第七百五十八話 勝ち目
研究所には、良い想い出がない。
それでも、九月機関が、悪い噂の絶えない研究所だということを知ったのは、妖精の城を出て、外の世界に足を踏み出してからのことだった。
それまでは、妖精の城が、九月機関の敷地内が、世界の全てであり、天地の全てだったのだから、知りようがなかったのだろう。
摂取できる情報が、制御されていた。
それは、いい。
別に九月機関に関する悪い噂を聞いたところで、どうでもよかったからだ。
信じられなかったし、信じなかった。
自分の目で見て、耳で聞いたものしか信じられない。
人間とは、そういう生き物だろう。
いや、あながちそうでもないのではないか――と、彼が想うようになったのは、結局、九月機関の噂話を本当のことであるかのように信じ、話す人間が少なからずいるという事実に直面したからだ。
そんな人間は、どこにだっていた。
戦団の導士たちの中にも、
『九月機関出身なんだって?』
小隊に編成されるなり、隊長や隊員の誰かが、必ずそんなことを聞いてきた。
ただの世間話のつもりだったのだろうし、それ以上でもそれ以下でもなかったのだろうが、しかし、その世間話が九月機関の噂に纏わるものへと発展すれば、黒乃が傷つくのも無理はなかったし、結果として真白が怒り狂うのも当然だった。
九十九兄弟にとって、九月機関は、家そのものだ。
生まれこそ違うが、物心ついたときには機関にいて、妖精の城で育ったのだ。
所長の高砂静馬こそ父親であり、彼の願いであれば、研究にも応じた。
研究。
高砂静馬は、魔法技術の第一人者だという。
以前は戦団に所属し、技術局の研究者としてその力量を振るったそうだが、独自の研究を進めるために戦団を離れた。
そして、実際に独自の研究によって成功を収めたというのだから、凄まじいとしか言い様があるまい。
九十九兄弟にとって真に尊敬する人物だ。
そんな高砂静馬の研究は、魔法学において定説とされていた双極性理論の打破に現れるように、魔法学の根底を覆すものだ。
そして、彼の研究の実験には、彼の子供たちこそが付き合った。
真白と黒乃も、そんな被験者の一員であり、二人はだからこそ、研究所そのものにはあまり良い想い出がなかったのだ。
白くぼやけた記憶の中にいくつもの顔が浮かんだ。
妖精の城で一緒に育った兄弟たち。何人もの兄弟がいて、誰もを兄や姉のように慕っていたし、血を分けた家族以上に仲が良かった。けれど。
『失敗作』
誰かが、二人のことを指して、そういった。
『機関の汚点』
また、誰かが二人を罵った。
『これ以上迷惑をかけるなよ』
『もうなにもしちゃ駄目だよ』
『失敗作同士、傷をなめ合っていればいい』
『どうせ、なにもできやしないんだからさ』
ぼやけていた顔が二つになっていくと、二人の導士の顔が鮮明なものとなっていった。
八十八紫、九尾黄緑――。
はっと目を見開くと、まず視界に飛び込んできたのは、満天の星々であり、雲一つない夜空だった。全身を締め付けるような魔素の密度に呼吸が苦しくなるのは、きっと気のせいだ。
「気がついた?」
「は、はい」
無意識の返事を浮かべながら、自分が寸前まで意識を失っていたのだという事実に気づかされ、唖然とする。
「な、なにが――」
起きたのか、と、問おうとしたものの、すぐ右隣で寝返りを打つようにして目を覚ました弟の存在によって、全てが吹っ飛んでしまった。
「お、おい、黒乃!」
「ん……なに……兄さん……?」
半覚醒状態なのだろう黒乃は、真白の顔が真に迫っているのだということにすら気づいていなかった。
「無事か?」
「どうしたの……?」
「九十九兄弟は意識を取り戻したわ。こちらは、手筈通りに」
『了解。そちらは任せた。こちらは、任せろ』
「本当、頼もしいわよ、氷の女帝」
『女神がいればこそだ』
「ですって。頑張って、めがみちゃん」
