第七百六十話 伊佐那美零(一)
「美零?」
幸多は、義一と同じ顔をした、しかし、義一とは異なる人格の持ち主を横目に確認すると、その無事な様子には安堵した。同時に、混乱もする。
女性的な人格だということは、わかっていた。
彼女が幸多の目の前から飛び去る直前、口調や仕草が女性のそれであったし、体型そのものが女性的なしなやかなものに変化していたのだ。
そのさいにはぼろぼろになっていた導衣から別の導衣へと着替えているのだが、その導衣も、見るからに女性専用のものだった。義一と同じ意匠だが、全体的に彼女の体型に合わせていて、改変が加えられている。
義一の転身機を用い、置換転送したのだろうが。
「うん。美零。伊佐那美零。それが、わたしの名前。美零って呼んでいいよ」
「わ、わかったよ、美零さん」
「さんって、なんだか他人行儀だな……でもまあ、いっか。よろしくね、幸多くん。ううん、隊長」
「隊長……?」
「だって、義一の隊長でしょ?」
「そうだけど……そうだね」
幸多は、彼女の言い分を理解しつつも、ヴィーヴルが怒り心頭といった様子でこちらを睨んでいるのを認めた。
人間めいた美しい女性の顔立ちをしつつも、ところどころが異形の姿をした妖級幻魔。
スルト軍を構成する火属性幻魔の一体だ。
最前線でも何体ものヴィーヴルを見たし、その戦闘力の凄まじさは、さすがは妖級というべきものだったことは記憶に新しい。だが、怖気づくことはない。
「……くだらない話は、それで終わりかしら」
ヴィーヴルが幸多の銃撃で吹き飛ばされた右手を瞬時に復元させると、再び巨大な火球を生み出した。先程よりもさらに巨大なそれは、幸多たちの頭上を覆い尽くすほどにまで膨れ上がっている。
急激な気温の上昇によって、体温が高まり、大量の汗が幸多の全身から噴き出した。ただでさえ大汗をかき続けているというのに、このままでは水分が足りなくなって干涸らびてしまうのではないかと思うほどだった。
幸多は、闘衣すら身につけていないのだ。でなければ、このムスペルヘイムを駆け抜けることができそうにもなかったからだったし、それは間違いなかった。
大量の幻魔が、この領域にうごめいていた。
そして、ヴィーヴルと美零の姿を確認した瞬間、二十二式連発銃・迅電改を召喚、貫通弾を撃ち込んだのである。
迅電改は、迅電を大幅に改良し、射撃時の反動の大幅な低減に成功している。
迅電自体が闘衣でも使えるように設計された代物だったが、迅電改は、闘衣すら装備していない状態の幸多でも扱えるほどだった。反動はあったが、吹き飛ばされるほどのものではない。
ただし、射程も威力も命中率、他の撃式武器に大きく劣るのが難点だ。
とはいえ、一点に集中して弾丸を撃ち込めば、妖級幻魔の魔晶体すら破壊可能なのだから、十分過ぎるといえる。
携行武器としては、破格の威力だろう。
「ヴィーヴルの魔晶核は、あの左眼よ」
「知ってる」
美零の忠告に幸多は静かに頷いた。
あのガーネットのような眼球が極めて強固であり、簡単には破壊できないものだということも理解していたからこそ、幸多は、まず、右手首を吹き飛ばそうと試みたのだ。
それによって、ヴィーヴルの意識を乱し、魔法の制御をも見出したのである。
魔法とは、想像力の産物だ。一度放たれれば、大半の魔法は制御不能となり、律像に刻まれた命令通りに機能するが、制御下に置かれている魔法は、魔法士が解き放つまでは、どうとでもなる。そして、そういう状況で思考に乱れが生じれば、魔法に刻まれた命令さえも混乱を起こすものである。
それも、幸多が学んだ対魔法士戦術の一つだ。
幻魔との戦いに生きるとは思いも寄らなかったが、よくよく考えてみれば、当然の結果だった。
幻魔は、魔法によって誕生した生物であり、生粋の魔法士なのだ。
対魔法士戦術が通用しない理屈はない。
人間とは比較にならないほどに強固な肉体を持ち、圧倒的な生命力と再生能力を持っているという点を除けば、だが。
幸多は、左手で構えた拳銃の照準をヴィーヴルの左眼に合わせた。闘衣も身につけていないということは万能照準器を使えないということだが、しかし、問題はなかった。
ノルン・システムが携帯端末のレイライン・ネットワークを通じて、強引に神経接続を行っているのだ。それができるのは、幸多ならではだと、女神たちはいった。
『幸多ちゃんの体質が変化したからよね、きっと』
『そうでしょうね。以前にはできなかったことですから』
『これでいつでも話しかけられるね』
そんな三姉妹との会話は、随分と前に行ったものだが、そのおかげで、幸多は、闘衣や鎧套の補助なくして、撃式武器を命中させることができるようになったのだ。
百発百中の命中精度は、三女神の補助があればこそだ。
