第七百七十七話 ロック
「た、助かった……のか?」
真白が機械の腕にしがみつきながらも身を乗り出していたのは、遥か南方、龍宮付近で激戦が起きていたからだ。
バアル・ゼブルによるオトヒメの幻躰の破壊、それに伴うオロチの覚醒などという、混乱をきたしかねない情報が怒濤のように押し寄せてきたが、それを把握したのは、オロチの咆哮が天地を震撼させた後のことだった。
オロチの姿は、ムスペルヘイムだった空白地帯の真っ只中からでもはっきりと見えていた。
とてつもなく巨大な大蛇そのもののような竜級幻魔である。その絶大な魔力が光の柱となって天を衝き、その中に浮かぶ様は、なにもかもを圧倒するようだった。
ムスペルヘイムといえば、〈殻〉の崩壊によってあれほど燃え盛っていた炎の全てが消え去り、燃え立つのは混乱中の幻魔たちばかりであり、かつての面影がどこにも見当たらなくなっている。
真星小隊は、そんな跡地にあって、かつて紫焔回廊と名付けられていた区画、その物陰に身を隠していた。
スルトの支配が失われ、野良に帰った幻魔たちが、その混乱の中で歩き回っているのだが、見つかれば戦闘になるのは間違いない。
いま、この状況下での戦闘は避けたかったし、故に慎重に行動していた。
「オロチは……沈んだわ」
とは、美零。彼女も千手の機械腕にしがみつきながら、遥か前方を見遣っている。
真眼を用いていたことで、、オロチが、どこからともなく現れたもう一体の竜によって打ちのめされたことがわかったのだが、その竜が一体なにものなのか、美零には皆目見当もつかない。竜級幻魔の圧倒的な魔素質量に、眼がやられている。
(いや……)
美零は、胸中で頭を振る。
神威がオロチと対面した際に視た違和感を思い出したのだ。義一が視たそれは、神威にオロチと同質の魔素質量を見出したというものであり、通常、ありえないことだったから、考えなくなっていたことだ。
だが、しかし、ありえないこととしか思えない。
人間が竜級幻魔と同等の力を発揮しうるのだろうか。
もし仮に神威が竜級と同等の力を持っているというのであれば、人類復興などあっという間に可能ではないか、とも、考えてしまう。
竜級と鬼級の差は、圧倒的という言葉すら生温いものだという。
神威ならば、央都周辺の〈殻〉を容易く制圧し、幻魔を滅ぼし尽くすのも不可能ではないのではないのか。
神威一人でこの魔界を制圧することさえ、可能ではないか。
「沈んだ? 誰が、どうやって?」
「それは……」
美零が口籠もったのは、そうしている間にも事態が進行したからだ。通信機が、情報官の悲鳴を捉えている。
『――ブルー・ドラゴンです!』
「はあ!?」
真っ先に素っ頓狂な声を上げたのは、誰だったのか。四人同時だったかもしれない。
「今度はブルー・ドラゴン!?」
「ブルー・ドラゴンって、あの?」
「それ以外考えらんねえだろうが!」
「ちょっと、皆――」
美零が真白たちの大声ぶりに慌てたのは、あまりにも遅かった。
気づくと、炎と燃える巨人たちが真星小隊を包囲しており、紫焔回廊の壁越しにこちらを覗き込んでいたのだ。
妖級幻魔イフリートが、四体。
「おいおいおいおい」
「これは……」
「ちょっとヤバいかも……」
「逃げるよ。振り落とされないようにね!」
幸多は、千手で掴んだ三人に告げると、縮地改を加速させた。直後、紅蓮の猛火が、幸多が先程まで立っていた場所を灼き尽くす。
熱気が、背後から押し寄せてくる。
幸多は、振り向き様に煙幕弾を乱射し、イフリートたちの意識をそちらに集中させると、さらに速度を上げた。
紫焔回廊の入り組んだ通路を、とにかく疾駆する。
いまの騒ぎで、周囲にいた幻魔たちが一斉に動き出していた。
元スルト軍の幻魔たち。
主による命令ではなく、幻魔としての本能が、敵意となって幸多たちに向けられる。
