第七百七十四話 満たされる
「――やあ」
天から降ってきて地面に激突した頭だけの幻魔が、しかしそんなことなど気にする様子もなく気楽に挨拶してきたものだから、相手は、困惑を隠せないようだった。
「ええと……どうしましょう」
「どうもしなくていいよ」
バアル・ゼブルは、二つの眼で相手の力量を測りながら、残りの四つの眼で周囲を見回した。
クー・フーリンが巨大な魔力の衝突に引き寄せられた結果辿り着いたのが、この地である。
龍宮という名の〈殻〉だ。
龍宮の殻主はオトヒメと名乗る鬼級幻魔であり、それがいままさに彼の目の前にいる幻魔なのだ。鬼級幻魔の特徴として人間に酷似した姿をしているだけでなく、人間のような服装をしているものだから、人間社会に溶け込むのも難しくないのではないかと思えた。
擬態する必要性すら感じないほどだ。
とはいえ、幻魔は幻魔だ。
なぜ、人間と共闘しているのかについては、疑問が残る。
「あんたはオトヒメ」
「はい。よく御存知で……あなた様は、どなた様でしょう?」
「おれ様はバアル・ゼブル。いまは頭だけの、しがない鬼級幻魔さ」
「はい……?」
オトヒメは、心底当惑しているようだったが、バアル・ゼブルには関係がなかった。
アーサーに挑もうとして、その騎士に一蹴されたことで、己の実力を思い知った彼には、身の程というものが理解できていた。
だからこそ、強くならなくてはならない。
この飢えと渇きを満たすには、それ以外の道がないのだ。
「頭だけだと不便ではありませんか?」
「その通り」
「では、これでどうでしょう」
オトヒメは、バアル・ゼブルと目線を合わせるようにその場に屈み込むと、彼の頭部を両手で包み込んだ。すると、膨大な魔力が送り込まれてきたものだから、バアル・ゼブルは、あっという間に肉体を復元することができたのである。
首から下を完全に復元したことによって、以前よりも力が増している気がするのは、決して気のせいではあるまい。
死こそ、力だ。
そして、力こそがこの世の全て。
「おおう、助かったぜ」
「いいえ。この魔界で生きていくためには、互いに手を取り合い、助け合うことが大事かと」
「へえ……珍しい考え方をするもんだ」
「そうでもありませんよ」
オトヒメが穏やかに笑いかけてくるものだから、バアル・ゼブルは、一瞬、自分を見失いかけた。オトヒメが纏う空気そのものが、この荒涼たる魔界にはあり得ないものであり、言動全てが新鮮だった。
そして、異様だ。
「この龍宮にいる誰もが、そのように振る舞っていますから」
「……へえ」
バアル・ゼブルが生返事を浮かべたのは、オトヒメのいうようなことがありえるとは思ってもいなかったからだ。
魔界の掟とは、力である。
力だけが全てであり、強者が正義であり、勝者が絶対なのだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
まさに弱肉強食こそが、この魔界と成り果てた世界の唯一無二の理なのである。
故に、彼は、龍宮の幻魔たちが、オトヒメの理想を体現しているのだとしても、それもまた、オトヒメの力に従っているにすぎないのではないかと思わずにはいられなかった。
〈殻〉とは、そういうものだ。
殻主の敷いた理に従わなければ、生きてはいけないものだ。
もっとも、そのことでオトヒメに意見するつもりもなければ、龍宮がどのような形で成立していようと、どうでもいいことだった。
気になるのは、そこではない。
「で、これは?」
バアル・ゼブルは、この広大な空間の中心に鎮座する途方もなく巨大な物体を見て、いった。それはまるで神話や伝説に出てくるドラゴンの頭部そのものであり、圧倒的な存在感と迫力、絶大無比な力を感じ取ることが出来た。
生きている。
そして、眠っている。
「ご覧になって、わかりませんか?」
「竜……だよな?」
