第七百五十七話 オトヒメ
「オロチ様……どうか、皆を、龍宮の民を、そして人の子らをお見守りください。皆、この龍宮を護るため、オロチ様の安らかなる眠りのため、命を尽くしております。わたくしには、こうして祈ることしかできませんが……されど、いえ、なればこそ、オロチ様に願い奉るのです」
オトヒメは、龍宮の大祭殿にあって、オロチに全身全霊の祈りを捧げていた。
大祭殿は、オロチの寝所である。
いや、この龍宮と名付けた〈殻〉そのものが、オロチの寝床というべきだろう。
オトヒメがこの地に眠っていたオロチに出逢ったのは、百年以上昔のことである。
世界全土を飲み込んだ二度に渡る魔法大戦は、人類のみならず、数多の命を奪った。多種多様な生物が死滅し、生態系が崩壊していく中、新たな生態系の頂点に君臨するものとして誕生したのが竜級幻魔である。
オトヒメは、そんな竜級幻魔に次ぐ存在として、鬼級幻魔として魔法大戦の最中に誕生し、大戦が終わり、魔法時代が幕を下ろしたことを実態として理解する中で、数多の竜の産声を聞いた。
そのうち、どれくらいが人類によって認識されたのかもわからないし、オトヒメたち幻魔もまた、竜の全てを把握しているわけではない。
人間の話によれば、歴史上、六体の竜級が確認されているという。
それにオロチを加えた七体が、人間の認識している竜級となるだろうし、オトヒメとしては、新たに六体の竜の存在を知るきっかけとなったわけだ。
とはいえ、オトヒメにとって、オロチことが絶対唯一の存在であり、不変の神であることに揺るぎようはなかった。
ほかに竜がいようとも、オトヒメが初めて出逢った竜こそ、彼女の神であり、オトヒメは、オロチと出逢ったとき、己の使命を理解した。
それがオロチの眠りを護ることだ。
オロチと出逢い、オロチの中に完全性を視たオトヒメは、オロチこそが生態系の頂点に君臨する絶対者であると理解した。オロチの下では何者も平等であり、オロチを上に戴くかぎり全ての存在は等価値である。
オトヒメにとって、これ以上のない絶対的な理論が組み上がると、彼女は、全身全霊を捧げ、〈殻〉を作り上げた。
それこそが、オロチの寝床としての〈殻〉、龍宮が誕生した経緯である。
オトヒメは、龍宮に祭神としてオロチを奉じ、自らを祭主とした。
そして、龍宮を、殻印を持たざる幻魔にも開放した。
この世には、争いが多すぎる。
誰も彼もが命を懸けた血みどろの戦いを繰り返している。
わけのわからぬ領土争いに全てを費やし、ついには滅び去るものまでいる始末。
オトヒメには、鬼級幻魔たちの野心がまるで理解出来なかったし、それが鬼級の本能などとは想いたくもなかった。
幻魔とは、進化した存在であるはずだ。
人類の魔力から誕生し、故に人類よりも遥かに進化した存在。
なればこそ、鬼級たちは、万物の霊長を名乗っているのではないのか。
であれば、人間のようなくだらない領土争いに終始する己らの醜さ、愚かしさを理解して然るべきではないか。
オトヒメは、オロチとの対話の中で、そのようなことばかりを考えていた。
だからこそ、〈殻〉を開放したのであり、やがて龍宮には何者にも支配されざる幻魔たちで満ち溢れた。
そして、マルファスである。
いま、最前線でムスペルヘイムの軍勢と死闘を繰り広げる彼がやってきたのは、数十年前のことだ。
彼は、北に〈殻〉を構えていたといい、領土的野心に駆られた鬼級幻魔アーサーの軍勢に敗れ去ったのだという。
命からがら逃げ出したマルファスは、各地を飛び回り、やがて龍宮に落ち着いた。
マルファスもまた、領土的野心を持たない珍しい鬼級だったから、彼との出会いは、オトヒメにとってはこの上なく喜ばしいことだった。マルファスがいてくれるというだけで心強かったし、彼がオロチの安眠を護り続けるために力を尽くしてくれているのも嬉しかった。
そのために軍を編成し始めたのは、少しばかり不安ではあったが、それも致し方のないことなのだろうと理解した。
理想だけでは、夢想だけでは、この残酷な現実を生き抜くことは出来ない。
ましてや、オロチの安眠を護ることなど。
そして、今日まで守り続けることができたのは、マルファスの活躍のおかげにほかならなかった。
龍宮は、オトヒメの思想と意志により、極めて受動的な〈殻〉であった。よって、近隣の〈殻〉にとって攻撃しやすい〈殻〉であり、真っ先に攻撃目標にされる可能性が戦った。
