第七百七十八話 状況
「まったく……次から次へと。おまえたちには情緒っていうものがないのか。ないんだろうな」
問いかけておいて一人で納得したのは、相手が答えてくれないことを理解しているからにほかならない。
神威は、オロチが龍宮跡地の奥深くへと沈み込み、起き上がってこないことを確認しつつ、夜空に輝く青白い異形を睨み据えた。
燃えるように輝いているのは、鱗である。蒼白の鱗に覆われた巨躯は、まさにドラゴンそのものであり、蛇とも鰐ともつかない、しかし威圧的で禍々しい頭部には、虹色の双眸が光を放っていた。
首は長いが、オロチほどではない。隆々たる肉体には二本の腕と二本の足があり、長すぎる尾が生えている。背には、二対の翼があった。飛膜を持つ翼もまた、鱗に覆われており、全身を包むその鱗が青白い光を帯びている。
オロチが東洋風の龍ならば、ブルー・ドラゴンは西洋風の竜というべきか。
しかし、姿形こそ違えど、その巨大さに大差はない。
全長数百メートルはあろうかという巨体であり、その全身に絶大極まりない魔力――いや、星神力が満ちている。周囲には、その全身から発散される星神力の波動が渦巻き、魔素が乱れ、異常事態が起きているほどだ。
休眠状態のオロチに近づくことですら不調を訴える導士が続出したほどだ。
活動状態の竜級となれば、接近することすら自殺行為になりかねない。
並の魔法士ならば、だが。
神威は、律像を練り上げながら、蒼龍の周囲にも高密度の魔法の設計図が紡ぎ上げられていく様を見て取った。
「やはり……そうなんだな」
右眼に触れる。
神威の本来の右眼は、初めてブルー・ドラゴンに遭遇したときにくり抜かれた。そして、気づくと、竜の眼ともいうべき物体が生じていたのである。
それがブルー・ドラゴンによって植え付けられたものであり、神威の魔力を吸収して成長した異物であることは、随分と昔に判明したことだった。
そして、神威が魔法を駆使するたびに、それは現れた。
いま、神威の遥か前方上空に浮かぶ災厄の化身が、である。
そのたびに神威の周囲に災害が巻き起こされた。開発途上の央都が破壊され、多数の導士が命を落としたことも、神威にとっては忘れがたい記憶だ。
神威の魔力に、この竜眼の力に引き寄せられているのだと気づいたのも、随分と昔だ。
確証は、なかった。
だが、いままさに確信する。
ブルー・ドラゴンは、神威の右眼が放つ竜の魔力をこそ目的として、この場に現れたのだ、と。
(間違ってはいなかった)
確信とともに、拳を固める。歯噛みして、竜を睨む。竜もまた、神威を睨んでいる。嘲笑いなどはしない。ただ、睨み据え、戦いが始まるのを待ち侘びているかのようだった。
竜級は、鬼級とは比較にならない力を持っているが、それはなにも魔法に関する話だけではない。生命力も、身体能力も、あらゆる能力が圧倒的に強大なのだ。
知能も、きっと――。
故にこそ、多くの竜たちは眠るのではないか。
自分たちが動けば、それだけでこの星が崩壊しかねないことを知っているから、自分たちの存在が、この星にとっての厄災以外のなにものでもないことを理解しているから、竜たちは、夢を貪るのではないか。
余程のことがない限り眠り続ける竜たち。動くのだとしても、外圧への反応であり、受動的なものだ。
ブルー・ドラゴンのように能動的に行動を起こす竜級幻魔は、ほかにはいないのではないか。
いたとすれば、世界は、もうとっくに破綻していたはずだ。
竜の力とは、それほどまでのものだ。
絶対的な、神に等しい力。
そんなものを強制的に受け渡されたのが神威であり、そうでありながら、その力を思うままに振るうことができなかったのもまた、神威なのだ。
これだけの力を思う存分振り回すことができれば、この地上から幻魔を一掃することも不可能ではないのではないか。
そんな夢想をしたことは、何度あるものか。
