかりが、起こっている。
イリアは、いままさに直面している出来事に対応しながら、そんなことを思った。
まず、直近に起こった最たる想定外の出来事といえば、龍宮戦役だろう。
龍宮に棲まう竜級幻魔オロチの安眠を妨害しようとする愚かなスルト軍を撃退するための、幻魔との共同戦線。
その勝利が殻石の破壊による〈殻〉の消滅という事自体、想定外にして予想外の出来事といえるだろう。
そして、さらにバアル・ゼブルの暗躍によってオロチが目覚め、神威がその力の一端を披露する羽目になってしまったのも、想定外以外のなにものでもない。
ブルードラゴンの襲来も、そうだ。
ブルードラゴンは去ってくれたものの、こればかりは本当に幸運というほかなかった。
さらに、ユグドラシル・ユニットの回収である。
戦団にとって念願というべき事態は、これまた、予期せぬ、想定外以外のなにものでもない出来事であり、現在、ユグドラシル・ユニットを起動させるべく、戦団技術局は総力を結集しているのである。
そんな中、イリアが戦団本部に戻ってきたのは、やはりたまたま偶然の出来事に過ぎず、故に、運命的なものを感じずにはいられなかった。
幸多の親友、米田圭悟がもたらしたのは、天燎財団が彼の父に提供した万能演算機であり、それもまだ発売されていなければ、発表もされていない最新機種であった。
それがなぜ圭悟に手渡されたのかといえば、ほかの方法を使うわけにはいかないなんらかの事情があるからに違いない。
「生体部品が使われているならともかく、そうでない以上は転送網を使えば一瞬のはず。転送機くらい完備しているわよね、圭悟くんの家」
「は、はい」
「さすがは元総合管理官の家。金持ちだなあ」
「伊佐那家がいう?」
「はっはっはっ、これは一本取られたな」
義流は朗らかに笑いつつ、端末を操作する手を休めることはなかった。素早く鍵盤を叩き、透過装置を操縦する。
透過装置が照射する光は、万能演算機の内部構造をまさに透視し、端末が出力する幻板に次々と表示していく。
やはり、生体部品が使われている様子はない。
ということはつまり、央都転送網を利用することは可能だ。
「……でも、物質転送機は使わなかった。なぜか」
「足が着くことを恐れたんでしょうな。転送網の利用履歴は外部から消すことなんてできないし、我々には無料で見放題だ」
「無料じゃないけど……そうね。明らかに戦団を警戒してのことでしょう」
「しかし、その警戒も水泡に帰してしまった。米田氏が財団に靡くことはなく、戦団に提供してしまったのだから」
「でも、そんなこと、財団も理解していないわけがないと思うのよね」
透過装置が暴き尽くした万能演算機の構造を見る限りでは、おかしなところは見当たらない。爆弾が設置されているわけもなければ、なにか仕掛けが施されているわけでもないのだ。
確かなのは、複雑怪奇な精密機械だということであり、つまるところ、ありふれた万能演算機の構造なのだ。無論、最新型である以上、性能は優れたものであるはずだが。
そんなことは、どうでもいいことだ。
ノルン・システム以上に優れた演算機は、現状、存在しない。
そんなものが百年以上もの昔に作り上げられたという事実にこそ、技術者たるイリアは目眩を覚えそうになるのだが、しかし、ネノクニを支配していた技術的停滞を鑑みれば、致し方のないことでもある。
ユグドラシル・システムによる管理運営こそが全てで、それ以上の機構を必要としなかったネノクニは、技術の発展を制御した。システムが機能不全に陥り、統治機構による支配が確立されてからは、そうした姿勢はより顕著なものとなっていったという。
それ故、ネノクニの技術は、一昔前のままであり、央都の基盤もまた、その当時の技術によって作られたのだ。
ようやく技術が進歩してきたといえるのは、ここ数十年のことである。
統治機構の絶対的な支配を脱却した戦団は、統治機構以上の管理社会を構築する一方で、あらゆる分野の進歩をこそ奨励し、技術の革新を望んだ。
人々が、企業が、様々な技術を競い合うことによってのみ、進歩はあるのだ――戦団は、そのように考えている。
「米田氏は、財団の生け贄になった。天輪スキャンダルに全く関与していないというのに、全ての責任を背負わされた。管理者責任といえば、確かにそうかもしれないけれど、彼には一切の責任なんてなかったし、どうしようもないことだった。暴走したのは天燎鏡磨で……でも、彼も、結局被害者に過ぎなかったわ。ん?」
イリアは、圭悟の視線に気づいて、彼を見た。所在なげに椅子に腰掛ける学生は、イリアたちの会話を聞いていていいものなのかどうか、不安になっている様にも見えた。
「大丈夫よ、きみはなにも聞いていないでしょう」
「……はい?」
「きみは、なにも聞いていない。そうだね?」
「は、はい……」
「よろしい」
にこやかに笑いかけてくる義流とイリアに、圭悟は、呆然とするしかない。
(それでいいのか……?)
