第七百七十五話 竜級
それが起きたのは、星将たちが戦団本陣へと急いでいる最中のことだった。
「オロチが目覚めた」
そしてそれは、マルファスの説明を聞くまでもなく理解できることだ。
実際、遥か前方でそれが起こったからだ。
まさに天地を震撼させる咆哮とともに、光が立ち上った。
龍宮を滅ぼす光の柱。
それは、龍宮のみならず、周囲一帯に甚大な被害をもたらしており、放っておけば、人類生存圏にまで影響を及ぼしかねないものだ。
だからこそ、幻魔と協力して、スルト軍の侵攻を食い止めたのだが、それが全て無駄になった。
水泡に帰した。
「なぜ? どうして?」
「オトヒメが殺されたようだ」
「え?」
「バアル・ゼブルか!」
「だろうな」
マルファスは、前方に聳え立つ極大の光の柱を見据えながら、いった。
「バアル・ゼブルとやらは、余程邪悪らしいが……そんなことはどうでもいい。オロチが目覚め、龍宮は滅び去った。もはや、どうにもならん」
「どうにも……」
「見ればわかるだろう。竜級幻魔が、なぜ、鬼級どもに黙殺されているのか」
いわれるまでもないことだった。
龍宮を一瞬にして消滅させ、天高く浮かび上がったオロチの周囲に渦巻くのは、絶大としかいいようのない魔素質量であり、魔力だった。
いや、星神力というべきかもしれない。
魔法士たちが膨大な魔力を凝縮、昇華することによって生じるのが星神力だが、オロチのそれは、素のままの魔素が星神力に匹敵するもののように思えた。
幻魔は、魔力を練成しない。する必要がない。
魔力生命体とも呼ばれるような生物だ。
そして、竜級幻魔は、魔力どころか。星神力への昇華すら必要としないのではないか。
オロチの周囲に吹き荒ぶ絶大な力を見れば、そうとしか考えられなかった。圧倒的かつ一方的な力の奔流。大気中の魔素という魔素が狂乱し、大地が打ち砕かれ、地脈から噴き出した光が天へと至る。
オロチの巨躯が、光の柱の中でとぐろを巻くかのようにであり、その背から無数の翼が展開していた。光の翼、その一枚一枚が武装顕現型の星象現界のようだった。ただし、その密度も威力も精度も段違いだろうが。
「人間は、幻魔を霊獣妖鬼竜という等級に区分し、それそのものは間違いではないのだが、我々は、その等級を別の言葉で言い表すことがある。霊級が星屑ならば、獣級は衛星、妖級は惑星、鬼級は恒星相当だ、と。では、竜級はどうか」
マルファスが龍宮直上に出現し、その長大な体躯から無数の翼を展開する大蛇の如きドラゴンを見据えながら、告げる。
「竜級は、銀河そのものなのだという」
「銀河……?」
「はは……笑えないね」
「冗談ではないからな。鬼級と竜級の差は、それほどまでに絶大だ。絶対的といっても過言ではない。鬼級がどれだけ束になろうとも敵うわけがない。そう、恒星がいくら集まろうとも、銀河一つを滅ぼすことなどできないように」
マルファスが語る言葉は、絶望そのものだったが、しかし、美由理たちは、彼の発言を聞き、その内容を咀嚼するよりも遥かに早く、この絶望を感じ取っていた。
竜級が目覚め、天地が震撼した。
ただの咆哮が天を貫き、大地を揺らし、大気を突き抜けて、この場へと到達している。
勝利の余韻は吹き飛び、失意と恐怖が導士たちや幻魔たちを飲み込み、その意気を消し飛ばしてしまった。
もはや、誰も立ち上がれない。
美由理たち星将ですら、なにもできないのだ。
「だが……変だ。明らかにおかしい」
「なにがだ?」
「本陣を訪れたというオトヒメが、そのバアル・ゼブルという鬼級に殺されたのだとして、それで激昂するのは理解ができない。破壊されたのは、幻躰に過ぎないのだぞ」
「……幻躰……確かにな」
「幻躰が破壊されただけならば、オトヒメ様は無事……ということですね?」
「ああ。オトヒメの魔晶核を、殻石を破壊するのは至難の業だ。見たまえ。龍宮は消滅したが、オトヒメの結界そのものは残っているだろう」
