第七百六十九話 命が燃える(八)
スルトを閉じ込めた氷の華の如き巨大な氷塊は、超高密度の星神力の塊であり、ホオリにすらも絡みつき、その行動を封じ込めることに成功していた。
さながら幻魔を題材とした芸術作品のようになった二体の鬼級は、しかし、膨大な魔素質量を炎を燃やし、氷の牢獄から抜け出そうと足掻き続けている。
美由理は、全ての力を出し切った。
星将にとっても脅威以外の何者でもない鬼級幻魔二体を一時的とはいえ、完全に封じ込めることに成功したのがその証左だ。
全身全霊、あらん限りの力を込めた最大最高威力の攻型魔法。
美由理は、飛行魔法すら維持することもできずに地上に降り立つと、肩で呼吸をしながら、ホオリを睨んだ。
全身を氷の檻に封じられたスルトとは異なり、ホオリは、下半身が氷漬けになっている程度なのだ。上半身を自由に動かすことができる上、魔法も自在に操れた。
星将や杖長への攻撃を行いつつ、氷牢から脱出するべく藻掻いている。その禍々《まがまが》しい眼差しが美由理に注がれたのは、一瞬だったが。
「何度目の月黄泉だい? 随分と無茶をしたんじゃないか?」
「五度目だ。だが、多少なりとも時間は稼げるはず……」
「確かに、時間は稼げるだろうさ」
愛は、眼の前に降り立った美由理の背中を見つめながら、彼女の星神力がいまにも尽き果てようとしているのを理解した。手を伸ばし、愛女神の力を注ぐ。
それによって少しでも回復すればいいのだが、しかしながら、星神力の消耗は、ただ魔力を消耗するのとはわけが違う。
特に月黄泉の負荷は、想像を絶するものがあるようなのだ。
月黄泉は、時間を静止する規格外の星象現界だ。
その影響範囲は、この世界そのもののようであり、故に、多大な星神力を費やさなければならないというのは想像に難くない。そして、その上で、超高威力の攻型魔法を叩き込むというのが、美由理の戦い方だ。
月黄泉による時間静止中は、魔素に影響を及ぼすことができない。つまり、時間を止めている間に一方的に攻撃することなどはできないのだが、しかし、魔法を仕込むことはできた。律像を編み上げることは、だ。
だから、美由理があれほどの魔法をいつのまに想像したのか、誰にも理解できなかったのであり、愛が月黄泉の発動を認識したのもそのためだった。
スルトもホオリも、美由理の氷魔法に対応すらできず、天高く聳える氷の檻に閉じ込められた。
スルトの魔晶体そのものを氷結させるほどの氷魔法。
美由理がどれほどの星神力を注ぎ込み、どれだけ精緻で複雑な律像を、魔法の設計図を構築させたのか、想像するのも馬鹿馬鹿しいくらいだ。
「ああ。時間を稼ぐだけでいい。それだけでこちらの勝利は確定する」
「言い切るねえ。義一くんかい?」
「いいや、美零だ」
「ああ、美零ちゃん」
愛の脳裏に、義一の顔の中から少女の気配が現れる瞬間が過った。
同じ顔なのにまるで異なる印象を受けたのもそのはずだ。
美零という義一の意識に宿るもう一つの人格が女であり、肉体そのものも女のそれに変容する様を目の当たりにしたことを覚えている。
義一の身に隠された秘密を知っているのは、戦団でも限られたわずかばかりの人間しかいない。
護法院の長老たちは当然の如く認識しているが、星将の中では美由理と愛、イリアくらいのものではないだろうか。
彼女の存在は、戦団における重要機密そのものだ。
「そして、真星小隊」
「幸多くんたちが?」
「だから、大丈夫だ」
美由理は、確信をもって、告げる。
その目は、ホオリの咆哮が真言となり、紅蓮の猛火を渦巻かせる様を見ていた。渦巻く猛火がホオリの下半身を氷塊の中から脱出させたものの、その直後、凄まじい爆撃の嵐がホオリを吹き飛ばした。
神流の銃神戦域が火を噴いたのだ。
超高速で撃ち出される砲弾の数々がホオリの魔晶体を上空高く打ち上げ、さらに連続的に直撃し続ければ、さすがの鬼級幻魔も怒りに満ちた表情を浮かべた。
一方的な攻撃の嵐を躱し切ることは、難しい。
さらにどこからともなく生じた膨大な水圧が激流の渦となってホオリを包み込み、様々な魔法が乱舞する。