『まあ、気張るさ』
イリアは、通信を終えると、小さく息を吐いた。
主戦場で二体の鬼級幻魔を相手に大立ち回りを演じる美由理と愛のことを想うだけで、胸が詰まった。
自分が戦闘向きの導士で、戦闘を得意とするのであれば、あの場に混じりたいとすら思うのだが、いかんせん、そういうわけにはいかなかった。
イリアは、補型魔法を得手とする。しかも、替えの聞かない空間魔法の使い手だ。星将ですら命を落とすかもしれない最前線には、送り込めない。
だからこそ、こうして自分にできることをするのだ。
戦場を走り回り、生存者を探して回る。見つけ次第治療魔法で回復させ、戦線に復帰させる。鬼のような所業だが、鬼級幻魔率いる大軍勢を相手にこれ以上の戦力の低下は認められない。
もし、応急処置では間に合わないほどの重傷者がいるのであれば、空間魔法で基地に転送するしかないが。
幸い、いまのところそこまでの重傷者は見つかっていない。
戦死者は、大量に見てきたが。
「あれ? 兄さんだけ?」
「ああ。隊長と義一がいねえ」
「あの二人なら、あの壁の向こうに行ってしまったわ」
「どういうこった?」
「ぼくたち、気を失っていたんですか?」
「そうよ。突然、スルトが現れてね。戦線が一興に壊滅状態に陥ったのよ。そして、たくさんの導士が命を落とした」
「たくさんの……」
「導士……」
真白と黒乃は、周囲を見回した。
地獄のような戦場は、さらに深刻さを増しているということがわかる。
どこもかしこも死体だらけだった。
幻魔の死骸が山のように積み上がり、燃え盛っている。その中に紛れるようにして導士の死体があるのだが、手を付けられる状況ではないことは誰の目にも明らかだ。
戦闘中なのだ。
それも、こちらが圧倒的に不利な戦況だ。
そんな状況下で、仲間の死体だからといって手を出している場合ではない。
そんなことをすれば、二次被害、三次被害と損害が拡大するばかりだ。
そして、九十九兄弟は、スルトの出現から今に至るまでなにが起きたのかをつぶさに聞いた。イリアによる説明は明瞭にして精確であり、だからこそ、二人がなにを為すべきなのかも端的に教えてくれた。
北を見遣れば、緋焔門が大氷壁によって覆い尽くされていることがわかる。ムスペルヘイムの南側が、それによって完全に閉ざされてしまったのだ。もちろん、飛行型の幻魔は大氷壁を飛び越え、陸走型の幻魔も、どうにかしてよじ登り、乗り越えようとしているようだが、その速度も数も、緋焔門が開放されていたころよりは遥かに緩やかだ。
そして、最前線にはオトヒメ軍の幻魔たちが続々と到着しており、戦線の再構築が始まろうとしているという段階だった。
だが、それでも、勝機はあまりにも薄いのだと、イリアはいう。
「スルトとホオリ、二体もの鬼級が暴れ回っているのよ。それを三名の星将と六名の杖長、マルファスでもってなんとか抑えているのが現状。そして、スルト軍」
イリアは、前方に視線を向けた。
大氷壁の前方には、スルト軍の幻魔が数え切れないほどに存在している。霊級、獣級、妖級、大半が火属性を得意とする幻魔であり、総数は十万を軽く超えている。
導士たちが戦線に復帰し、オトヒメ軍の残存戦力の合流によって多少なりとも持ち直しつつあるものの、しかし、戦力差は圧倒的といわざるを得ない。
「ただ一つ、勝ち目があるとすれば……」
イリアは、大氷壁に視線を移す。
その向こう側には、ムスペルヘイムの燃え盛る大地が広がっているはずである。
そして、そこには、当然、スルトの命が隠されているはずなのだ。
そこにこそ、義一は向かっていってしまった。
誰にも命令されず、誰にもなにもいわず。
幸多が追いかけたのも、無意識だったのかもしれないが、しかし、好都合でもあった。
イリアは、九十九兄弟を見た。
二人は、身を乗り出して、食い入るようにイリアの話を聞いていた。




