第七百八十二話 深淵へ
「無事だったのね、お兄ちゃん」
「いや、ですから」
「年上の妹って、なんだか倒錯的な響きだと思わないかい」
「はあ」
義一は、愛の診察を受けながら、生返事を浮かべるほかはないという感じだった。
仮設本陣内に設けられた医務室には、真星小隊一同のほか、医務局の導士たちがいる。
医務局の導士の大半が、魔法医療の専門家であり、真星小隊の四人は、それぞれにわかれて診察をしてもらったり、治療をしてもらっていた。
もっとも重傷だった幸多は、真っ先に愛の診察を受けることとなった。
右肩から先を綺麗に吹き飛ばされ、失っているのだ。右眼も重傷を負ったが、いつの間にか元通りに復元していた。
そのことを愛に話すと、幸多の体内に超高性能な分子機械が埋め込まれているからだろう、という結論に至った。元より多少の怪我などあっという間に治ってしまうという体質だったこともあり、その程度のことでは驚くこともないのだが。
しかし、自分の体質についての真実が多少なりとも明らかになれば、考えるものである。
体内に蠢く大量の分子機械。それも超技術によって作られたものであり、だからこそこの肉体を維持できているというのだから、感謝しても忌み嫌う理由はない。
この魔素を一切持たない肉体を保つ唯一に近い正解が、それらの超分子機械なのだというのだから。
それと、技術局特製の医療用分子機械。
数多の分子機械が、幸多の肉体を構成しているといっても過言ではなかった。
ただし、眼球を深々と抉ったような傷くらいならば治せても、吹き飛ばされた右腕を復元するようなことはできない。
『マモン事変のときは復元できたようだから、たぶん、分子機械の機能を最大限に発揮できれば、不可能ではないんだろうけれどね』
と、愛はいったものの、再現性のないものに拘る必要はなく、イリアが完成させた幸多専用の生体義肢を使うべきだという話になっていた。
そして、愛の診察を終えた幸多は、いまはイリアの相手をしているというわけであり、そんな彼の様子を横目に見ては、義一は、少しばかり同情しないではなかった。
「本気なんですかね?」
「イリアはいつだって本気だよ、困ったことにね」
「はあ……」
「まあ……いろいろとあるのさ。深い事情がね」
「そうですか」
どのような事情があろうとも、年上の赤の他人に兄扱いされるのはいかがなものか、と、思わないではない義一だったが、しかし、よくよく考えてみれば、自分も似たようなものなのではないか、と思い至る。
伊佐那家に血の繋がりはない。
麒麟と義一だけが、同じ血の持ち主であり、義流や美由理は、麒麟に引き取られた孤児であって、血縁ではないのだ。
血が、全てではない。
それが麒麟の考えだが、結局のところ、伊佐那の血が重要であり、必要不可欠だからこそ、自分が誕生したという事実から目を逸らすことはできない。
血こそが、受け継がれる能力こそが、真眼こそが――。
「また、無茶をしたもんだ」
愛は、義一の右手首に触れながら、いった。彼の右手首は、焼け爛れており、その傷痕の痛々しさは見るものに覚悟を必要とさせた。
だが、そういう傷は、この戦場で数多に見た。
だからこそ、愛は、魔法医療の全てを用い、負傷者の手当に全力を尽くすのだ。
義一は、自身の右手首を見つめながら、あのときの光景を脳裏に思い浮かべる。
殻石が光を放ち、スルトの幻躰が出現した瞬間のことだ。
美零は、殻石の律像を解析するのに精一杯で、対応できなかった。故に右手首を吹き飛ばされたのであり、危うく致命傷を負うところだったのだ。
「……そうしなければなりませんでしたから」
「わかってるよ。あんたの、美零ちゃんの機転のおかげだってこともね。でもそれはそれとして、だ。自分の体は大切にしなくちゃいけない」
「ぼくたちには、いくらでも代わりはいますから」
「きみたちは、一人だよ」
「はい?」
「伊佐那義一と伊佐那美零は、この世にただ一人だってこと。お姉さんから聞いていないのかい?」
「姉?」
「美由理は、いつだってあんたたちのことを想っているんだ。だれよりもね」