マルファスが指し示したのは、天高く浮かぶオロチの、その真下である。オロチの覚醒とともに根底から消し飛ばされた龍宮は、さらに巨大で深い穴となっていた。そして、その広大な穴を覆う魔力の結界が確かに存在することを確認すれば、殻石が無事だということも明らかだ。
では、なぜ、オロチは目覚め、怒り狂っているのか。
「愛着が湧いていたとか?」
「なんだと?」
「オトヒメって、長年オロチを祭殿に祀っていたんでしょ? それこそ、何十年、いや、もっと長くとか。そうしている間にオロチがオトヒメに対してなんらかの愛着を持ったのだとしても、不思議じゃないんじゃない? 竜級はあんたら鬼級の上、それも銀河規模の幻魔なんだもの」
瑞葉はそこまでいって、口を噤んだ。これ以上自分の見解を述べれば、マルファスの怒りを買いかねないのではないかと思えたからだ。
(竜級が鬼級を愛玩動物のように思っていたのだとしても、おかしくはない……はず)
かつて、鬼級幻魔がその〈殻〉に何人もの人間を飼っていたという記録が残っている。
糧として、などではなく、人間が哀願動物を飼うような扱いであったといい、鬼級にとって人間がその程度の存在であることを主張するかのようだった。
鬼級がそうならば、竜級が鬼級にそのような愛着心を持ったとしても、なにも不思議なことはないのではないか。
だから、たかが幻躰を壊されただけで怒り狂ったのではないか。
瑞葉のそれはただの想像であり、推察に過ぎないのだが。
「ふむ……」
マルファスは、瑞葉の意見を受けて、考え込んだ。
そうしている間にもオロチの力は、いや増すばかりだ。爆発的に膨張し、周囲に魔素異常を巻き起こしながら天地を飲み込んでいく。大地が抉られ、地脈が荒れ狂い、レイライン・ネットワークが混乱していく。
このままでは、なにもかもが終わる。
少なくとも、この戦場に展開した二個大隊は消滅するだろうし、星将たちも全滅するしかない。
抵抗のしようがないのだ。
星将たちが全力を合わせて魔法壁を張り巡らせたとして、それでオロチの攻撃を凌げたとしても、それで護ることができるのは、この場にいるものたちだけだ。
それ以外の誰一人として、なにひとつとして護れない。
オロチの暴走にこの地域そのものが破壊され尽くすだけのことではないか。
しかし、
「なにも心配いりませんよ」
神流だけは、この状況で冷静さを保っていた。
オロチの莫大な魔力に全身総毛立ち、体中が灼かれるような感覚に苛まれていたが、精神状態そのものはひどく落ち着いている。
信頼しているからだ。
「わたくしたちには、閣下がいますもの」
神流が見ているのは、戦団本陣であり、そこにはただ一人、オロチの眼前へと進み出る男の姿があった。
特別製の漆黒の導衣が、吹き荒ぶ魔力の中で激しく揺れている。
神木神威である。
「確かに閣下は大星将……英雄の中の英雄だが……」
「そうよ。閣下は強い。わたしたちなんかより圧倒的に……でも、それは、人間の尺度での話でしょう?」
「そうだ。人間になにができる。我々にすらどうしようもないのだぞ」
誰もが神流の発言と神威の行動に疑問を浮かべていると、再び、オロチが咆哮した。双眸が大きく見開かれ、虹色の光が満ちる。
オロチが大口を開けた。口の中から噴き出したのは、莫大な星神力の光であり、全てが黄金色に塗り潰されるまで時間はかからなかった。
色が消え、音が消え、なにもかもが断絶されていく――そんな感覚が訪れたのも、一瞬。
つぎの瞬間、黄金色の光芒が遥か彼方に飛散していくのが、美由理たちの目に見えていた。
神威が光芒を殴りつけ、それによって進路をねじ曲げたのだということを理解したときには、多大な混乱が美由理と瑞葉、マルファスの脳内を席巻していた。
ありえないことが、起きている。




