第七十八話 最幸にして多望なる刻(二)
伊佐那麒麟が警告を発した直後、競技会場と観客席の間に巨大な魔法壁が張り巡らされた。分厚い魔法壁は、会場に設置された魔機を遠隔操作することによって生み出されたものだが、そんなことは観客たちは知る由もない。
麒麟の厳粛たる警告は、多少なりとも混乱を呼んだ。
幻魔災害の発生を警告する報せだったのだ。まったく混乱が生じないことなどありえなかったし、起きて当然だった。
しかし、思ったほどのものではなかった。
多くの市民、観客が、伊佐那麒麟を信頼しているからだ。
そしてなにより、会場を戦団が警備しているという事実がある。
対抗戦は、戦団が行っているといっても過言ではなく、予選大会から決勝大会に至るまで、会場には常に多数の導士が手配されていた。
この海上総合運動競技場だけでも百人以上の導士が動員されており、競技場各所で配置についていた。
幻魔災害は、いつどこで起こるかわからない。
なんらかの事故で人が死ねば、その死を苗床として幻魔が発生する可能性があるからだ。また、たとえそうでなくとも、どこからともなく幻魔が現れることだってあり得た。
今、この瞬間のように。
「会場の皆さんは、表彰台の元に集まってください。速やかに」
麒麟が強くいえば、表彰式に参加していた選手や運営員の全員が一斉に表彰台の元に向かった。
幸多たちも麒麟の命令に逆らわず、表彰台へと駆け寄った。
そのときには、幸多の耳も大地の鳴動を捉えていた。
会場の地面が揺れ、ところどころに亀裂が走る。競技場の地面は、あらゆる魔法競技に対応できる特別製だ。土や砂を固めたものではなく、簡単に傷つくことも、ましてやひび割れを起こせるようなものではなかった。
だが、確かに地面は割れ、その地中の暗闇に無数の紅い目が輝いていた。紛れもなく幻魔のそれであり、その目を見たものたちは、恐怖に身を竦ませた。
どれだけ対抗戦の訓練を積んできた学生たちであっても、幻魔を目の当たりにして、恐怖を感じないわけがなかった。
幻魔は、人類の天敵である。
人類が存亡の危機に追い遣られた原因であるそれらは、人々の遺伝子に絶対的な恐怖を刻みつけた。それこそ、幻魔と遭遇した瞬間、本能的に絶望してしまったのだとしても、致し方のないことだった。
幻魔と戦闘経験の少なくない幸多ですら、妖級以上の幻魔の前では身が竦んだものだ。
地鳴りのような咆哮とともに地中から飛び出してきたのは、複数種の獣級幻魔だった。その数は多く、見る限り数十体以上はいた。
魔炎狼、水妖猫、風妖犬、病魔鳥、いずれもが獣級下位に類別される幻魔だ。
獣級幻魔と一括りにされるとおり、鳥獣に酷似した外見をしている幻魔たちである。
ガルムは、炎を纏った巨躯の狼だ。燃え盛る熱気を体毛のように纏っている。
ケットシーは、一見愛らしさすらある黒猫によく似た姿をしている。ケットシーの全身を覆う体毛は、常に水気を帯び、その外骨格たる魔晶体を包み隠している。
カーシーは、暗い緑色の長毛に覆われた犬のような外見であり、丸まった長い尾が特徴的だ。両目は赤黒く輝いている。
カラドリウスは、白い小鳥のような姿態の幻魔だ。病魔鳥の当て字の通り、病を撒き散らす害悪そのものたる小鳥である。
それら獣級幻魔が、一種につき数十体はおり、競技会場の中心に設置された表彰台を速やかに包囲していた。
表彰台に集まった学生、教員、運営員のほとんどが、大量の幻魔に囲まれたという絶望感に打ちのめされ、動けなくなる一方、中には、皆を庇うように一歩前に出るものもいた。
草薙真や菖蒲坂隆司、金田姉妹などの特に優秀な魔法士たちだ。彼らには自負があり、故に幻魔に包囲されても立ち向かう勇気が湧くのかもしれない。
法子もその一人であり、幸多もそうだった。だが、法子は、幸多に釘を刺すようにいった。
「皆代幸多、ここでは決して手を出すな」
「は、はい」
「きみは幻魔と見れば黙ってはいられない質のようだが――」
「法子ちゃんと同じ気質よね」
雷智が茶々を入れるも、法子は黙殺した。
「きみは、幻魔と見れば殴りかかってしまう質のようだが、幻魔災害の対処をするのは、本来、戦団の導士の役目だ。きみはまだ、ただの一般市民なのだから、導士たちに任せるのが筋だ。どうせ、すぐに戦団の導士様になられるのだ。先輩方の働きぶりを、その目に焼き付けたまえよ」
