第七百八十話 使命について
「ああ。終わったようだね」
瑠衣は、大きく息を吐きながら、いった。
オロチの覚醒に次ぐ非常事態であったブルードラゴンの襲来は、どういうわけか、蒼龍が退散したことによって事なきを得たらしい。
情報官からの通信だけではなにがなんだかわからなかったものの、戦団史上最大最悪の危機は去ったというわけだ。
「本当に……よかった……」
美零は、胸を撫で下ろすと、目を閉じた。そして、そのまま、心の深層へとその意識を沈めていく。
次の瞬間には、義一の意識が目覚めていて、肉体もまた大きく変化していた。女性のそれから、男性のそれへと。彼は、自分が置かれた状況を理解していたから、速やかに転身機を作動させ、自分用の導衣に着替えた。
大きな戦いこそ終わったが、自分たちがいるのは空白地帯のど真ん中であり、周囲には大量の幻魔が蠢いているのだ。
杖長たちが星象現界を使っていることもあって、幻魔たちは警戒し、おいそれと手を出してこないようだが、それもいつまで持つものか。
幻魔は、魔素質量に引き寄せられる。
本能が、魔素を、魔力をこそ求めるからだ。
それが幻魔由来のものでないのであれば、なおさらである。
いずれ、杖長たちに牙を剥く可能性を考えれば、備えておくべきだった。
「ん?」
瑠衣が、そんな義一の変化を認めて、怪訝な顔になった。顔立ちこそ変わらないものの、体型が一瞬前とは大きく違っているように見えたからだ。
瑠衣たちは、義一の秘密を知らない。
そして、知らない以上、気のせいとしか思えないのが彼の秘密なのだ。
「ただいま」
義一は、幸多たちにそっとつぶやくと、真眼で周囲を見回した。
「美零のことは、秘密だよ」
「お、おかえり。うん……わかってる」
「おう、元気そうでよかったぜ」
「義一くん、無事だったんだね」
「無事じゃなかったけど」
義一は、無数の動態魔素が意思を持って動き回っている様を全周囲に見出しながら、幸多から振り落とされないようにと気を引き締めた。
真星小隊の全員が、幸多の鎧套・銃王弐式にしがみついている。銃王弐式の追加装備である千手の四本の腕、その三本に義一と九十九兄弟が抱えられているのであり、そして幸多は、地上を超高速で滑走しているのである。
そんな真星小隊の頭上を飛行しているのが杖長たちであり、時折飛来してくる幻魔の攻撃に対しては、真白の魔法壁や、杖長たちが応じた。
少し前まで蒼焔原野と呼ばれていた大地は、いまやただの穴だらけの荒野であり、ありふれた空白地帯の一風景に過ぎない。
頭上から降りしきる星明かりは、この起伏に富んだ大地のなにもない有り様をはっきりと見せつけるようだったし、巨大な月の青白い光は、なによりも膨大で、全てを包み込むかのようだった。
あれほどまでに荒れ狂っていた熱気が、嘘のように消え失せている。
「でももう、大丈夫。そのまま真っ直ぐいけば緋焔峡谷だよ。戦場から退散中の幻魔が大勢いるから、気をつけて」
義一は、幸多に進路を指示しながら、美零の決断について考えていた。
スルトが戦場に降臨し、その際の爆撃に巻き込まれたがために意識を失った義一は、気がつくと、白い部屋の中にいた。美零が義一の意識の深層に作り上げた、彼女の部屋。その窓から覗くのは、真眼を通してみる外界であり、美零が決意を以て動き出したことがはっきりと見て取れたのだ。
戦場に二体目の鬼級が現れたという事実を踏まえれば、美零があのような決断をするのもわからなくはない。
状況は最悪だった。
窮地も窮地、元より勝ち目の薄かった戦いが、さらに絶望的なものとなったのだ。
アグニこそ星将たちが斃してくれるだろうが、だとしても、スルトは、どうか。
そこにホオリまでもが現れたという報せが届けば、美零の決断が間違いではないことを示した。
美零の決断。
つまりは、真眼の、伊佐那の後継者の使命を果たそうということ。
伊佐那麒麟複製体零号の、そして、壱号の宿命。
