第七百七十九話 人間と幻魔
「ほう……どういう風の吹き回しだ?」
神威は、ゆっくりと地上へと降下した。
龍宮の直上から、北へ。
オロチの暴走によって壊滅的被害を受けたのは、なにも龍宮だけではない。その周囲一帯の広範囲に渡る地形が徹底的に破壊されていた。
龍宮北東部に設けられた戦団本陣もまた、その半分ほどが破壊に呑まれてしまっていた。幸い、神威の避難指示によって、巻き込まれた導士はいないようだが。
そんな本陣の只中を多数の導士たちが走り回ったり、通信機越しになにやら言い合いをしている様子がうかがい知れる。レイラン・ネットワークが混線していることも、この混乱の原因ではあるのだろう。
なにもかもが理解できる。
感覚が冴え渡っていて、微々たる変化も伝わってくる。
それもこれも、竜眼の影響だ。
竜眼を発動するということは、一時的に竜になるのと等しい。
人間の身に宿った幻魔の力、それが竜眼であり、その力を解き放つと、神威の肉体は大きく変容するのだという。
竜眼から大量に流れ込んでくる幻魔成分が、人間成分を押し潰していくのだ。そして、神威の肉体を構成する要素のほとんどが幻魔と同じになる。
まるで本荘ルナのように。
眼帯型制御装置で抑え込めば、次第に元の状態、つまり人間化していくのだが、それでも完全に元通りになるには時間がかかった。
半ば魔晶体と化していたのだから、当然といえば当然だろうが。
そんな違和感の中で地上に降り立てば、マルファスと目が合った。赤黒い彼の瞳は、神威に対して、なにやら感じ入るものでもあるような、そんな様子だった。
「せめてもの礼だ」
「龍宮は滅びたぞ」
「……滅びてはいない」
神威の発言に対し、マルファスは肩を竦めた。眼下を見渡す。
元より広大な盆地に築き上げられていたオトヒメの都市は、オロチの覚醒によって根底から破壊され尽くした。さらに巨大で深い穴となり、底が見えないほどにになったしまったが、〈殻〉の結界そのものの存在は確認できる。
遥か地中に、確かにオトヒメの〈殻〉が存在するのだ。
それはつまり、龍宮が存在していることの証だ。
龍宮とは、オトヒメの〈殻〉なのだ。
「都市としての龍宮は消え去ったが……なに、また作り直せばいい。もちろん、オトヒメがそれを望めば……だが」
「ふむ……」
神威もまた、奈落の底を見下ろすようにして、遥か地下深くまで穿たれた巨大な穴に視線を落とした。鋭敏化した神威の左眼を以てしても、底が見えない。暗闇に覆われ、底に沈んだだろうオロチの巨躯すらも隠れてしまっている。
休眠状態に陥ったこともあるのだろうが、オロチの魔素質量すら感じ取れなかった。
これほどまでに感覚が研ぎ澄まされているというのに、だ。
それだけ、この大穴が深いということにほかならない。
だとすれば、オロチが怒りのあまりどれほどの破壊を行ったのかがわかろうというものだろうし、龍宮に残っていた幻魔の中に生存者はいないということもわかる。
「しかし、驚いた」
「うん?」
「おまえは、なんだ?」
「ただの人間だよ……と、いいたいところだがな。どうやら、そうではないらしい」
「見ればわかる。竜級と渡り合える人間がいてたまるものか」
「まったくだ」
神威は、苦い顔をして、マルファスに視線を戻した。鬼級幻魔の漆黒の翼が光を帯びたかと思えば、本陣上空に黒く巨大な球体が出現する。
それはゆっくりと地上に降りてきて、神威の目の前で霧散した。
そして、彼は、さらに渋面を作る。
目の前に出現したのは、大量の亡骸だったからだ。龍宮防衛戦に動員された導士たちの死体。死因のほとんどが爆発なのだろう。原形を留めている死体のほうが遥かに少なく、体の大半を失っているものが多かった。
どれもこれも無惨な亡骸ばかりだ。
「導士たちの亡骸という亡骸を集めてみたが……わたしに出来るのはここまでだ」
「いや……ありがたい。あのような惨状から導士たちの亡骸だけを回収するというのは、困難を極めるものなのだ」
