第七百七十二話 燃え尽き、そして……
氷牢の中からスルトが姿を消し、鬼級幻魔は、ホオリ一体となった。
その時点で、戦局そのものが大きく動く。
スルトは、幻躰を消した。
それがなにを意味するのかといえば、真星小隊がムスペルヘイムの中枢部へ、殻石の安置所へと到達したということにほかならない。
スルトは、己が命たる殻石を護るべく、幻躰の解除に踏み切ったのだ。
しかしながら、美由理たちには、スルトを追うことはできない。
ホオリを野放しにすれば、戦団は愚か、オトヒメ軍も壊滅し、龍宮そのものが落とされる可能性があるというだけでなく、いますぐに殻石の安置所へと移動することなど不可能だからだ。
真星小隊の導衣から発信される信号によって殻石の安置所、その座標は特定できるだろう。だが、どれだけ急いだところで、もう間に合わない。
ならばせめて、ホオリだけはここで足止めするか、滅ぼすべく全力を尽くすほかないのだ。
そして、ホオリを撃滅することができれば、スルトが龍宮に再度侵攻してくるまでの時間は稼げるに違いないと結論づけられた。
スルトは、既にその主戦力たる鬼級幻魔アグニを失っている。
その状況でさらにホオリをも失うことになれば、さすがのスルトもこの度の龍宮への侵攻は諦めざるを得ないだろう。
鬼級二体の損失は、そう簡単には埋め直せないものだ。
よって、龍宮は安泰となり、オロチの安眠が妨げられるという事態は防がれるのだ。
つまり、だ。
スルトが殻石の在処へと舞い戻ったのは、むしろ好機と捉えることができた。
美由理には真星小隊のことは気になったが、しかし、いまは目の前の新事態に対応することが先決だった。
新事態。
目の前の鬼級幻魔が一体だけとなったというこの状況。
目標は、ホオリの撃滅。
そのための戦力は、星将四人とマルファスだけで十分と判断されると、杖長六名は、速やかに最前線へと移動し、戦団の戦列に加わった。
大量のスルト軍幻魔を相手に大立ち回りを演じていた導士たちが、思わぬ加勢に戦意を高めたのも束の間。
さらに、戦況が動いた。
「馬鹿な……!?」
ホオリが愕然とした声を上げ、ムスペルヘイムを見遣ったのは、美由理たちとの死闘の最中のことだ。
たった一体となった鬼級は、いままで以上の力を発揮し、戦場そのものを灼き尽くすかの勢いで爆炎を渦巻かせたが、それらは美由理の氷魔法と瑞葉の水魔法によって押し止められた。
ホオリの紅蓮の猛火が天を衝き、夜空を紅く焦がしていたそのときである。
ムスペルヘイム内部に変化が生じたのだ。
「我が王が……!」
ホオリの慟哭にも似た絶叫が響く中、ムスペルヘイム全体に拍動が走るのが遠目にも理解できた。
どくんという鼓動にも似た波動は、ムスペルヘイムの外である戦場にまで伝わってくるほどに強烈なものであり、凄まじい魔力の奔流だった。
それは、もしかすると断末魔だったのかもしれない。
美由理は、そちらを見遣り、ムスペルヘイムの炎が消えていく様を目の当たりにした。
スルトの〈殻〉全土を灼き尽くすかのように燃え盛っていた無数の火柱が、一本、また一本と消えていくのだ。
急速に。
加速度的に。
『ムスペルヘイムの殻石、破壊されました!』
『スルトの固有波形の消滅を確認!』
『ムスペルヘイムそのものが崩壊していきます!』
通信機から聞こえてくる情報官の声は、驚愕と衝撃、そして多大なる歓喜に満ちており、勝利を確信させるには十分すぎるほどの力を持っていた。
「……やったか」
美由理は、ムスペルヘイムの火が消えていく様を眺めながら、その天地に蠢く大量の幻魔たちが、まるで途方に暮れたかのような様子を見せていることにも気づいていた。
殻主を、支配者にして庇護者たる鬼級幻魔を失い、〈殻〉という楽土を失った幻魔たちは、野良に戻るしかない。終わりなき闘争が繰り広げられる空白地帯に散らばっていくしかないのだ。
殻主の消滅とは、殻印の消滅でもある。
つい先程までスルト軍に属していた全ての幻魔が、無所属の幻魔になったのだ。
当然、最前線で戦っていた幻魔たちの動きにも変化が生じていた。
「殻石を破壊だって?」
「まさか……勝ったのでしょうか?」
「スルトを斃した……?」
愛も神流も瑞葉も、呆然とするほかないといわんばかりの反応を見せた。
義一(美零)がムスペルヘイムに突っ込んでいったことは、情報官からの報告によって理解していたし、真星小隊が一丸となって殻石捜索に動き始めたということも聞いてはいたのだが、誰も完璧に上手く行くとは考えてはいなかったのだ。