そんなことができれば、少なくとも央都の安全は約束できるだろうし、〈七悪〉など相手になるまい。
あらゆる幻魔災害を一蹴できる。
ただし、その余波による被害を無視すれば、の話ではあるが。
故に央都の真っ只中で竜の力を振るうことはできないのだが、それ以上の理由が、いま、彼の目の前に起きている事態である。
ブルー・ドラゴン。
旭桜の死の直後、その魔力を苗床として誕生した竜級幻魔は、戦団にとっての死の象徴そのものでもあった。
神威は、ブルー・ドラゴンが攻撃してこない様子を見て、左手に握り締めたままの眼帯を見下ろした。戦団技術局特製の最新型魔力制御装置であるそれを身につけた瞬間、神威の周囲に浮かんでいた律像が霧散する。
それどころか、神威の全身に満ちていた星神力が、瞬く間に消えて失せた。代わりに満ちたのは、常識的な量の魔素であり、魔力ですらないものだ。
竜眼は放っておけば暴走する可能性を常に孕んでいることもあり、神威は、戦団の技術力を結集させ、制御装置の開発を急がせた。しかし、完全無欠の制御装置、封印装置の完成には程遠い。
神威がわずかに力を込めるだけで吹き飛びかねないのだ。
当初は、頭部の大半を覆うほどの大きさだったそれは、技術力の進歩にともない小型化、軽量化していき、ついにはありふれた眼帯になった。
この魔法社会において眼帯など、ただのファッションに過ぎないし、神威のそれもファッションとして受け止められていたりする。
それはともかくとして。
神威が眼帯を装着した瞬間、ブルー・ドラゴンは、こちらを睨みつけていた目を細めると、周囲を見回した。その虹色の眼差しが見つめる先には、数百名の導士と数え切れない数の幻魔がいるのだろうが、それらを視て、竜がなにを考えるのかなど、神威にはわからない。
蒼龍の目的が竜眼を解放した神威ならば、今やこの場に用はないはずだった。
なにかしら強引な方法で神威に力を引き出させるということも考えられたが、しかし、そうはならなかった。
竜は、興が失せたといわんばかりに律像を霧散させ、首を巡らせた。四枚の巨大な翼を羽撃かせ、去って行く。
青白い光は、さながら流星のように遥か彼方へと飛んでいった。
一瞬だ。
一瞬にして、神威の視界から消え去り、戦団の監視網からも離れてしまったようだ。
『ブルー・ドラゴンの固有波形、消失。完全に見失いました……』
「……状況終了。全軍に本陣へ帰投するよう命じる。戦死者の亡骸は、明日以降捜索することとする」
神威が本陣に伝えると、情報官を通じて導士たちにも伝わることだろう。
戦闘は、終わった。
龍宮防衛は、失敗した。
オロチが覚醒し、暴走することとなり、神威が出張る羽目となった。その結果、ブルー・ドラゴンすら引き寄せてしまったのは、想定の範囲内ではあるのだが、しかし、想定しうる最悪の事態ではあった。
もし万が一にでも、ブルー・ドラゴンと戦うようなことになれば、神威が全力を駆使しても斃せたものか、どうか。
何度となく戦い、そのたびに敗れてきたのが神威だ。
ブルー・ドラゴンとの力の差は、絶望的だ。
だからこそ、いまは戦えない、と判断した。
神威だけでは、足りない。
もっと力が必要だ。
その力とはなにか。
神威は、考えながら、戦場を見渡す。
戦いは終わり、戦場には大量の死が満ちていた。
誰も彼もが死んでしまった。
導士たちも、幻魔たちも、味方も、敵も。
数多の死が、この夜明け前の戦場に莫大な魔力となって渦巻いている。死が生み出す莫大な魔力。それらはさながら亡者のように戦場の上空を渦巻き、そして、大量の幻魔が発生していく様は、いつにも増して不気味で、なんともいえず虚しいものだ。
戦死者の亡骸は、そんな混沌とした戦場のそこかしこに散らばっていて、いますぐ回収することは難しい。そう考えていた矢先だった。
「その心配は不要だ」
地上から声をかけてきたのは、マルファスであり、彼は黒く輝く翼を広げていた。
「人間の亡骸は、わたしが回収しておこう」