第七百五十六話 星将の戦い(三)
『鬼級幻魔アグニの撃破を確認! 軍団長一人も欠けていません! 凄いです! さすがです!』
情報官の歓喜に満ちた声が通信機越しに響き渡ってくるのは、ある意味では当然だっただろう。
鬼級幻魔の打倒は、人類復興という大願を成就させる上で必要不可欠な要素でありながら、極めて困難なことでもあった。
妖級以下の幻魔は、ある程度の実力のある導士ならば斃せるものだ。たとえ一人では斃せなくとも、複数名の導士が力を合わせれば、上位妖級幻魔であろうとも撃破できる。
これまで、そうした数多の幻魔を斃してきたという実績があり、事実がある。
しかし、鬼級ともなれば、そういうわけにはいかなかった。
鬼級と妖級の間には、覆しようのない力の差があるのだ。
上位妖級幻魔をたった一人で撃破できたとして、鬼級幻魔と戦えるかといえば、そうではなかった。
鬼級に傷つけることができるかどうかすら、怪しいものである。
それほどまでに鬼級の力は圧倒的であり、凶悪無比なのだ。
それでも、戦団は、これまでに複数の鬼級を撃破したという記録がある。
そしてそれらの鬼級は、殻主であり、正攻法で撃破したわけではないという否定できない事実もあるのである。
正面から撃破した鬼級といえば、オロバスとエロスくらいだったのではないか。
そして、そのためにどれほどの犠牲を払わなければならなかったのか。
美由理は、アグニの死骸を見下ろした。
鬼級は、星将三人がかりでようやくまともに戦うことのできる相手だという考えは、正しかった。しかもまともに戦えるようになるだけであり、勝利できるかどうかは状況次第ではないかと思えた。
『よくやった、諸君。本来ならば今すぐ帰投しろといいたいところだが……』
「わかっています、閣下」
神威に答えたのは、神流だ。神流の目は、前線へと向けられている。
スルトとホオリが暴れ回る中、なんとか持ち堪えているのが六人の杖長と愛、マルファスであり、また、スルト軍十数万の軍勢に対抗しているのが、オトヒメ軍と戦団の導士たちだ。
戦線の立て直しには、成功しつつある。
そして、なにより、アグニの撃破に成功したのだ。
スルト軍にとって大きな痛手となったはずだ。
だが。
『……スルトに動揺が見られない。アグニを失って、すぐさま撤退してくれれば良かったのだが』
「これも織り込み済み……ということはないと想いますが」
『予期せぬ出来事ではあっても、ここまで戦力を出した以上、引き下がれないということかもしれん』
「あるいは、スルトとホオリでどうにでもなると踏んでいるのかも知れませんね」
『ふむ……』
「では、わたくしたちも前線へ」
『頼む』
「時間を稼ぎます」
『時間を?』
「はい。後は、彼らがやってくれるでしょう」
『……そういうことか。了解した。全て、きみの判断に任せよう、美由理軍団長』
「はい」
通信機越しの神威の声は、苦汁を飲み込むかのようなものだったが、それもそのはずだろう、と、美由理は想った。
この作戦は、失敗する可能性を多分に含んでいた。
そして、失敗すれば、戦団にとって、人類にとって大きな痛手となる。
それだけは避けたいところだが、作戦を成功させるには、スルトとホオリの意識をこちらに集中させる必要がある。
「どういうこと?」
「美由理軍団長?」
瑞葉と神流の疑問に満ちた表情を受けて、美由理は小さく頭を振った。前方へ、最前線へと視線を向け、飛び立ちながら通信機を機能させる。
「聞こえるか、幸多」
『はっ、はい!』
通信機越しの幸多の声は、予期せぬ通信に狼狽していた。
「きみは、いまムスペルヘイムの中にいるんだな?」
『は、はい。義一くん? が、突然、〈殻〉の中に向かっていっちゃって、それで……』
「追いかけた、と」
『はい。ヴェルちゃんには止められたんですけど、放っておけなくて、それで……』
