第七百八十九話 英霊儀式(一)
真っ白な天井が、視線の先にある。
天井照明の淡くも穏やかな光は、真っ直ぐに見つめても、目に痛いということがなかった。だから、見つめ続けても問題はない。
その光の中に右腕を翳し、手を開いた。五本の指の爪先にまで神経が行き渡っているような、そんなありえない錯覚を抱けば、握り、開いて見せて、感覚を確かめる。
細胞という細胞が息づいているというのもまた、錯覚に過ぎない。
そんなものが感じ取れるわけもない。
第四世代相当の生体強化を受けているからといって、あらゆる感覚が突出しているからといって、微細極まりない細胞の活動まで認識できるはずもないのだ。
親指から順番に全ての指を折り曲げて、開いていく。それを何度か繰り返し、思い通りに動くかどうかを確認する。
最先端の技術で作られた最高級品質の生体義肢。その動作など確認するまでもないことなのだが、しかし、人間というのは難儀な生き物だ。
確認せずには、いられない。
「どうかしら?」
「うん。完璧……な気がします」
「そうでしょう。そうでしょうとも」
イリアは、喜悦満面といった様子で寝台の幸多を見つめながら、端末を叩いた。
そこは、第九衛星拠点内にある医療棟の一室である。
医療棟は、盛況だった。
昨日の戦闘で体の一部を失った導士は、数え切れないほどにいた。指の一本二本程度ならば数多といて、中には幸多のように腕や足をまるごと失った導士もいる。そうした導士たちは、生体義肢の接合手術を受けるのである。
魔法技術の粋を結集して作り上げられた生体義肢は、多くの場合、完全無欠といって良いほどに失った部位を補って見せた。故にこそ、誰もが当然のように生体義肢を用いるのであり、それ自体は大した問題ではないとすら考えられている。
だから、導士たちは、体の一部を失うことなど、毛ほども恐れない。
幸多が以前用いていた生体義肢も、ほぼ不足なく機能していたが、しかし、今回の右腕は、以前のそれよりもより体に適しているような気がした。
「だって、幸多くん専用の生体義肢だもの」
「ぼく専用の?」
「そうよ。きみの体は特別だもの。生体義肢も、特別なものを用意しないとね。以前きみが使っていた生体義肢は、ほかの魔法士たちが用いているのと同じ、大量の魔素を含んだ代物だった。だから、きっと……きみの体の中で機能不全を起こしていた可能性が高いわ」
「機能不全……」
「きみは、一切の魔素を内包していない完全無能者で、その体には魔素がなかった。魔素を持つ生体義肢が馴染む道理はなかったのよ。それでもなんとか上手く誤魔化して使ってくれていたようだけれど」
「特に問題は……なかったような」
そういったとき、幸多の脳裏に過ったのは、愛理の姿だった。この手で抱きしめていた少女が、魔力を暴走させた瞬間、幸多は痛感したのだ。生体義肢が溶け切っていく様を目の当たりにすれば、実感として理解せざるを得ない。それが幸多の肉体ではないのだ、と。
愛理の魔力の暴走は、幸多自身の、完全無能者の肉体には一切の影響を及ぼさなかった。
だが、魔素に満ちた生体義肢は、義眼は、彼女の魔力に呑まれ、消滅してしまったのだ。
あのとき、幸多の腕が本物の腕だったなら、どうだったのか。
抱きしめ続けることができたのではないか。
そして、愛理の魔法の暴走を食い止めることができたのではないか――などと、益体もなく考えてしまう。
しかし結局、時間転移が、〈時の檻〉が完成し、彼女が消えてしまった可能性も大いにあるのだが。
幸多には、わからない。
幸多は、イリアを見ていた。
彼女が開発してくれたのだろう生体義肢は、確かに幸多の体に良く馴染んでいた。少なくとも、以前の生体義肢の接合直後に抱いた違和感は一切なく、彼の思い通りに動いている。
「だとすれば、これからはもっと問題ないわよ。きみ専用の生体義肢には、きみの体同様、一切の魔素が含まれていない」
イリアは、幸多の側に移動すると、彼の右腕に触れた。幸多の右腕は、筋肉量こそ左腕に劣るだろうが、それ相応に鍛え上げられた人間のものだ。もっと時間があれば、幸多の現状に合わせた調整をも行えたのだが、残念である。
「だから、維持するために大量の分子機械を投入しているのだけれど……この様子だと、大丈夫そうね」
「はい?」