紅蓮の巨鳥スザクが火の雨を降らせながら急降下してきたかと思えば、三つ首の炎狼ケルベロスが火炎の息を吐き出してくる。ガルムとカソが群れを成して突っ込んできたものだから、美零と黒乃が攻型魔法で吹き飛ばし、血路を開いたのも束の間、炎の壁が前方に立ちはだかる。
「突っ込め!」
「うん!」
真白の魔法壁を頼りに、幸多は前進する。
炎の壁を突き破っても熱気すらも感じなかったのは、それだけ真白の防型魔法が完璧だったということだ。だが。
「数が多い!」
「どれもこれも野良の幻魔だよ。スルトが死んで、目的を失ったから、どうしたらいいのかわからないって感じじゃないかな」
「だったら別の〈殻〉にでも行けってんだ!」
「兄さんのいうとおりだよ」
九十九兄弟がうんざりするのもわかりすぎるくらいに、真星小隊に迫り来る幻魔の数は多かった。どれだけ突き進んでも、減るどころか、増える一方なのだ。
幸多は、煙幕弾や閃光弾を駆使して幻魔の目を欺き、美零の指し示す進路を疾駆する。美零は、真眼を酷使して幻魔の少ない方向へと導いているのだが、そこへ到達したときには、周囲には幻魔が溢れていることばかりだった。
先回りされているかのようだが、本当のところはわからない。
やがて、蒼焔原野だった地帯が見えてきたときだった。
ヴィーヴルの群れが、進路上に立ちはだかったのだ。十体以上の妖級幻魔に進路を阻まれれば、幸多も立ち往生するしかない。
「探したわよ、人間ども」
ヴィーヴルの一体が、物凄まじい表情でこちらを睨んできたものだから、幸多たちは顔を見合わせた。脳裏に、侵入直後に遭遇したヴィーヴルが過る。
「まさか、あのときの?」
「だとしたら執念深いったらありゃしねえ」
「なんとでもいいなさい。あなたたちを見逃してしまった結果がこれなら、わたしにも意地があるわ」
ヴィーヴルがその長い腕を頭上に掲げると、巨大な火球を生み出した。他のヴィーヴルたちも同様だ。無数の火球が、周囲を囲む。
「あなたたちは殺すわ。それでなにが変わるわけでもないけどね」
「はっ、だったら見逃して欲しいもんだぜ」
「幻魔が人間を見逃すと思う?」
「ぼくたち、オトヒメと手を組んだんだけど」
「幻魔の風上にも置けないわね!」
ヴィーヴルが嘲笑い、手を振り下ろすと、無数の火球が幸多たちに殺到してきた。幸多たちの周囲には、真白の魔法壁が張り巡らされている。堅牢強固なそれは、生半可な攻撃魔法では破壊できないだろうが、上位妖級幻魔が相手ならば、どうか。
それも、十体ものヴィーヴルである。
真白は、さらに高密度の防壁を紡ぎ上げようとしていたのだが、間に合わなかった。負傷を覚悟する。
直後、
「なんとでもいいな!」
響き渡ったのは、苛烈なまでの金切音であり、真星小隊に殺到していた全ての火球が一瞬にして消し飛び、ヴィーヴルたちをも軽々と吹き飛ばしてしまった。
「生き残るためならなんだってやる! それが生存競争ってもんだろ!」
さらに鳴り響く音波が、真星小隊の周囲に降り注ぎ、ヴィーヴルたちの攻撃を弾き飛ばした。
「杖長!?」
幸多は、思わず声を上擦らせながら、頭上を仰ぎ見れば、荒井瑠衣が降りてくるところだった。一人ではない。なにやら二人の導士めいた人影が、彼女に追従していた。
「はっ」
瑠衣は、幸多たちの無事を確認しつつも、ギター型法機をかき鳴らしながら、次々と律像を構築し、鮮烈な歌声とともに魔法を放った。周囲には十体ものヴィーヴルがいるのだ。
いや、それだけではない。
大量の幻魔が、真星小隊を包囲するべく動いている。霊級、獣級、妖級――数多の幻魔が、スルトを失った直後に起きたこの新事態に対応しようとしている。
目的意識を失った幻魔たちが動くのは、いつだって本能だ。
本能が、人間を滅ぼすべく動いている。
そんな中にあって、瑠衣は、幸多たちを振り向いて、笑った。
「まったく、あんたたちはロックにも程があるんじゃないか!」
ムスペルヘイムの真っ只中に一個小隊で潜入し、殻石を破壊して見せるなど、瑠衣からしてみれば、ロック以外のなにものでもなかった。