「はい!」
幸多は、法子の正論そのものの忠告を受け入れると、全力で頷いた。法子のそれは反論の余地のない道理だった。そしてなにより、幸多を鍛え上げ、優勝に導いてくれた彼女の言葉にはとてつもない説得力があった。
いまならば、法子のいうことはなんでも聞いてしまいそうなくらい、幸多は彼女に心酔しているといっても過言ではなかった。
「なにも心配はいりませんよ。わたくしがここにいる以上、あなたたちが恐れるものなどなにもないのですから」
頭上、表彰台から響き渡った伊佐那麒麟の声は、いつものように穏やかだった。しかし、威厳に満ち、揺るぎない力強さを感じずにはいられないものでもあった。
幸多は、伊佐那美由理と対面したときの感覚を思い出した。麒麟の声音に美由理の声音が重なって聞こえたのだ。血が繋がっておらず、似ても似つかない声だというのに、だ。
幻魔たちが地を這うような唸りを上げ、あるいは雷鳴のような鋭い叫びを発し、表彰台に集まった人々を威嚇する。だが、襲いかかってこない。まるで、とてつもなく強大な力を持つ相手と対峙しているかのような、そんな様子ですらあった。
事実、そうなのだろう。
伊佐那麒麟は、戦団副総長であり、歴戦の導士であり、央都の英雄なのだ。
その英雄が、魔力を練り上げている。
表彰台の上から、前後左右、あらゆる方向から、じりじりと迫ってくる幻魔たちに対し、警告を発していた。それ以上近づけば、容赦はしない、と、魔力だけで宣告していたのだ。
それは、死の宣告であった。
カラドリウスの群れが、警告を無視して、魔力の渦の中に飛び込んだ。怪しく白く輝く小鳥の群れは、けたたましくわめき散らしながら表彰台に殺到し、そして、伝播する雷に飲まれて地に落ちた。
カラドリウスの群れを一撃で打ちのめしたのは、もちろん、麒麟である。
「伊佐那流魔導戦技伍百壱式飛電……凄い、本物だ……」
「お、おう、そ、そうだな」
幸多の感嘆の声を聞いて、圭悟は、なんともいいようがないといった顔をした。圭悟にとって情報通といえば蘭なのだが、幸多の反応は彼より余程早かった。蘭が思わず口惜しがるほどに、だ。
子供の頃から戦団に入ることを夢見ていた幸多にとってしてみれば、戦団の、特に高名な導士は憧れの的だ。彼らが用い、公に知られている魔法については熟知している。
無論、そんなことを自慢している場合ではない。
幻魔は、相変わらず大量にいて、圭悟たちを包囲している。
カラドリウスの数体が倒れたところで、幻魔側の圧倒的優勢に変わりはない――などとは、圭悟ですら、思わない。
雷光が煌めき、ケットシーの頭を砕いたかと思えば、黒い魔力の塊がカーシーの胴体を貫く。ガルムの群れが一斉に火の息を吹き付けてきたものの、表彰台を中心とする一帯が魔法の結界に包み込まれ、熱気すらも跳ね返してしまった。
それらの魔法が麒麟ひとりによるものではないことは、その場にいるだれもが理解しただろう。
競技場内の各所に待機していた戦団の導士たち、そのうちの何名かが表彰台の側に駆けつけたのだ。
「伊佐那義一、命令により加勢致します」
「同じく、九十九真白!」
「つ、九十九黒乃ですっ!」
「まあ、心強い」
とはいったものの、麒麟の元に駆けつけた導士は、たった三名だった。
いずれも若く、幼いとさえいっていい。導衣を身に纏い、法機を携えるその姿には、経験の少なさからくる気負いがあった。
だが、それはつまり、この人数で十分だという作戦部の判断だということだ。
そしてその判断に間違い一つないことは、麒麟自身が最も理解していた。
幻魔の数は、優に百を超えている。
しかし、いずれも獣級下位であり、統率も取れていない。
雑兵なのだ。
ガルムの火の息が消えると、幻魔の群れは、光の結界に取り付くほどの距離にまで接近していた。
光の結界は、空間敵余裕をもって構築されたものではなく、故に表彰台の目と鼻の先といっても良い距離に、数え切れない幻魔の群れがいた。
表彰台に集まった人達の間で、恐慌や混乱が起きてもおかしくなかった。
なのに、皆、極めて冷静だった。幻魔に睨まれ、うなり声を聞かされているというのに、誰一人として取り乱していなかった。
