第七百九十話 英霊儀式(二)
多分、その日は雨が降っていた。
けれども、誰一人として傘を差さないのは、この社会が魔法で成り立っているからであり、誰もが魔法でもって雨を凌ぐことに慣れていたからだ。
突然の土砂降りも、にわか雨も、集中豪雨も、魔法さえ使えればどうとでもなる。
天災がなんだ。
幻魔災害に比べれば、大したことはない。
そう、だれもが考えていたし、実際その通りだった。
大地震や台風ですら、魔法でどうとでもなる。
魔法とは、この世の理に働きかける、まさに奇跡の力だ。神業である。
なんだってできた。
でも、死んだ人間は生き返らない。
葬儀に参列するのは、その日が初めてではなかった。
何度も、数え切れないくらい何度も、知人の葬儀に参列し、死を見送ってきた。
死んで、英霊になった人達を、見送ってきた。
天空地家は、それなりに有名な魔法士の家系だった。故に天空地家に生まれたもの、連なるものは、大抵、戦団に深い関わりを持った。
祖父も父も、戦団に入っていた。
戦団の導士として活躍する父の姿は、明日良にとって誇らしいものだったし、同時に、憧れでもあった。
けれども、死んでしまったら、それまでだ。
『父さん、英霊になったよ』
『ああ、知っている……』
そんな当たり前の反応が、明日良には受け入れがたかったのは、仕方のないことだ。
まだまだ子供だった。
妹が母のお腹の中にいたということも、関係しているだろう。
妹は、明日花は、父の体温を知らないまま、生まれることになってしまった。父の言葉を、父の想いを、父の愛を。
父・明日馬は、央都近隣の空白地帯を巡回中、幻魔の群れと遭遇し、命を落とした。
『英霊ってなんだよ?』
『導士という星は、死によって英霊となり、天から我々を見守ってくれる――そういう話だ』
『そんな話!』
信じられるものではない、と、子供心に思ったし、叫ばずにはいられなかった。
そのときの神威の顔は、いまも忘れようがない。
降りしきる雨の中、神威だけは、雨に濡れ続けていた。
合同葬儀の最中のことだ――。
「――お兄ちゃん!」
はっ、と、目を見開くと、すぐ目の前に妹の顔があったから、彼は、また目を閉じた。
「なんでっ!?」
「……それはこっちの台詞だろ」
非難するような妹の声に対し、彼は仕方なく瞼を開いた。両手で妹の、明日花の顔を挟み込んで、自分の顔から引き剥がすようにして、距離を開ける。
明日花の距離感がおかしいのはいまに始まったことではない。
昔から、ずっとそうだ。
そして、それは致し方のないことなのだと、彼は半ば諦めていた。
明日花にとっての父親代わりが明日良だったのだ。それだけのことだ。それだけのことが、こうなってしまったのであれば、どうしようもない。
「なによー!」
「アイドルが男の部屋に忍び込むな」
「兄妹でしょ!? 仲良しこよしの!?」
「そんなに仲いいか?」
「いいでしょ!?」
明日良の両手の間から擦り抜けた明日花は、兄が寝惚けまなこでこちらを見ている様に、憮然とした。
二人がいるのは、第十衛星拠点にある兵舎の一室であり、拠点司令用の個室だ。
当然、誰もが簡単に忍び込めるような部屋ではなかったし、厳重に鍵をかけていたはずだった。それもこうなる可能性を考慮したからだが。
明日良は、妹が彼の寝台に上がり込んでいることにこそ顔をしかめながら、大きく伸びをした。あくびを漏らす。
明日花は、未だ不服そうに明日良を睨んでいた。黒一色の衣服は、アイドルらしさの欠片も見当たらないが、似合っていないわけではない。いや、むしろ、明日花に似合わない服装などないのではないか、と、明日良は思っている。
明日花は、明日良と同じで、蒼い頭髪に翡翠のような虹彩の持ち主である。しかし、顔立ちは似ても似つかない。明日良が父親似で、明日花が母親似なのだろう、と、子供のころからの評判だったし、それで良かったと何度心底想ったのか、数え切れない。
背丈は、女性としては高いほうだ。均整の取れた肢体は、アイドルに相応しいとの評判だったし、顔立ちと相俟って、生まれながらのアイドルではないか、といわれることもあった。
明日良が明日花を見るたびに想うのは、本当に似ても似つかない兄妹だということだ。そしてそれがむしろ喜ばしいことだということである。
もし明日花が明日良に似た顔立ちならば、まずアイドル小隊になどスカウトされなかっただろうし、戦闘部の導士として、苛烈な戦いに投入されたことだろう。