義一は、愛の目を見つめた。彼女の微笑は、いつも軽薄そうに見えて、実際にはそうではないということは、義一にはよくわかっている。誰よりも優しく、だからこそ、突き放すような表情をしてしまうのだ、と。
それが戦団の女神なのだ、と。
「もちろん、あんたたちが命を懸けなきゃならなかったのも理解しているだろうけどさ。それはそれとして……さ」
美由理の気持ちも考えてあげて欲しい、と、言いかけて、愛は口を噤んだ。そんなことをいったところで、どうなるものでもない。
あのときは、ああするのが一番だったのだ。
美零も義一も正しい行動をした。
その結果、命を失うのだとしても、二人は、胸を張って死んでいっただろう。
この戦場で死んだ数多くの導士たちと同じように。
だからこそ、愛は、やるせないのだ。
胸を張って死んでいくことに、一体、どんな意味があるというのか。
「これが龍宮……」
「跡地ね」
「どこまで深いのでしょうか」
美由理は、瑞葉、神流とともに仮設本陣の大半を飲み込んだ大穴の淵に立っていた。
かつて、オトヒメの〈殻〉龍宮が存在していた盆地は、オロチの暴走によってさらに巨大でとてつもなく深い穴となっていた。
以前は、淵から盆地の最深部まで見渡すことができていたのだが、今や、最深部を覗き見ることなど叶わなくなっている。
夜であり、穴の中がさらなる闇に覆われているということもあるのだろうが、それにしたって、大きすぎたし、深すぎるのではないか、と、想わざるを得ない。
それほどまでにオロチの力が絶大だったということなのだが、そうすると、そのオロチを一撃の下に打ちのめした神威とは一体何者なのか、と、美由理は考える。
すると、大穴の闇の中に神威の顔が浮かび上がってきたものだから、美由理は、頭を振った。幻覚でも見たのかと想ったのだ。が、そうではなかった。
「遅かったな」
神威が、大穴の奥底から浮上してきたのである。
予期せぬ事態だった。
神威がおもむろに魔法を使うことなど、あることではない。
「オトヒメが待ち侘びているぞ」
「閣下お一人で大丈夫だったのですか?」
「……いまさら、おれに手を出すと想うか?」
神威が、自嘲とも苦笑ともいえない表情をしてきたものだから、星将たちは顔を見合わせた。どのような対応をするべきなのかとわずかに考え込む。
そうしている間に、神威が踵を返した。
「行くぞ。ついてこい」
「はっ」
神威に命じられるまま、美由理たちは、大穴の中へと足を踏み出した。飛行魔法を発動し、降下していく。
巨大な闇の、ただ中へ。
「オロチは、龍宮を消滅させたが、〈殻〉そのものは無事だ。ここからではまったく見えないがな」
「それだけ深いということですね?」
「そういうことだ。葦原市からネノクニに到達する深さだと思えばいい」
「深すぎでは?」
「そうだな。深すぎる」
神威は、遥か眼下を見遣りながら、闇の彼方に淡い光が広がるのを認めた。オトヒメの殻石が放つ、青白い光の結界だ。
そして、それこそがオトヒメの〈殻〉であり、龍宮なのだ。
竜級幻魔オロチを祭神として祀る祭壇であり、神殿たる領域。
「だが、それでいい」
それほどの深さだ。
そう簡単には近づくこともできなければ、そんな場所に戦力を送り込もうという鬼級幻魔もいないのではないか、とも思えた。
なにより、これほどの深さならば、万が一にも戦団の人間が間違って踏み込むような余地はない。
「この最深部ならば、オロチも安心して眠り続けられるだろう」
「オロチは、再び眠った、と」
「ああ。眠ったよ。オトヒメの無事を確認して、安心したらしい」
「そんなことが……」
美由理には、にわかには信じがたいことであり、神流や瑞葉と目線を交わした。星将たちも疑問に思うところがあったようだ。
やがて、大穴の底が見えてきた。
青白い光に包まれた領域には、オロチの巨躯が幾重もの輪を描くように横たわっていて、その中心に異形の頭部があった。
そして、オロチの鼻先にオトヒメとマルファスがおり、こちらを仰ぎ見ていた。