〈殻〉制圧に必要不可欠な真眼の使い手を確実に生み出すために行われた伊佐那麒麟複製計画は、美零によって成功を見せ、義一によって完成した。
美零と義一がここで死んだとしても、なんの問題もない。
目的さえ、使命さえ果たすことができるのであれば、命など惜しくはなかった。
そのためのこの命だ。
そのためだけの――。
「義一くん」
不意に声をかけてきたのは、黒乃だった。見れば、彼は心配そうな表情で義一の顔を覗き込んでいる。
「うん?」
「本当に大丈夫?」
「……大丈夫」
とはいったものの、義一は、自分が深刻そうな顔をしていたことに思い至り、苦笑した。心配させてしまったのは、自分が余計なことを考え込んでいたからだろう。
真星小隊と杖長たちは、ほんの少し前まで緋焔峡谷として紅蓮の炎に彩られていた領域へと到達し、幻魔の大群を彼方に見遣った。
谷間を埋め尽くす幻魔の群れは、いずれもが緋焔門の向こう側の戦場から撤退している最中なのだろう。
スルトが斃れ、スルト軍が解散しただけでなく、〈殻〉までもが失われたいま、彼らの本来在るべき場所すらもなくなってしまった。
さらに竜級幻魔が二体、立て続けに出現したことによって、幻魔たちは混乱し、恐慌状態に陥っていたのだとしてもなにもおかしなことではない。
ただひたすらに峡谷を北へ、空白地帯のどこかへと向かっているようだ。あるいはつぎの安住の地を探しているのかもしれない。
幻魔の大半は、谷間を通って移動しているということもあり、真星小隊と杖長たちは、高く連なる山嶺のただ中を移動した。
空中高くを移動しないのは、上空にも大量の幻魔がいるからであり、それら飛行型の幻魔から逃れるためでもあった。
杖長三名が救助に来てくれたとはいえ、余計な戦闘は避けるべきだった。
誰もが消耗し尽くしている。
特に瑠衣と巴は、星象現界を発動していることもあり、常に大量の魔力を消耗しているに違いないのだ。
だからこそ、道を急ぐ。
幻魔と遭遇することのない道筋を義一が見出し、その道順通りに滑走していく。
戦いは終わったが、安心していいわけではない。
ここは、魔界。
数え切れないほどの幻魔が棲息する世界。
そんなことを考えている間に、幸多は、いまだ凍り付いたままの緋焔門を遥か前方に発見した。大氷壁と化した緋焔門を乗り越えてこちら側へと移動している幻魔の数も、段々と少なくなってきている。
その様を見れば、幸多もようやく安堵することができた。
「ここまできたら、後は一っ飛びかね」
「そうね。そのほうが楽だわ」
「ええ」
瑠衣たちは、一応、周囲を見回すと、それぞれの飛行魔法を最大限に発揮した。幸多たちを魔法の球体で包み込むと、そのまま空中へと持ち上げ、彼らが慌てふためくのも無視して、上空へと飛翔する。
星々煌めく夜空の下を全速力で飛翔して、あっという間に緋焔門を飛び越えて、龍宮側へと至る。
眼下には主戦場が広がり、その黒く焼け焦げた大地を大量の幻魔の死体が埋め尽くしている様子が見て取れた。
スルト軍、オトヒメ軍、双方の幻魔たち。
導士の亡骸は、見受けられない。
幻魔の死骸の下に埋もれているのかもしれないし、あるいは、既に回収されたのか。
最前線で戦っていた導士たちは、既に戦団本陣へと帰投しており、そこで治療を受けたり、休息をしているという話を情報官から聞いている。
幸多たちも、杖長たちによって本陣へと連行されていた。
戦場を南下していく最中にも、大量の死骸を見た。アグニによって殺戮されたオトヒメ軍の幻魔たち。そして、アグニの亡骸も見た。
三人の星将が見事その役割を果たしたのだが、しかし、それだけでは戦いは終わらなかった。
スルトとホオリまで出張ってきたからだ。
幸多は、義一の横顔を見た。
黄金色に輝く瞳にいまなにが映っているのか、幸多には想像も付かない。
彼――いや、美零がその機転を働かせなければ、この勝利はなかったに違いないのだが、義一は、どこか浮かない顔をしていた。
まるで、使命を成し遂げられなかったといわんばかりの表情だった。