第七百八十六話 玉手箱(三)
「出迎え御苦労。が、いま優先すべきは撤収準備である。兵は神速を尊ぶ。そのことを忘れてくれるな」
神威が厳粛に告げれば、大穴周辺に集まっていた導士のほとんど全員が蜘蛛の子を散らしたように走り去っていく。
神威は、そんな導士たちの反応にこそ、満足感を覚えるのだ。
残ったのは、真星小隊を始めとする戦闘部の導士たちだ。実働部隊たる戦闘部、その中でも損耗の激しかった導士たちには、撤収準備に関わる必要がない。
杖長の荒井瑠衣や躑躅野莉華の姿もあった。
「閣下、一つ、質問してもよろしいでしょうか?」
「これのことだな」
神威は、瑠衣が訝しげな眼差しを向ける物体を見た。巨大な魔晶体そのものが、そこにある。透き通る結晶体は、禍々しくも神秘的であり、美しくすらあった。
「はい。いったい、それはなんなんです?」
「オロチの逆鱗だそうだ」
「オロチの逆鱗ですって?」
半信半疑といった声を上げながら、瑞葉が地上に降ろした結晶体に駆け寄ったのは、イリアだ。白衣を靡かせながら駆け足気味になった彼女は、ふと振り返り、義一を見た。
義一がきょとんとすると、イリアは業を煮やしたように魔法を使い、彼をすぐ側まで引き寄せる。
イリアは、空間魔法使いの中でも特に優秀である。
「義一くんの目には、どう映るかな?」
イリアに強引に引き寄せられた挙げ句、質問を投げかけられて、義一は、なんともいえない顔になった。とはいえ、既に結晶体を視ている。間近で視れば、より正確にその構造を把握することができるのも、確かだ。
「正真正銘、オロチの肉体の一部……つまり、魔晶体ですよ」
「オロチの魔晶体……」
「逆鱗かどうかまではわかりませんが」
「オトヒメがそういっていただけだ。本当のところは、おれにはわからん」
「だとしても、どうしてこんなものを?」
「……感謝の印、だそうだ」
「感謝? 幻魔が?」
「……龍宮にとっても存亡の危機だった。それを回避するために八方手を尽くした挙げ句、協力に応じたのが我々だけだった。そして、我々も多くの血を流した。そのことをオトヒメは悲しみ、悼んでくれたよ」
神威は、オロチの逆鱗を見つめながら、いった。
触れれば怒りに駆り立てられるという竜の鱗の一枚は、オロチの激怒とともに抜け落ちたとでもいうのだろう。
オロチの暴走ぶりを思い出せば、そのようなことが起きていたとしてもなんらおかしくはなかったのもまた、確かだ。
そして、それがオロチを神の如く崇め奉るオトヒメにとって、神体に等しく大切な宝物だということも疑いようのない事実だろう。
それだけの気持ちが、込められている。
「信じられないだろうし、信じたくもないだろうがな」
神威の言葉は、もっともだった。
幻魔が人間に対し、哀悼の意を表することなど、あることだろうか。
確かにオトヒメは博愛精神の持ち主だとマルファスはいっていたし、言動からもそう感じられるのだが、とはいえ、幻魔と人間がわかり合えるものではないし、理解しがたい存在であることに違いはない。
「まあ、なんだ。竜級幻魔の研究が捗るというのであれば、悪くはないだろう」
「はい。これを持ち帰って研究すれば、きっと、戦団にとって、人類にとって大きな力になるでしょう」
「期待している」
「お任せあれ」
イリアが大見得を切ってきたので、神威は、素直に受け取った。
イリアは戦団史上に輝く大天才だ。それは技術局の誰もが認める事実であり、彼女のもたらした技術革新によって、戦団の戦力そのものが大きく向上したことは記憶に新しい。
彼女が発案し、推進する窮極幻想計画も、今のところ上手く行っている。
真星小隊が大事を成し遂げたのも、F型兵装があればこそだいう。
イリアならば、必ずやオロチの逆鱗からなにかしら革新的な発明をしてくれるのではないか、と、期待させた。
竜級幻魔打倒は言い過ぎにしても、鬼級幻魔打倒のための秘策、秘密兵器が誕生するかもしれない。
そこまで期待するのは、楽観的にも程があるのだろうが。
「それで、これはなんなんでしょう?」
イリアが逆鱗に触れる傍らで、神威たちに質問を投げかけたのは幸多である。
逆鱗よりも巨大な構造物は、金属製の立方体であり、なにかしら複雑な仕掛けが施されているのではないかと想像させるようだった。
全長十メートルほどはあるだろうか。
幸多は、立方体の影からその頂点を見上げていたが、その巨大さに圧倒されるような感覚を抱いた。
「わからん」
「はい?」
「オロチの喉に支えていたらしい」
「はあ……」
「じゃあ涎まみれ……ってことはないか」
などと冗談を飛ばしたのは、瑠衣だ。彼女もまた、金属製の立方体に歩み寄り、幸多ともにそれを見上げていた。