聞いていないわけがなかったし、聞いていいような話ではないことは間違いなかった。部外者の一般市民がこの場にいることそのものが間違いなのではないか。
そう思うのだが、しかし、そんなことを言ったところでイリアたちが聞く耳を持ってくれるとは、とても思えなかった。
ほかの技術者たちも忙しなく動き回っていて、圭悟のことなど気にも留めてくれていない。
「で……そう、財団に切り捨てられた米田氏は、もう既に別の会社に就職していて、働き詰めだそうよ。財団に未練もないんじゃないかしら」
「そんなとき、突然降って沸いたのが今回のこれ、ですか」
「米田氏にしてみれば、いい迷惑よね。といって、放り捨てるわけにはいかないし、突き返すのも、圭悟くんが可哀想だから、ってところじゃないかしら」
「それならまあ、戦団に頼るのもむべなるかな」
「……さて。立ち上げてみますか」
内部構造の解析を終え、照射光を切ると、イリアは、万能演算機を見下ろした。
超軽量で超薄型の万能演算機は、キーボード付きの本体と幻板出力部、そしてそれらを保護するための板で構成されているという、極めて一般的な代物である。
魔法金属製ということもあって重量感たっぷりで、持ち運びには不便だが、しかし、耐久性は抜群かもしれない。
保護板を開放し、電源を入れる。すると、キーボードの表面に淡い光が走り、起動に成功する。幻板が出力され、天燎の二字がでかでかと表示された。
「天燎……ねえ」
「天燎が独自に開発した、といいたいのでしょうかね」
「たぶん、天輪技研とかが絡んでると思うんだけどね」
天輪技研が天輪スキャンダルによって潰れたのは、約二ヶ月前のことだ。そこから最新型の万能演算機を一から開発し、完成させるのは不可能だろう。
それ以前から天燎財団の関連企業が開発していたはずであり、そうなるとやはり、天輪技研が関わっていると見るのが妥当だ。
とはいえ、天輪技研の名を出すわけにはいかないから、天燎の名を大々的に表示した、ということなのではないか。
続いて、幻板に表示されたのは、真っ黒な画面であり、ところどころに金色が入っていた。天燎財団の象徴色とでもいうべき色合いだが、イリアが注目したのは、そんなことではなかった。
ファイルが一つ、ホーム画面の片隅に配置されている。
「ファイル一つ? こんなもののために最新型の演算機を贈りますかねえ、金持ちの考えることはわからんなあ」
「あなたが言えたことかしら」
「局長にも刺さりますが」
「そうね」
義流の発言を肯定しながら、イリアは指先で幻板に触れた。ファイルを開く。
すると、画面一杯に広がったのは、見慣れた地図だった。
「水穂市ですな」
「そういえば、水穂市に天燎の新工場が出来たっていう話があったわね」
「はい。まあ、ネノクニ支部の全敷地が没収されれば、地上に活路を見出すしかないでしょうな」
「自業自得……っていうほどでもないけれど」
そして、イリアは、その水穂市の地図上に印が付けられていて、そこに日付までもが記されていることに気づくと、目を細めた。
「まったく……どうしようもなくまどろっこしいやり方ね」
そうでもしなければ、戦団に気取られると考えたのかもしれないが。
結果として、全てが戦団に明らかになってしまった以上、天燎財団がどうでるのか、少しばかり気にかかるところではあった。
なにより、財団がなにを企んでいるのかは、知っておくべきだろう。
財団は、戦団を敵視している。