第七百九十六話 英霊儀式(八)
「少しは、気が晴れたか」
総合訓練所の屋上からは、晴れやかな空を仰ぎ見ることができる。九月上旬。秋はまだまだ遠く、夏を忘れようともしない太陽の眩さは、目に痛いくらいだ。しかし、熱気は感じない。
ここが戦団本部の敷地内だからだ。
眼下に広がるのは、戦団本部の様子であり、なんらかの作業をしている導士や、本部に待機している導士の姿が散見された。
訓練所を出入りする導士の姿も少なくない。
「全然」
「そうか」
神威は、屋上を囲う超強化樹脂製の柵に手を置き、左を見た。
そこには明日良がつまらなそうに腰を下ろしていて、隣に彼の妹の明日花がどうしたらいいものなのかと考え倦ねている。
明日花が今朝から明日良に振り回されっぱなしだということは知っており、神威は同情を禁じえなかった。
「いっておくが、あれがおれの全力ではないぞ」
「だと思ったよ」
「……そうか」
神威は、少しばかり虚空を見遣り、言葉を探した。
明日良が持ちかけてきた幻想訓練は、幻想空間内の情報密度の過多による処理能力の低下が原因により、強制終了してしまった。
そのうえ、利用していた幻創機が一台、故障してしまったのである。
そのためにもう一度、別の幻想気を用いて訓練を行うという気分にはならなかった。
結局、また同じ結果になってしまうだろう。
幻創機は、超高級品である。特に導士が訓練に用いている戦団技術局謹製の幻創機となれば、途方もない金がかかっている。
そんなものを二台も三台も壊してしまうわけにはいかなかった。
責任問題に発展しかねない。
そもそも、幻創機は、普通に利用するだけであれば、壊れることなどありえない。幻創機の処理能力の限界を超えるような状況など、星将が複数名参加したとしても、起こりえないからだ。
絢爛武闘祭で十二人の星将が参加し、全員が星象現界を使ってもなんの問題も起きなかったことからも、幻創機の処理能力の高さがわかるというものだろう。
そんな処理能力の限界を超えたのが、神威の力の発揮だ。
それも、不完全に再現された竜の力である。
神威の力を完全に再現するには、情報が少なすぎるという問題があった。
情報を得るということは、つまり、神威がその力を計測させなければならないということであり、眼帯を外し、全力を発揮しなければならないということだ。
そんなことができるわけもなく、故に、これまで何度か測定された神威の力を元に推定された能力値が、幻想体に設定されているのである。
それでも、幻創機の処理能力を超えるほどだというのだから、とんでもない。
「あんな力があるなら、なんで使わないんだ」
「……使わないんじゃない。使えないんだよ」
「なんでだよ」
明日良は、神威を仰ぎ見て、その左眼を睨んだ。青空と白雲を背景にした神威の横顔は、なんだか絵になって、それが余計に腹立たしい。
そこにいるのは、英雄なのだ。
明日良が憧れる、英雄の中の英雄。
大星将・神木神威。
「竜級を伸すほどの力なら、鬼級なんてイチコロだろーが」
幻想空間に再現された神威の力ですら、鬼級幻魔を圧倒するのは間違いないのではないかと思えた。明日良一人どころか、星将が束になっても敵わないのはわかりきっている。
神威が竜眼を解き放つだけで、鬼級は滅びざるを得ないのではないか。
鬼級という人類最大の脅威をこの世から滅ぼすことができるのであれば、神威は、率先して、その力を使うべきではないのか。
益体もなく、考えてしまう。
「あの力は、確かに強力だ。竜級と対等に戦うことができるのだからな。鬼級なぞ、赤子の手を捻るようなものだろう。だが、それはできない」
「なんでだよ」
「そんなことをすれば、滅びを招きかねないからだ」
「滅び? なんだよ、それ」
「見ただろう。ブルードラゴンだよ」
「あー……あれ、なんだったんだ?」
「おれのこの右眼は、ブルードラゴンに奪われた」
「それは、知ってる。なあ?」
「は、はい。有名な話ですね」
「ん? なに緊張してんだ?」
「するに決まってるでしょ、お兄ちゃん……!」
明日花が小声で悲鳴を上げるのを聞きながら、神威は、そういえば、と思ったりした。
天空地家との繋がりの深さ故、神威は、明日馬や明日良とは子供のころからの付き合いがあった。明日良が神威のことをジジイと呼ぶのも、彼がいままさに気楽な態度を取っているのも、そういう気安い間柄だからであり、立場を越えた繋がりがあるからだ。
しかし、明日花とは、あまり関わりがなかった。
それもこれも、父・明日馬を失ってからというもの、明日良が神威に対し、敵意にも似た感情を抱くようになったからだ。
そして、明日良が、明日花にとっての父親代わりのような存在だった。
明日花が生まれた当時、明日良もまだまだ幼かったのだが、ただ一人の妹が誕生したことで、強い責任感が芽生えたのだろう。
明日良は、母一人に全てを任せるのではなく、自分に出来ることはなにかないかと常に探していたという。