戦闘部の一員となり、明日良とともに最前線で戦いたかった明日花としては、多少、不満があるようだが、明日良にしてみれば、これ以上の役割はないと思っていた。
「で、どうやって入り込んだ?」
「火水さんに頼んだらちょちょいって」
「はあ……どうなってんだ、うちの杖長どもは」
「杖長様でしょ!」
「なにがだ。おれが軍団長様だぞ」
「いつも杖長様に迷惑かけてる軍団長なんて、知らないわよ!」
「誰が迷惑かけてんだ、誰が」
明日良が苦い顔をすれば、明日花は、当然のように人差し指を向けてきた。
「傲岸不遜大魔王!」
「……おう」
「なにその反応」
「昔からのあだ名だからな」
慣れたものだ、と、明日良は言った。
彼の言う昔とは、星央魔導院時代のことだ。もう十何年もの昔の話だったが、忘れようがないことでもあった。
星央魔導院に通うのは、まだまだ子供ばかりだ。魔法士としての才能こそあったが、精神的には未成熟な連中だらけだった。
そんな未成熟な学生の一人が明日良であり、だからこそ、学生たちの他愛のないあだ名の呼び合いにも興じていたのだ。
傲岸不遜大魔王などと面と向かって呼んできたのは、十八期の三魔女くらいのものだが。
「それで、なんでまたおまえが起こしに来たんだ?」
「ケータイで呼びかけても全然出てくれないからでしょ!」
「なんだよ……」
そんなことか、と、枕元に置いていた携帯端末を手に取って通知を確認すれば、明日花からの着信履歴がずらりと並んでいて、頭を抱えそうになった。
「あのなあ」
「今日! なんの日!」
「……あー……」
「思い出した?」
「おう」
明日良は、ようやく自分の迂闊さを理解すると、速やかに寝台から降りた。
「着替える」
「うん」
「出てけよ」
「なんでよ!」
「男だぞ、おれは」
「でも、お兄ちゃんだよ」
「あのなあ……」
明日花がなにをいっても聞かないから、彼は、途方に暮れた。
いつものことだ。
いつもの、ありふれた、他愛のない妹とのやり取り。
こうしていられる時間がどれほど貴重で、どれだけ大切なものなのか、明日良は、誰よりも理解していた。だからこそ、明日花には好き放題にさせているのだし、彼女がこのような性格の持ち主に育ってしまったのは、自分のせいだと反省してもいた。
見た目は、やはりアイドル小隊の一員、そして隊長に抜擢されるだけあって、戦団随一といっていいだろう。
その点においては、明日良も胸を張って断言できるし、褒められても当然だと受け止められるくらいには、妹の容貌の良さを認めていた。
しかし、性格となると、話は別だ。
このあくの強い性格では、アイドル活動など上手くやれるものだろうか、と常々心配しているのだが、どうやらそれなりに上手くやれているらしいというのが、彼女の人気の高さからも窺い知れるというものだ。
明日花が隊長を務める流星少女隊は、戦闘部ではなく、広報部に所属する小隊であり、広報のためのアイドル活動に専念する、戦団内部でも極めて特殊な存在だった。
アイドル小隊と呼ばれる小隊は、流星少女隊以外にもあるのだが、一番最初に誕生した流星少女隊は知名度と人気度において、群を抜いているという。
巷のアイドルにも負けないくらいの人気を誇るというのだから、不思議なものだ。
それだけ戦団が広報に力を入れているということであり、同時に、戦団がこの央都社会において、市民にとって極めて身近な存在であることを証明しているのかもしれない。
明日花は、そんな明日良が着替える様子を眺めている。
この時間が至福の時間だった。
兄妹二人きりの、水入らずの時間帯。
第八軍団の軍団長である兄を独り占めにできる時間というのは、極めて限られたものだ。仮にこことは異なる別の場所でそのような時間が設けられたとしても、ここまで自由には振る舞えまい。
なにかしら、遠慮が入る。
それくらいの常識は、明日花だって持ち合わせている。
傲岸不遜大魔王の妹としては、物足りないところはあるのだが。
それでも、兄の鍛え上げられた肉体の欠点ひとつ見当たらない美しさには、惚れ惚れとするほかなかったし、この時間がいつまでも続けばいい、などと思ってしまうのだった。
しかし、そういうわけにはいかない。
今日は、葦原市の大斎場で、合同葬儀を行うことになっている。
先の龍宮防衛戦で命を落とした百五十五名の導士たちの、その死を見送るための儀式。
明日良は、自ら参列すると言い出していた。
そして、そんな兄が参列するというのであれば、明日花も無理を言って参列することを決めたのである。