「はい。オロチ様は、いわゆる竜級に区分される幻魔であらせられます。そして、この龍宮の守護であり、わたくしたちにとって大いなる導きなのです」
「大いなる導き……ねえ」
バアル・ゼブルには、オトヒメの言葉が空疎に過ぎて、頭に入ってこなかった。彼女がなにを信仰し、なにに縋り付き、なにを考えているのか、まるで理解できない。
幻魔ですらない不気味な生き物に見えてならなかったが、それも、どうでもいいことだ。
目の前の竜にこそ、用事がある。
だから、というわけではないが、彼は、オトヒメに問うた。
「それで……あんたは戦いには出向かないのか?」
「オロチ様を安んじることが、わたくしの使命なれば……」
「ふうん……」
心苦しそうに告げてきたオトヒメの横顔を見て、バアル・ゼブルは、考えを巡らせた。
戦場には、死が溢れている。
しかし、それだけでは足りない。
もっと多くの死が必要だ。
死が、死こそが、バアル・ゼブルを強くする――。
「はははははっ」
バアル・ゼブルは、龍宮を根こそぎ吹き飛ばすようにして噴き上がった魔素質量の絶大さに、ただただ圧倒された。
これまで見たこともなければ、感じたこともない、超絶的な魔素質量。
サタンとも比べものにならないし、アーサーやクー・フーリンなど取るに足らないこと間違いなかった。
当たり前だ。
いま、龍宮で目覚めたのは、竜級幻魔なのだ。
オロチ。
オトヒメによってそう名付けられた竜級幻魔が、安息を約束する祭主の擬似的な死によって目覚めた。
その覚醒が怒りに満ちた咆哮を伴うものであり、噴出する魔力が、莫大な光となって天を衝く。
夜空を引き裂く巨大な光の柱。
そのただ中に黒く蠢く影が見える。
それがオロチの巨躯であることは、誰の目にも明らかだ。
龍宮の地下に眠っていたオロチが、その全身を天高く聳え立たせたのであり、沸き上がる魔力が、龍宮及び周囲一帯の地形を根底から破壊し尽くすのに時間はかからなかった。
あっという間だった。
一瞬にして、龍宮が地上から消滅し、龍宮に残っていたであろう幻魔たちも消し飛んだに違いない。
膨大な死が、オロチの魔力に飲み込まれていく。
「馬鹿なことを……!」
「違うな、最高にして最良の判断だぜ!」
バアル・ゼブルは、背後の人間の怒号など、意に介さなかった。四枚の翅を羽撃かせ、飛翔する。
オロチの魔力が、地脈を伝うようにして周囲の大地をも削り取り、崩壊させていく様は、まさに圧巻というほかなかったし、龍宮を中心とする広範囲の空白地帯が跡形もなく消滅していく光景には、誰もが絶望を禁じ得なかった。
ただ一人、バアル・ゼブルを除いて。
バアル・ゼブルだけは、歓喜とともに勇躍していた。オロチに向かって、だ。
「オロチよ! 竜級幻魔よ! おまえの力を! おまえの死を! もらい受ける!」
龍宮の跡地から立ち上る極大の光の柱、その中に浮かぶ巨大な影がとぐろを巻くようにした。そのことからわかるのは、オロチは、まさに大蛇のような姿態をしたドラゴンであるということであり、手足はなく、莫大な魔力が光の翼を構築していくということだった。
ただし、光の翼は、光の柱のせいではっきりとは見えない。
絶大無比な魔素質量が、バアル・ゼブルの意識を席巻し、興奮と昂揚がなにもかもを飲み込んでいく。これほどまでの力を感じたことはなかったし、これほどまでに死を実感したことはなかった。
死。
そう、死だ。
いま、バアル・ゼブルの目の前に顕現したのは、絶対の死なのだ。
覆しようのない絶対の結果が、そこにある。
滅びの具体化が、君臨している。
飢えや渇きが満たされるのだとすれば、その中にこそあるのではないか。
バアル・ゼブルは、全身全霊の力を込めて、オロチへと突貫する。
そのとき、ようやくオロチの双眸が開かれた。双眸は虹色の光を放ち、バアル・ゼブルを睨み据える。一瞬にして射竦められたバアル・ゼブルは、それと同時に理解した。
(ああ、これが――)
死。