麒麟を信頼しているからだ。
麒麟の側にいるというだけで、圧倒的な安心感がああった。大量の幻魔を目の前にしているというのに、安堵していられる。
極めて異常な時間。
その時間は、あっという間に過ぎていく。
「伍百伍式天雷」
麒麟が天から青い雷を降り注がせてガルムの群れを吹き飛ばせば、
「伍百弐式改閃飛電」
伊佐那義一が、紅い電光を迸らせてカラドリウスを次々と感電させ、撃ち落としていく。
九十九真白は結界の維持に尽力し、九十九黒乃はカーシーとケットシーの群れを相手に大立ち回りを演じた。闇色の刃が閃き、漆黒の奔流が猫型幻魔を叩き潰していく。
たった四人だが、いずれもが優れた魔法士であり、秀でた導士だった。
特に麒麟の力は圧倒的であり、彼女が魔法を使うたびに大気が震え、大地が揺れた。その都度、幻魔は絶命し、瞬く間にその数を減らしていく。
伊佐那麒麟の全盛期には遠く及ばないであろう、しかし、極めて強力な魔法士としての一面を目の当たりにして、この場にいる誰よりも興奮していたのは、紛れもなく草薙真だった。
彼は、幻魔ではなく、表彰台の上に燦然と輝く伊佐那麒麟の姿を見ていた。
雷の魔法を自在に使いこなすその姿は、雷神さながらであり、神話の光景を見ているような、そんな錯覚すらあった。
「ああ……」
思わず声が漏れるほど、彼は、伊佐那麒麟の勇姿を間近で見ることができて、感動していた。
そして、麒麟たちが競技場に現れた獣級幻魔を殲滅するまで、然程時間がかからなかった。
というのも、さらなる人員が投入されたからであり、それが戦団でも最高峰の戦力だったからだ。
麒麟たちの戦いが続く中、幸多は、確かにそれを見た。
それは、天に瞬く白銀の満月だった。
だが、遙か遠く、夜空の彼方には黄金色の月が輝いてもいた。
違和感は、それだけではなかった。
「え?」
幸多は、白銀の月を目の当たりにした瞬間、全身が異様なほどの寒気に包まれたのを感じた。そして、表彰台に人影が降り立つ様を見た。
その人影の正体は、伊佐那美由理であり、幸多は彼女と目が合った――気がした。
それは一瞬のことでああり、気のせいだったのではないかと思えた。幸多がそう思ったのは、まるで自分と美由理以外の時が止まったかのような一瞬があったからだ。
だが、そんな時間は刹那の違和感とともに消え去り、つぎの瞬間、競技場内の全ての幻魔が巨大な氷の檻に閉じ込められていた。
競技場内の表彰台周辺以外が、一瞬にして氷漬けになってしまったかのようであり、事実、その通りだったようだ。
「あら、第七軍団長までも参戦してくれるなんて、ありがたいわね。でも、どうやって?」
「イリアに送ってもらいました」
「イリアちゃんに? どうして?」
「副総長閣下の身の上が心配で」
「冗談でしょう」
麒麟は、美由理の発言を一笑に付すと、青く透明な氷塊の中で身動きひとつ取れず、最期の時を待つしかない幻魔たちを一瞥した。
哀れみは、ない。
美由理が、さらなる魔法を放つ。それは無数の氷柱であり、それらが氷塊に殺到し、巨大な氷の檻を粉々に打ち砕いた。氷漬けになった幻魔もろとも、だ。
全ての氷塊が砕け散ると、幻魔は一体も残っていなかった。
「さすがは姉さん」
義一は、姉である美由理の魔法技量に惚れ直すような想いだった。
圧倒的だった。それ以外の言葉が思い浮かばなかった。
義一も九十九兄弟も多少なりとも消耗していたが、麒麟も美由理も、まったくもって疲れている様子を見せなかった。
さすがは歴戦の英雄だと、思わざるを得ない。若さでは圧倒的に義一たちのほうに分があるはずなのだが、経験や技量の差は埋めがたいものであり、故にこそ、二人はまったくもって消耗していないのだろう。
そんな中で、麒麟の凜とした顔は、夜空を仰ぎ見ていた。
義一も母に倣って星空を見上げ、そして、違和感を覚えた。
あり得ない密度の魔素が、星空を覆い隠すように渦巻いていた。
それは常人には見ることの出来ない、この地上にあって麒麟と義一だけが見ることの出来る景色だった。
そして、それだけの密度の魔素が、なにもない空中に存在することなど、通常、ありえないことだ。
異常事態としかいえなかった。




