第七百六十八話 命が燃える(七)
「幻魔の奴ら、どこにもいねえな……」
「いなくていいけど……」
「そりゃそうだけどよぉ」
「安心して。進路上に幻魔はいないわ」
美零は、真眼を全力で駆使しながら、遥か地下へと通じる坂道の先を見ていた。黄金色の瞳が光を帯び、爛々《らんらん》と輝いているのは、魔素の濃度が濃くなり続けているからにほかならない。
龍宮の地下を降るときほどではないにせよ、高濃度の魔素が満ちているのだ。
それらは静態魔素である。
目標以外の動態魔素を確認することはできなかった。
〈殻〉の深部に存在するような動態魔素の塊となれば、幻魔以外には考えられない。わずかばかりの人類を除いて、幻魔以外の生物の存在しない世界だ。
そして、動態魔素が動き回っている様子が確認できないということは、幻魔に遭遇する可能性が皆無に等しいということにほかならなかった。
美零が目標と定め、認識しているのは、スルトの固有波形を帯びた動態魔素であり、それらが巨大な奔流となって虚空を駆け抜けている様子だけだ。それ以外に動態魔素は見当たらない。
そしてそれを辿るようにして、殻石の安置所へと向かっているのだ。厳重な警備が予想されて然るべきであり、九十九兄弟が不安がるのも無理はなかったが。
「幻魔がいない?」
「自分の部下を本当に信用していないんだ、スルトって」
「きっと、そう。それ以外には考えられないわ」
美零は、頭上を仰ぎ見て、分厚い天蓋の彼方に蠢く無数の動態魔素を認識した。妖級、獣級、霊級といった幻魔たちが、紫焔回廊を見回ったり、屯していたりする様が想像できる。
もちろん、真星小隊を追跡していた幻魔たちもいるはずなのだが、それらの幻魔がこの坂道を降りてくるということもなかった。
「そして、どうやらこの領域には、幻魔の立ち入りが禁じられているみたい。一体として追いかけてこないもの」
「立ち入り禁止区域か。本当に殻石の安置所っぽいな」
「本当にあるのよ。信用してなかったの?」
「あ、いや、そういうわけじゃなくて……」
「じゃあどういうことなの?」
「え、えーと、だな……あ-……」
美零に詰め寄られてしどろもどろになる真白を横目に見て、黒乃はくすりと笑った。
この先に幻魔がおらず、追っ手すら追いかけてこないとなると、精神的な負荷も減るというものだ。
「このまま真っ直ぐ?」
「うん。真っ直ぐ。ただひたすらに真っ直ぐ進めば、そこにあるよ」
「殻石が」
「うん。スルトの殻石。魔晶核がね」
美零にいわれるまま、幸多は前進する。
縮地改の全速力を緩めることなく駆け抜ければ、あっという間に坂道の終点へと辿り着いた。
広い空間である。
奥には巨大な門が聳えており、スルトの殻印が刻まれた門扉が存在感を放っていた。
幸多が門の目の前まで移動すると、美零は千手の腕から手を離し、飛び降りた。真白と黒乃も続く。
「この門の向こう側に殻石があるんだけど……」
「だけど?」
「封印されてるみたい」
美零は、門扉を凝視し、幾重にも重ねられた封印魔法の厳重さに呆れる想いがした。これほど厳重に封印するのであれば、そもそも、坂道をこそ封印するべきではないか、と、思わないではない。
「安心安全の魔法セキュリティーってところか?」
「どうするの?」
「どうしようかしら」
「ええ?」
幸多は、美零になにか考えがあるのかと期待したのだが、どうやらそうでもなさそうだった。しかし、ここまで来た以上、引き返すなどという選択肢はない。
『幸多ちゃん、聞こえる?』
(聞こえるよ)
『良かったわ。不安だったのよ。通信があまりにも安定しないから』
(安定しない?)