見る限り、人工物のように見える。少なくとも、自然的に発生するような代物には見えなかったし、幻魔が作り出す構造物などとも違っている。
「おそらくは、だが、なんらかの機械だろう。それもオロチが最初に眠る以前に間違って飲み込んでしまったものだ。つまり、百年以上昔に作られたものということになる」
「義一くん」
「静態魔素の塊ですね。幻魔ではありませんし、ましてやそれ以外の生物でもありませんよ」
「やっぱり機械か」
イリアは、義一の真眼の判定結果を受けて、金属物に歩み寄った。立方体の表面に素手で触れ、その感触を確かめる。冷ややかな硬質感は、見たままの金属を想起させる。そしてそれが魔法金属であることにも疑問を持たない。
しかもそれは、未知の、超技術の結晶である可能性が高かった。
超高密度の魔力の塊であるオロチの体内で、百年以上も存在し続けていたということがなによりの証拠だ。
イリアは、興奮を覚えるのを抑えられなかった。
「オトヒメもマルファスも一刻も早く持ち去って欲しそうだったからな。機械であることに間違いはなさそうだ」
「幻魔は機械を嫌いますものね」
「うむ」
神威は、この巨大な立方体を持ち運んでいくときのオトヒメとマルファスの晴れ晴れとした表情を忘れられなかった。それほどまでに幻魔と機械の相性というのは悪いらしい。
リリスやマモンのように機械を扱う幻魔もいるのだが、大半の幻魔にとっては、やはり、毒以外のなにものでもないのだろう。
「百年前の機械だ。使い物になるかどうかはわからんが、調べてみる価値はある……だろう?」
「まあ、わたしたちが頼りにしているノルンも百年以上昔の機械ですから」
「そういえば、そうだったな。あまりにも頼りになりすぎて、忘れていたよ」
幸多は、そんな神威とイリアの会話を聞きながら、機械を見ていた。巨大な金属製の立方体。なにがどうしてこんな綺麗な立方体にしているのか、まるで想像もつかなかったし、なぜそんなものをオロチは飲み込んでしまったのだろうか、と考える。
そして、百年以上もの長きに渡り、喉の奥に支えていたというのは、どういうわけなのだろう。
オロチとしても寝苦しかったのではないか。
だから、寝起きが悪かったのか――などと、想像してしまう。
「なんつーか、でっけえ」
「こんなもの、なにに使ってたんだろう?」
九十九兄弟も幸多の側で不思議そうな顔をしていたし、機械を取り囲む全員が、理解できないというような表情をしていた。
百年前の機械である。
その当時の人間がどのようなことを考え、こんなものを作り上げたのか、想像のしようもない。
ふと、幸多が機械に触れたのは、イリアの真似をしたからにほかならない。立方体の表面から左手に伝わってくるのは、冷え切った金属の感触であり、硬質感だ。
そして、立方体の表面に青白い光が無数の光線となって走り、複雑怪奇な記号を描き出していく。波紋が、機械を取り巻く人々の間に広がった。
「な、なに?」
「反応した?」
「なんだこりゃ……?」
「なにか起きるの?」
導士たちが様々な反応をする中で、幸多を見たのはイリアだ。幸多は、自身の左手を見て、そこに青白い燐光がわずかに浮かんでいるのを確認する。
「幸多くん、なにかした?」
「ぼ、ぼくはなにも……ただ触っただけで……」
「ただ触っただけ……か」
イリアは、今まさに機械に起きている変化を見つめながら、考え込む。幸多が触れたことへの反応なのは間違いない。イリアが触れてもなんの反応もなかったのだ。
幸多が、機械を休眠状態から呼び起こしたのだ。
しかし、その理由はなにか。
幸多の体内を巡る分子機械が、目の前の機械に影響を及ぼすというのは、少々考えにくい。
幸多のそれは、赤羽亮二が十数年前に開発したものである。百年前の機械との関連性があるというのは、少々考えにくい。
では、なにが起こったというのか。
イリアには、まるでわからないまま、それは形を変えていく。
巨大な金属の立方体が、青白い光線を帯びながら複雑に変形し、展開していくと、内側に隠されていたものが明らかになったのである。
「これは……」
『あーっ!』
『こんなところにあったのですね……』
『お帰りなさい……』
戦団の三女神の声が、幸多の脳内に反響する中で、彼もまた、それを確かに見た。
全長五メートルほどの金属製の構造物が、まるで大樹のように聳えていたのである。
「まさか……ユグドラシル・ユニット!?」
その時発せられたイリアの叫び声は、素っ頓狂としか言いようのないものだった。
龍宮のオトヒメから渡された玉手箱は、百年の時を超え、人類の叡智の結晶たるユグドラシル・ユニットとの再会を果たさせたのである。