「あはは、わたしの心臓を狙い撃つつもりかしら? そんなもので、このわたしを殺せるとでも?」
ヴィーヴルが高笑いするのは、ある意味では当然だっただろう。
相手は人間で、しかも魔素を有していないのだ。ヴィーヴルが幸多を視認できたのは、幸多がその存在を銃撃によって明らかにしたからであり、ヴィーヴルがその意識を集中させたからだが。
発砲音がした。乾いた、破裂音。迅電改の銃口から放たれた弾丸は、一瞬にしてヴィーヴルの左眼に到達し、しかし、当たり前のように弾き飛ばされた。
「ね? いったでしょう? 効かないのよ、そんな玩具」
「その玩具に右手を吹っ飛ばされたのはどこのどなたかしら」
「……黙れ、人間風情が」
「美零さん、ちょっと!」
「人間風情に言い様にされて、情けないことこの上ないんじゃないの? あなた、それでも妖級幻魔なのかしら」
美零が煽りに煽れば、ヴィーヴルの全身が真っ赤に染まっていった。美女めいた美貌が異形化し、人型の竜のような姿へと変わっていくのだ。
「殺す……!」
「どうやって?」
美零は、大火球がさらに巨大化するのを見ていたし、そして、その遥か上空から迫ってくるものも視ていた。膨大な魔素質量が、降ってくる。
「どわああああああああああああ!?」
「うわあああああああああああああ!?」
「なに!?」
「今度はなんだ!?」
二つの悲鳴と、二つの混乱。
美零だけが、事態を冷静に把握していたし、魔法の結界が大火球を包み込んで無力化し、その上に落下した二人が地上に跳ね飛ばされてくる様も見届けたのだ。
二人の少年が、美零たちの目の前の地面に叩きつけられ、呻いた。
「うう……なんでこんなことに……」
「くそっ……あの博士、今度あったらただじゃおかねえからな……」
「二人とも! なんで……!?」
「そんなこといってる場合じゃないでしょ!」
すぐさま起き上がろうとする九十九兄弟を目の当たりにして、幸多が愕然とするのも無理はなかったが、美零の眼は、ヴィーヴルの怒りが魔素質量を増大させる様を見ているのだ。
「殺す……!」
「なんか怒ってる?」
「当たり前だと思う……ぼくたち人間だし……」
真白が困惑を隠せないとでもいうような態度の一方で、黒乃は、そんな兄の態度にこそ困惑する思いだった。どうしてこの場で、そんな風に平然としていられるのか。
そんな二人を巨大な魔法の手が掴み取った。美零の魔法だ。彼女はいった。
「逃げるよ」
「はっ、逃がすと思うか!」
ヴィーヴルが怒号とともに大火球を解き放ったのは、間違いなく失敗だった。ヴィーヴルは、自身の大火球が真白の魔法壁に覆われていることに気づいていなかったのだ。
大火球が魔法壁に激突し、爆散すれば、凄まじい閃光が生じた。
ヴィーヴルが予期せぬ事態に唖然とした瞬間、幸多は美零を横目に見た。
「逃げる?」
「うん」
美零は、九十九兄弟を捕まえたまま、既に駆けだしている。
幸多は、装填中の銃弾を変更すると、ヴィーヴルではなく、その周囲の地面や結晶樹に向かって次々と銃弾を撃ち込んだ。透かさず、美零を追う。
銃弾が破裂する音を背後に聞きながら
「なにを撃ったの?」
「残留性魔素拡散弾、通称・煙幕弾だよ」
「なるほど」
美零は、幸多を先導して走りながら、背後を向き直り、ヴィーヴルが追ってこないのを認めた。ヴィーヴルの周囲に高密度の魔素が渦巻いているのだが、それらこそが煙幕弾の成果だろう。
魔素の爆煙ともいうべきそれは、真眼を用いずとも、目に見えるはずだ。分厚い魔素の層が、視覚のみならず、聴覚や嗅覚、魔法的感覚、つまり第六感をも混乱させている。
「今度はなんだよ!」
喚いたのは、美零の魔法の手に掴まれた状態の真白である。
「ヴィーヴルなんかと戦ったってしょうがないでしょ」
「そりゃそうだけどよお!」
「ふう……」
憤懣やるかたないといった様子の真白に対し、黒乃は、安堵しきったように息を吐いた。無論、安心できる場所ではないことくらい理解している。
ここがムスペルヘイムの真っ只中で、義一がさらに奥地を目指しているということも、だ。
「あ、そうだ。紹介遅れちゃったね、わたしは美零。伊佐那美零だよ。いつも義一がお世話になってます。ありがとね」
「え?」
「ん?」
「「どういうこと?」」
九十九兄弟が同時に疑問符を浮かべるのも当然のことだと、幸多は彼女に先頭を譲りながら思った。
伊佐那義一と美零の関係性は、どうやら、幸多が想像していたよりも複雑なものであるらしい。
幸多は、自分の中に自分ならざる複数の人格が存在していることを認識した。故に、義一の中に美零という人格が存在するのだとしても、ありうることなのだと受け入れることができた。
しかし、九十九兄弟には、想定外の出来事に違いなかった。