「きみの中の分子機械が、生体義肢をきみの右腕と認識してくれたんじゃないかしら」
「認識……」
「きみの体を維持しているのは、その超分子機械ともいうべき代物よ。生体義肢も、魔素を内包していない以上、きみの超分子機械に頼らざるを得ないのよ。本当、上手くいって良かったわ」
「上手くいかない可能性もあったんですか?」
「ええ。そしてその場合は、以前と同じ生体義肢で代用してもらうしかなかったのだけれど……そうならなくて本当に良かったわ。徹夜をした甲斐があるというものね」
幸多は、イリアの説明を受けながら、彼女が中々手を離してくれないことに戸惑いつつも、手のひらを開き、握り締めた。
指先の感覚は、完璧だ。
これならば、また、戦える。
多くの導士が、死んだ。
だが、それは、戦団における日常に過ぎない。
戦いは終わらない。
これからも続いていくのだ。
「なんつーか」
「うん?」
「疲れたな」
「うん……」
黒乃は、真白が自分の足を枕にして寝転がっているのを感じ取りながらも、払い除けようともしなかった。
龍宮防衛戦が終わった翌日のことだ。
第九衛星拠点への帰投後、二個大隊は即座に解散され、真星小隊には休養が申し渡された。
大規模戦闘の翌日である。
黒乃も真白も消耗し尽くしていたし、休養日の全てを心身の静養に費やすことに決めるのは、当たり前の判断だったかもしれない。隊長命令でもあるが。
二人がいるのは、兵舎の一室。真星小隊で借りている部屋である。居間の長椅子に腰掛けた黒乃を、真白が枕代わりにしている。放り出された足が、所在なげに虚空を彷徨っていた。
「隊長も義一もいねえし……暇だ」
「二人とも治療しないといけないもの」
幸多は右腕を、義一は右手首を失ったため、生体義肢の接合手術を行う必要があって、医療棟に足を運んでいた。
疲労困憊だろうが、そんなことをいっている場合でもない。
体の一部を失ったまま休養するよりは、生体義肢でもなんでも確保してから休んだほうが、少しはましだろう。
「ぼくたちは……大怪我せずに済んだね」
「おう。おれのおかげだな」
「うん。兄さんのおかげだよ」
「素直だな」
「だって、本当のことだもの」
黒乃は、真白の真っ白な髪に触れながら、兄の横顔を覗き込む。
兄の視線の先には、大型の幻板が浮かんでいる。そこに映し出されているのは、ネットテレビ局の映像であり、今回の作戦に関する報道が、いままさに双界全土を騒がせているのがわかった。
人類初となる幻魔との共同作戦。
これに関して、様々な意見が飛び交っており、世間を混乱させていた。
「おう」
真白は、識者たちのくだらない世迷い言を聞きながらも、黒乃の体温だけを感じていた。
こうして二人がほとんど無傷で生き残ることができたのは、幸運以外のなにものでもない。
そのことは、真白が誰よりも一番よく知っている。
義一は、生体義肢の感覚を確かめながら、医療棟の外へと足を踏み出した。
頭上から降り注ぐのは、まだまだ夏を感じさせる九月の太陽だ。
強烈な太陽光線が、しかし、冷ややかさを帯びているのは、ここが空白地帯のど真ん中であり、魔界の真っ只中だからなのか、どうか。
吹き抜ける風もどこか刺々しい。
充ち満ちる魔素が、彼の視界を不愉快に彩るかのようだった。
戦いは、終わった。
多くの犠牲を対価として払った結果、辛くも勝利を手にすることができたのだ。
辛くも。
本当に、辛勝としか言いようのない勝利だった。
医療棟を出て、真っ先に視界に飛び込んでくるのは、衛星拠点の敷地内に停泊するトリフネ級輸送艇の巨大な姿だ。魔法金属の塊であるそれは、外観からすると、巨大な船のようである。しかもそれは空を飛ぶ船であり、物資や人員を運搬するのに向いていた。
その船にいままさ運び込まれようとしているのが、龍宮防衛戦の戦死者たちであり、戦死者たちの亡骸を乗せた無数の棺である。
龍宮防衛戦における戦団側の戦死者の亡骸は、誰一人欠けることなく回収することができた。
それもこれもマルファスのおかげだという
そして、回収された戦死者の亡骸は、輸送艇に分乗し、所属する軍団の所在地に帰還を果たした。
まず、軍団員との別れを告げさせるためだった。
今まさに同僚たちと涙の別れを交わす導士たちを見つめながら、義一は、右手を握り締めた。
自分は、美零は、とんでもないことをしてしまったのではないか。