神威は、心の底から、マルファスに感謝した。
マルファスが空間転移魔法の達人だということはわかっていたが、こうまで完璧に、導士の亡骸だけを転送してくれたとなれば、感じ入る他ない
いずれも目を背けたくなるほどに凄惨な死体ばかりだ。
回収のために捜索すれば、それだけで多くの導士たちが苦しみ抜かなければならなかっただろう。
神威は、己の左眼に焼き付けるようにして、導士たちの死を見つめる。
それが、彼に出来るただ一つのことだ。
若く、将来有望な導士たちばかりだった。
才能をやる気に満ち溢れた若き星々は、神威の命令によって最前線へと送り込まれ、大量の幻魔を相手に奮戦しながらも、無念にも命を落としていった。
神威を恨みに思ったものもいるかもしれないし、怨嗟の声を上げながら死んでいったものもいるのではないか。
作戦や任務が終わり、戦死者が出るたびに、彼はそんなことを考えてしまう。
悪い癖だ。
それもこれも央都のため、人類のためであり、神威が望んだ戦いなどでもなければ、できるならば避けたかった戦いにほかならない。
だからといって、出てしまった犠牲から目を背けて良い話ではない。
「ふむ。しかし……人間も面倒だな」
「ん?」
「死者を弔うなど、幻魔にはない文化だ。博愛主義者のオトヒメでさえ、死んだ幻魔を葬り、弔うような真似はしない」
「そうか」
神威は、マルファスの発言に生返事を返すと、部下たちに導士たちの亡骸を処置するように命じた。
人間と幻魔は、違う。
生物としての成り立ちからして異なれば、考え方や在り方、なにもかもが違うのだ。
同じものは、なにひとつとして存在しないのではないか。
そんな事実は、改めて理解する必要はない。
神威は、戦死者たちの亡骸を回収してくれた事実にこそ感謝すれ、マルファスを理解しようとは思わなかったし、当然、マルファスも人間に歩み寄ろうとはしないだろうとも思っていた。
人間と幻魔の間にある断絶は、ちょっとやそっとのことで飛び越えられるものではない。
「終わった……のかな」
美零のどうにも不安げな一言に返す言葉もなく、幸多は、前進を続ける。
真星小隊は、杖長たちの救援によって、窮地を脱した。
荒井瑠衣だけでなく、躑躅野莉華、鍵巴が真星小隊の救助のため、この空白地帯のど真ん中へと飛び込んできてくれたのだ。
『ムスペルヘイムも吹っ飛んだからね。ここまでくるのは案外楽だったよ』
『統制も失われていたからな』
『それもこれも、あなたたちの大活躍があったからこそよ』
杖長たちは、真星小隊を窮地から助け出すと、口々にいったものである。
三人が真星小隊の救援に赴いたのは、本陣からの指示に従ってのことだった。
スルトが斃れ、ムスペルヘイムが崩壊すると、スルト軍そのものが大混乱に陥った。
ただ最高指揮官が滅び去っただけではない。
幻魔の軍団というのは、殻印による絶対の統制があって初めて成り立つものだ。殻主が滅び、殻印が失われれば、指揮系統が乱れに乱れるのも当然だったし、部隊長級の幻魔たちも、我先にと戦場を離れていったのである。
戦場は混沌と化したが、さらに混乱の渦に飲まれていたのは、ムスペルヘイムである。
いや、もはやムスペルヘイムと呼ぶことすらできなくなったただの空白地帯は、当時、大量の幻魔が戦場に向かっている最中だった。
それが突如として行き場を失った。
となれば、大混乱が生じるのは道理であり、その混乱が真星小隊に牙を剥く可能性、危険性を察した作戦部の指示により、手が空いた杖長たちが投入されることになったのだ。
しかも、念には念を入れて、星象現界の使い手を二名、手配した。
荒井瑠衣と鍵巴である。
そこに躑躅野莉華が加わり、三名でもってこの空白地帯を飛び越えてきたのであり、すぐさま、真星小隊を発見することができたのは、僥倖というほかなかっただろう。
そして、三人は真星小隊を救助し、七人で歩調を合わせながら、空白地帯を南下していた。
幻魔の群れのただ中を。