『〈殻〉の中でしょ。レイラインネットワークがね、不安定なのよ』
(なるほど)
幸多は、ヴェルザンディとの脳内通信に納得しつつも、美零が門扉に触れる様を見ていた。細くしなやかな指先は、義一のそれとは多少異なるように見える。気のせいかもしれないが、体型そのものが大きく変わっているのだから、指の形さえ変化していてもおかしくはない。
美零の目が黄金色に輝いたかと思えば、その周囲に律像が展開する。複雑にして精緻な魔法の設計図。芸術品のような美しさがあった。
幸多がそれを視認することが出来るのは、銃王弐式の万能照準器を通して世界を見ているからだが。
美零が何事かを唱えると、指先から光が走り、波紋となって門全体に流れていく。無数の光線が門扉に施された封印を解除していくかのようであり、事実、扉が音を立てて開いた。
「なんだよ、簡単じゃねえか」
「美零さんが凄いんだよ、兄さん」
「んなもん、わかってるっての」
「わたしというより、この眼がね」
「謙遜すんなよ。凄いよ、おまえも義一も」
「……ふふ、そういってもらえると、嬉しいかも」
美零がはにかむと、とてもあどけない笑顔が浮かび上がったものだから、真白は思わず見惚れかけた。しかし、そんな場合ではないという意識が速やかに働いたのは、門扉の向こう側の光景が視界に飛び込んできたからだ。
龍宮の祭殿にも似た空間が広がっていて、そこには、巨大な結晶体が浮かんでいたのだ。
赤黒い結晶体は、魔晶核に酷似しているものの、それよりも余程巨大であり、禍々しくも強烈な光を発散させていた。
その光こそが、このムスペルヘイムの結界の根源であることは誰の目にも明らかだった。
「これが……殻石」
「でっけえ……」
「なんだか怖い……」
「殻石……」
四者四用に反応を示しながら、殻石の安置所へと足を踏み入れた真星小隊は、その巨大さと禍々しさに圧倒されつつあった。
莫大な魔素が、魔力が、殻石と呼ばれる結晶体から放出され続けており、その力たるや、近づくのも億劫になるほどに強烈だった。
しかし。
「オロチに比べりゃ、なんてことねえな」
「確かに……そうかも……」
「オロチに対面しておいたのが、正解だったとはね」
「本当、なにがあるかわからないものだね」
真星小隊の四人は、スルトの魔晶核たる殻石が放つ膨大な魔力が、眠れるオロチの発するそれとは比べものにならないほどに少量であることに気づくと、なんだか強気になった。
殻石に歩み寄る。
「で、これを破壊すりゃいいんだよな?」
「そうすれば、スルトは死ぬ……よね?」
「そうだけど……待って欲しいの」
「はあ?」
「待つ?」
「どうして?」
「わたしが使命を果たすために、時間を頂戴」
美零は、仲間たちに対して一方的に告げると、殻石の結晶構造を凝視した。両目に全神経を集中させ、真眼の力を完全に解き放つ。
今までだって常に全力ではあったが、それ以上の力を発揮するつもりで、意識を注ぐのだ。
幸多たちは美零の言動に気圧されるようにして、顔を見合わせた。
「時間ったって……なあ?」
「あまりないんじゃ?」
「ない……ね」
幸多は、美零と殻石を見比べ、そして、ヴェルザンディとの脳内通信によって、戦場の様子を理解した。
連合軍が圧倒的に不利であり、壊滅するのも時間の問題ではないか、というのが戦団本陣の見立てであるといい、一刻も早く殻石を壊すべきだ、と、ノルンの女神たちはいっていた。
幸多も、その意見に賛成だった。
殻石さえ壊せば、スルトは死ぬ。
ムスペルヘイムは崩壊し、この〈殻〉を拠り所としていた幻魔たちは逃散するに違いない。
スルト軍の幻魔たちを支配するのは、殻印であり、スルトの絶対的な力だ。それが失われれば、当然ながら、幻魔たちも自由になる。
スルト軍そのものが瓦解するのだ。
オトヒメ軍の敵はいなくなり、龍宮の当面の脅威もまた、完全に消えてなくなる。
なんの問題もない。
けれども、彼女は、使命といった。
(使命)
幸多は、考える。
美零とは、義一とは、一体何者なのか、と。
伊佐那麒麟の後継者であり、伊佐那家の次期当主である彼は、第三因子・真眼の持ち主だ。故に戦団にとってなくてはならない存在であるという事実は、今回、幸多は身を以て思い知ったのである。
真眼があればこそ、殻石の所在地を明らかにし、鬼級を出し抜くことができるのだ。
リリスもタロスもアガレスもイブリースも、戦団が制圧してきた〈殻〉の殻主たちは、いずれも、そのようにして打ち倒されたのだ。
麒麟の真眼が、勝利に多大な貢献を果たした。
だからこそ、伊佐那麒麟は戦団における戦女神であり、大英雄の一人とされているのだ。
その後継者たる義一と美零、その使命とは、なにか。
幸多は、美零が結晶体に手を伸ばし、触れ、律像を展開する様を見ていた。
門の封印と解いたときと同じような光景だった。
彼女は、なにをしようというのか。