そのような話を聞くたびに、明日良は将来必ずや素晴らしい導士になるだろうと考えたのが神威であり、実際、明日良は、戦団でも最高峰の導士の一人となった。
ただ魔法技量が優れているだけではない。
人の上に立つものとして相応しい人材へと成長したのである。
「ブルードラゴンは、おれから右眼を奪い、代わりになにかを植え付けていった。それは時間とともにおれの魔力を吸い上げて成長し、いつ頃からか眼そのものとなった」
「眼そのものって……眼としての機能もあるってことか?」
「そうだ。眼帯を外せば、おれの欠けた視界も元通りというわけだ」
「じゃあ外せよ」
「気楽にいってくれる」
「そうすりゃ、人類復興なんざ、あっという間だろう」
「人類復興は、どう足掻いても遥か未来だよ。明日幻魔が滅び去っても、人口が増えるには時間がかかる。五十年で百万人に増えるというだけでも、とんでもないことなのだからな」
「けど、滅亡の危機は減るんじゃねえのかよ」
「どうかな」
「減るだろ」
「……今まで考えたことはなかったが、確かにあの力を使えば、すぐにでも鬼級以下の幻魔を滅ぼすことができるかもしれない」
神威は、戦団本部より目線を上げて、彼方を見遣った。未来河の向こう側、葦原市の外周を囲う最終防壁のさらに向こうへ。
空白地帯を乗り越えた先に大和市があり、さらにその先には広大な空白地帯が横たわり、無数の〈殻〉が乱立している。
龍宮は無視するとして、それ以外に数多くの〈殻〉がこの地域に存在しており、それらの殻主たる鬼級幻魔を滅ぼすことも、決して難しくないのではなかろうか。
竜の力ならば。
竜眼を解放した神威ならば。
「なんで考えたこともねえんだよ。おれなら、真っ先に考えるけどな」
「力を使えば、ブルードラゴンが現れるからだ」
「……そういうことかよ」
明日良は、ようやく神威の置かれている境遇というものを理解した。
神威が、竜級幻魔に匹敵する超越的な力を持ちながら、戦団最強の魔法士の名をほしいままにしながら、しかし、まともに戦ったのは地上奪還作戦と央都の黎明期くらいのものだという事実がなにを意味しているのか、いままさに把握したのだ。
戦団総長という重大な立場にあるから前線に出ないのではない。
出たくても出られないのであり、戦いたくても戦えないというのが、真実だったのだ。
「あのときは、ブルードラゴンは去って行った。しかし、それは今回だけのことだ。かつて開発中の央都が壊滅的な被害を受けたこともあれば、おれが死にかけたこともある。ブルードラゴンは、おれが力を使うときを待っているのだろうな」
「なんでだよ?」
「さてな」
神威は、少し考え込み、明日良に目を向けた。
「おれを殺すためじゃないか」
「だとしたら、待つ必要がないだろ」
「それもそうか」
明日良のぶっきらぼうな言葉に素直にうなずき、考える。
では、なんだというのか。
この竜眼との五十年近い付き合いは、なんのために続いているのか。
「……あんたと戦いたいんじゃないのか、ブルードラゴンの野郎」
「おれと戦いたい? 竜がか」
「竜の考えなんてわからないけどよ。でも、あんたに竜の力を植え付けたのは、なにか理由があるはずだ。たとえば、あんたを自分と対等の存在へと昇華させて、全力で殺し合うのが目的だったりするんじゃないか。だから、あんたが竜の力を使うたびに現れるんじゃないのか」
「そして、見込み違いであれば、去って行く……か」
「まあ、相手が幻魔で、竜だからな。なにを考えているかなんて、想像するだけ無駄なんだろうけどよ」
だが、一つ、はっきりしたことがある。
明日良は、その場で立ち上がると、神威を見た。
神威の力に頼ってはならない。
そんなことは、昔にわかりきったことだったはずなのだが、なぜ、いまになって思い知るのだろう。
明日良は、考える。
結局、感情が撃発したのは、己の無力さを痛感したからにほかならない。
あのときだって、そうだった。
父親が戦死した原因は、神威にあるわけではなかったし、そんなことは、子供の明日良にも理解できていたことだ。それなのに怒りをぶつけたのは、自分が、あまりにも無力で、情けない存在だったからだ。
どこかに怒りをぶつけることでしか、感情を処理できなかった。
子供なのだ、と、胸中で嘆息する。
そんな子供じみた感情を処理するための方便として、英霊という言葉を利用してきた自分の愚かさが、嫌になる。
だから、というわけではないが、明日良は、神威にいった。
「あんたは、英霊になんてなるなよ」
「それはこちらの台詞だ。天空地軍団長。おまえは、将来総長になるんだろう?」
「おうよ。おれが総長になって、あんたのような生っちょろいやり方を否定してやる」
「……それは、楽しみだ」
神威は、明日良の瞳がぎらぎらとした輝きを取り戻すのを認めると、にやりとした。柵を飛び越え、地上へ向かって跳躍する。
「あっ!?」
悲鳴を上げたのは、明日花であり、遠くで見守っていた首輪部隊の連中であり、明日良は、そんな神威の颯爽とした姿に目を輝かせただけだった。
そこには、彼が子供のころ憧れた英雄の面影があったからだ。