それをどうにかしてきたのがマルファスであり、彼が率いた軍勢である。龍宮の殻印を刻んだ幻魔たちは、オトヒメにこそ忠誠を誓い、その証として、戦場に赴いたのだ。
今まさに、スルト軍と戦い、大量に命を落としていったのは、そんな幻魔たちだった。
そのことがオトヒメの心を押し包むのだ。
自分が戦場に出れば、それで解決するのではないか。
いや、しかし、オロチの祭主として、この場を離れることは出来ない。
オロチとの交感を、オロチとの対話を、自分都合で終えるわけにはいかないのだ。
オロチは、眠る。
眠りながら、夢を見る。
その夢にこそ、オトヒメは楽園を見る。
ふと、オトヒメが頭上を仰ぎ見たのは、祭殿の天井に穿たれた穴から空模様を見ることが出来るからだ。なぜそのような設計になっているのかといえば、それがオロチの望みだったからにほかならない。
そして、天井の穴から覗き見た夜空に、なにかが浮かんでいた。
「人間風情に言い様にやられるとは……所詮は、凡愚の集まりか」
騎士然とした鬼級幻魔は、遥か前方で繰り広げられる幻魔と人間の戦いを見つめながら、不快げにつぶやいた。
鬼級幻魔アグニが、たった三人の人間に敗れ去った瞬間を目の当たりにしたのだ。
鬼級が、人間に敗れたのだ。
あるべきことではなかったし、考えられることでも、信じられることでもなかった。
だが、目の前で起きた現実である。
受け入れるしかない。
「人間を甘く見てるからさ」
声に、彼は、手にした槍の穂部を見た。異形にして洗練された槍の穂部は、まるで禍々しい飾り物のようにして、幻魔の頭部を貫いたままである。
その鬼級幻魔は、バアル・ゼブルという。
彼の属する〈殻〉アヴァロンに侵攻してきた鬼級であり、彼との戦いの果てに敗れ去り、いま、こうして穂部に突き刺さっているのだ。
頭部だけが、だ。
胴体を徹底的に切り刻み、魔晶核さえ破壊し尽くしたというのに、どういうわけか、バアル・ゼブルは存在し続けていた。その様子を疑問に想った彼は、アーサーに具申し、頭部から切り離した胴体を回収、研究のため、サナトスに引き渡された。
そして、頭部だけは、在るべき場所に返してくるように、と、厳命を受けた彼は、こうして遙々《はるばる》南へと足を運んでいたのだ。
その道中、戦場を見た。
この魔界において、戦場など掃いて捨てるほどに存在する。
どこにだって戦場はあり、どこにだって死が溢れている。
ありふれた生と死の相克。
どうでもいい、全く無関係な戦場。
しかし、彼は、気になった。
戦場に人間がいたからだ。
まるで眼下の〈殻〉龍宮の軍勢と、人間の軍勢が協力するようにして、北東の〈殻〉ムスペルヘイムの軍勢と戦っていた。
ありえないことだ。
ありえないことが、目の前で繰り広げられている。
となれば、確認し、情報を収集しなければならない。
「甘く見ているから、言い様にやられるのさ」
バアル・ゼブルの嘲笑うような口調は、一方で、人間を評価しているかのような口振りでもあった。
彼は、バアル・ゼブルの頭部を一瞥すると、戦場に視線を戻した。
かつてスルトに敗れ、スルトに降ったアグニは、スルトの尖兵として龍宮に差し向けられようとしていた。しかし、それをたった三人の人間に食い止められ、ついには撃滅されてしまったのだ。
確かに、人間を侮った結果としか言い様がない。
「貴様にいわれるまでもない」
彼は、軽く槍を振った。
「へ?」
バアル・ゼブルは、激痛とともに視界が激しく流転するのを認識した。側頭部を貫通していた槍の穂部から擦り抜け、落下していく。遥か遠方の戦場がすぐに見えなくなった。
なにやら建物の内側へと入り込み、そのまま落下を続けると、ついには床に激突した。ぐしゃり。そんな音が耳朶を叩いた気がする。
そして、目まぐるしく流転した視界が定まったかと想えば、幻魔が一体、目の前に立っていた。
「あら?」
オトヒメは、空から降ってきたのが幻魔の頭部だということに気づいたとき、呆然とした。
それも、鬼級幻魔の頭部だった。
頭部に満ちた魔素質量だけで妖級を遥かに凌駕しているのだから、間違えようもなかった。
「やあ」
少年染みた鬼級の頭部は、そんな風にオトヒメに挨拶した。
なぜ、あの鬼級幻魔クー・フーリンが自分をこの場所に投げ捨てたのかはわからないが、どうでもよかった。
好機だ。
死が、満ちている。