むしろ、真星小隊の行動に気づいたスルトが反応することこそが望ましく、そして、その通りの状況になったばかりだった。
それだけで十分だった。
大金星といっていい。
スルトを引きつけ、ホオリを滅ぼす時間が、千載一遇の好機が得られた。
星将四人とマルファスが力を合わせれば、ホオリを滅ぼすことは決して不可能ではない。たとえ星将たちが力を消耗し尽くしていたとしても、それは、ホオリとて同じことなのだ。
スルトの横槍がなければ、五分以上の戦力差と見ていい。
そう考えていた矢先である。
スルトが、滅び去ったのだ。
これには、さすがの星将たちも驚きを隠せなかったし、興奮と昂揚に意識を席巻されたものである。
それは、マルファスも同じだ。
マルファスは、ムスペルヘイムの消滅ではなく、スルト軍の崩壊を目の当たりにしたことによって、スルトが完全に滅び去ったのだと認識した。
ムスペルヘイムの、〈殻〉の崩壊そのものは、殻石化の解除によっても起こり得ることだ。
もちろん、スルトがそこまでするということは、余程の事態なのだが、可能性としてはあり得ないわけではない。
しかし、スルト軍の幻魔たちから殻印が消え失せ、直前まで徹頭徹尾統制されていた軍勢が、いまや行き場を失った力そのものとなって荒れ狂い、混乱し、暴走をはじめている様を見れば、一目瞭然だろう。
スルトという絶対者を失い、支配されていた力が解き放たれた。
もはや、なにものにも属さない何百万という幻魔が野に放たれたのだ。
目の前に人間がいるからと攻撃をしてくるものもいれば、星将やマルファスの魔力を感じ取って、戦場から退散する幻魔もいる。
そして、全体で見れば、最前線から逃散する幻魔のほうが遥かに多く、戦線は、瞬く間に崩壊を始めていた。
連合軍側は、守りに徹すればいい。余程苛烈に攻撃してくる幻魔でなければ、わざわざ魔法を使い、消耗する必要はないのだから。
そして、マルファスは、ホオリを見た。興奮を抑えつけながら、告げる。
「ホオリよ。たかが人間風情と侮った結果がこれだ。スルトは滅び去り、ムスペルヘイムは消滅した。貴様らの野望は潰え去った」
「マルファス……人間風情と結託した幻魔の恥さらしよ。いずれその翼をもぎ取り、地に這わせてくれようぞっ……!」
ホオリは、マルファスを睨み付けると、そのような捨て台詞を吐いた。そして、炎の中にその姿を消してしまった。
炎が消滅すると。ホオリの魔力の残滓が熱気としてわずかに揺らめいただけであり、その気配を感知することはかなわなくなってしまう。
遥か彼方に転移したのだろう。
戦場の混沌は、加速度的に広まりつつある。
龍宮戦団連合軍は、防御を固めつつ、スルト軍が崩壊していく様を見届けていたし、統制を失った元スルト軍の幻魔たちは、どうしたらいいものなのかと錯乱している様子だった。
混沌が、渦となって戦場を飲み込んでいる。
妖級幻魔たちは、スルトの死を認識すると、早急に戦場を離れていったようだが、獣級以下の幻魔の多くは、目の前の人間を攻撃するべきではないのかと葛藤していたり、実際に攻撃したりしていた。
それら幻魔の対応にこそ追われたものの、先程までの死闘とは比べものにならないほどに緩やかな戦いとなっていた。
「直に終わりそうだ」
「いや、終わったのだ」
マルファスは、美由理の発言を訂正するようにいった。
「スルトが斃れた。これは予期せぬことだ。それもこれも、きみたち戦団の助力があればこそ、機転があればこその戦果だな。これでスルトの脅威に怯えるひつようはなくなり、龍宮はしばし安泰となるだろう」
「しばし……ですか」
「この魔界のどこもかしこも〈殻〉ばかりだ。殻主の大半が野心家であり、領土を求めて眼を光らせている。スルトのような強大な力を持った鬼級が、いずれ龍宮をその視野に入れる可能性は、常に考えておかなければならない」
「そのときには、また、わたしたちに協力を仰ぐと?」
「……そうなるだろうな」
マルファスは、小さく嘆息して、認めた。
それまでに龍宮の協力者、同盟軍を見つけることができればまだしも、そうでないのであれば、やはり、戦団に頼るしかない。
鬼級幻魔を打倒するだけの力を持ち、さらに、〈殻〉を崩壊させることすらできる戦力ならば、これほど頼もしいものはなかった。
『待ってください! 鬼級幻魔が二体、龍宮から出てきました!』
情報官の叫び声が、その場にいた星将たちを緊迫させた。