魔法による集中砲火が、ホオリを空中に固定して見せた。
「こんなもの……こんなもので……!」
ホオリの声には、怒りが滲んでいた。怒気が熱気となり、爆炎を呼んで、螺旋を描く。紅蓮の炎が幾重にも噴き出せば、攻型魔法の数々を吹き飛ばし、彼はようやく自由を得た。
「まだまだです!」
「そうよ!」
神流と瑞葉が、星象現界を駆使し、ホオリを集中攻撃すれば、それに乗じて、杖長たちも攻撃に全力を注ぐ。
荒井瑠衣の歌声が闇の波動となって殺到し、躑躅野莉華の放った魔法が一条の光芒となってホオリに打ちつける。
小久保英知が防型星象現界を活用してホオリを殴りつければ、沢野君江の発動した闇魔法が無数の黒い刃として鬼級幻魔に襲いかかる。
鍵巴の白装束から放たれる猛吹雪がホオリの熱気を吹き飛ばし、再び氷漬けにしたところへ、戎紀律の魔法が爆撃を起こす。
そして、マルファスが翼を広げたかと思えば、黒く輝く羽を弾丸のように射出した。無数の羽弾が様々な軌跡を描きながらホオリへと集中し、突き刺さっていく。
「おおおおおっ!」
ホオリがさらに吼え、傲然たる熱気が噴き出した、そのときだった。
「あれ?」
最初に気づいたのは、誰だったのか。
ホオリへの集中攻撃の最中、美由理が生み出した大氷塊には大きな変化はなかった。ホオリが下半身を脱出させることに成功した以上、スルトもそのうち抜け出してくるのではないかと誰もが思っていたが、そんなことはないまま、戦闘は推移していた。
それもそのはずだった。
「スルトがいない!?」
愛が悲鳴染みた声を上げたとき、美由理は、確かに誰もいなくなった氷の檻の中を見て、愕然とした。
美由理が全力を込めて作り上げた氷の牢獄は、いまやただの氷の塊と化していたのだ。
スルトは、抜け出した。
どうやったのかはわからない。
ただ姿が消え失せていることは確かで、それだけが厳然たる事実としてあった。
しかし、スルトがこちらに攻撃してくることもなければ、その気配を周囲に感じることができなかった。
あれほどの魔素質量だ。
存在するだけで圧倒されるはずなのだが、それがない。
「まさか……!?」
美由理の脳裏に過った可能性は、最悪のものであり、そしてそれは、情報官からの通信によって確定する。
『スルトの固有波形、ムスペルヘイム内部に出現しました!』
『なんだと!? どういうことだ!?』
神威の狼狽した声が通信機越しに聞こえてきたとしても、致し方のないことだ。
まさに最悪の事態だった。
「空間転移……いや……幻躰を再構築した?」
「おそらくはそうだろうね」
愛は、苦い顔をしながらも、ホオリがこちらの猛攻に食い下がる様を見ていた。渦巻く炎がホオリの肉体を復元し、鬼級の圧倒的な生命力を見せつけてくるかのようだ。
だが、それ以上に最悪なのは、スルトがこちらの目論見に気づいたということだ。
だからこそ、幻躰を解いたのだろう。
それによって、美由理の氷の檻を無視してみせた。
出し抜いたと思いきや、出し抜かれたのだ。
巨大な結晶体を目の当たりにして、幸多たちは、為す術もなかった。
美零が、殻石に触れている。そのしなやかな指先が禍々しくも赤黒く輝く結晶体に触れるだけで、反発があった。強烈な魔力の逆流。しかし、美零は手を離そうともしない。
真眼を煌めかせ、殻石を凝視している。
「なにをしようってんだ?」
「さあ……?」
真白の疑問に黒乃が小首を傾げるのも当然だったし、幸多にも美零がなにを考えているのか、まるでわからなかった。
殻石を破壊することが、この急遽与えられた極秘任務の目的ではないのか。
そして、それならば、すぐにでもできるはずだった。
魔晶核は、幻魔の心臓である。
そして、魔晶核は、幸多が素手で握りつぶせるほどの代物なのだ。
殻石化した魔晶石が同じ硬度なのかはわからないものの、黒乃の攻型魔法ならば確実に破壊できるだろう。
「いつでも破壊できるように準備だけはしておいて」
「わ、わかった」
「真白も、守りを」
「おうよ」
真白と黒乃は、幸多の指示に従い、即座に律像を構築し始めた。
その直後である。
殻石が、強烈な光を発したのだ。