「そうか。ならば、きみはそのまま義一を追いかけろ。万が一の可能性がある。そのときには、きみの協力が必要となるかもしれない。これは、任務だ。きみは、無事に義一を連れ帰るんだ。必ずな」
『……は、はい、必ず!』
幸多の力強い復唱を聞いて、美由理は、少しばかり安心した。
とはいえ、幸多たちが潜り込んでいるのは〈殻〉の中だ。
スルト軍一千万の幻魔、その大半がそこかしこに生息しているはずだ。
いくらかは龍宮侵攻に費やされ、大量に撃破されたとはいえ、まだまだ数多くの幻魔が〈殻〉の内部に残っているに違いないのだ。
いまもなお、氷漬けになった緋焔門を乗り越えて、最前線へと乗り込んでくる幻魔がいることからも分かる通り、スルト軍は、まだまだ大量の戦力を持て余しているとみていい。
「一体なにがどうなっているのでしょう? 義一くんが〈殻〉の中へ?」
「美由理軍団長、あなたがなにを考えているのか、教えて貰えるかしら?」
「それは……」
美由理には、しかし、二人の疑問に答えている余裕はなかった。
アグニとの戦場から最前線まで、飛行魔法を使えばあっという間だ。
事実、美由理たちは既にスルトの巨躯を視界に捉えており、逆巻く黒い炎の渦を目の当たりにしていた。物凄まじい熱気を肌で感じるほどだ。
「仕方がありませんね。まずは、スルトとホオリに集中しましょうか」
神流は、戦場に舞い降りるようにしながら、瑞葉と美由理に告げた。
二人にも否やはない。
スルトを中心とするその空間は、主戦場なのだ。
苛烈極まる魔法が乱舞し、破壊の限りが尽くされている。
黒い炎が燃え盛り、火の粉が舞って炸裂する。
地獄の真っ只中に飛び込んだかのような感覚。
「アグニを斃したんだって?」
「ああ。なんとかな」
「その傷じゃあ、お嫁に行けないね」
「はっ」
美由理は、愛の軽口を受けながら、全身の傷という傷が塞がっていく柔らかな感覚に包まれていた。アグニとの死闘で負った傷口が完全に塞がっていく。ただし、右腕は失われたままだが。
「右腕、拾ってくればよかったのに。そうすりゃ治せたんだが」
「灼き尽くされたよ」
「あー、そういうことかい」
愛が事も無げに言い放った通り、彼女の星象現界・愛女神は、空間内にいる味方の生命力を限りなく増幅させる魔法であり、治癒魔法の中でも規格外といっても過言ではなかった。
ただ傷を癒やし、傷口を塞ぐだけではなく、損傷部位の復元をも行うのだ。
ただし、完全に失われてしまった部位を復元するのは不可能であり、だからこそ、愛は美由理に右腕を拾ってくればいいといったのだ。この領域内ならば、彼女の星象現界ならば、切断された右腕をくっつける程度、造作もないからだ。
やはり、命を司る女神のような星象現界だと、美由理は、彼女の力に癒やされながら想うのだ。
そして、この星象現界があればこそ、愛は光都事変の英雄の一人となった。
数多くの導士、市民を愛女神の癒やしの力で救ったのだ。
もっとも、そのとき愛が負った心の傷は、彼女自身の魔法でも、星象現界でも、癒やせるものではなかったようだが。
(だから、生き急いでいる)
美由理は、愛がいま最前線にいるのは、そうした理由からだろうと想っていた。
光都事変で敬愛していた星将たちを失い、数多くの同僚を失った。市民もだ。
なにもできず、ただ命が散っていく様を目の当たりにすれば、心の何処かが壊れても致し方がないのではないか。
美由理は、充ち満ちていく魔力を星神力へと昇華しながら、考える。
愛も、イリアも、そして自分も。
いや、誰も彼もが生き急いでいるのではないか。
この地獄のような世界で、死に場所を求めているのではないか。
義一も、彼女も。
きっと、そういうことなのだろう。
美由理は、スルトが傲然と笑う様を見つめながら、四度、星象現界を発動させた。