第七百五十四話 星将の戦い(一)
「これで……当面、増援の心配はしなくていいか」
美由理は、星神力で生み出した大氷壁に閉ざされた緋焔門を見遣り、すぐさま眼の前の敵に視線を戻した。
緋焔門は、ムスペルヘイムと空白地帯を結ぶ通路であり、切り立った断崖に挟まれている。そして、断崖そのものが燃え盛っており、断崖と断崖の狭間、大峡谷とでもいうべき場所である。
緋焔門こそがムスペルヘイムと南側を結ぶ唯一の通り道なのだが、そこが封鎖されたということは、飛行能力を持った幻魔以外には簡単に移動できないということにほかならない。
そして、その巨大な氷壁のただ中には、大量の幻魔が氷漬けになって動けなくなっているはずだった。数千体どころか、数万体もの幻魔を氷漬けにして封じ込めたのである。
スルト軍の増援は、〈殻〉の内側から常に戦場に向かって流れ込んできており、いまや最前線には、十万以上もの幻魔で溢れかえっていた。
戦団龍宮連合軍側はといえば、スルトの降臨以降、戦線を立て直すのに必死になっていた。
生き残った導士たちが互いに護り合いながら陣形を立て直し、後方に待機していたオトヒメ軍の幻魔たちが、最前線へと送り込まれていく。
そうした状況下で戦団の医療部隊が最前線に到着したのだが、やはり、戦況は圧倒的に不利だった。
スルト、ホオリが前線で暴れ回っていて、六人の杖長とマルファスだけでは手に負えそうにない。だからこそ、愛が直接乗り込んだのだろう。
そして、美由理は、こうした絶望的な状況を見て取って、彼女が動いたのだと理解した。
故に、美由理もまた、星象現界を発動したのだ。
「月黄泉?」
「はい。しかし、鬼級にはわずかな時間稼ぎにしかならないでしょう」
美由理は、神流の質問に答えながら、アグニを見据えた。アグニを包み込んだのは、やはり、超高密度の星神力の氷塊だ。生半可な力では脱出など不可能だし、妖級以下の幻魔ならば圧力に押し潰され、死ぬ可能性が高い。
アグニは、鬼級だ。
しかも火を得意としているのだ。
反属性である水、そして同じ冷気を司る氷ならば大打撃を与えられるのかといえば、そういうわけでもなかった。
魔法力学において、もっとも重要なのは、魔素質量である。
つまり、魔力、星神力の質量こそが、勝敗を決定づける最大の要素なのだ。
さて、アグニの魔素質量は、鬼級だけあって膨大極まりない。
手にした二本の槍が炎を噴き出し、氷塊を溶かし尽くすまで然程時間はかからなかった。ものの数十秒。しかし、その数十秒は、決して無意味ではない。
瑞葉が次なる攻撃の準備を完了するまでに、神流が一斉射撃の準備を整えるまでに、それだけの時間があれば十分だった。
「たかが氷漬けにしただけで、おれを斃せるなどと思うたか、下郎よ!」
氷塊を爆砕させて飛び出してきたアグニに対し、神流も瑞葉も、そして美由理も、至極冷静な眼差しを向けていた。
二本の槍が回転し、炎が輪を描いたその瞬間、物凄まじい水量の洪水がアグニを飲み込んだ。全身を徹底的に打ちつけ、破砕する星神力の奔流。
そこへ、電熱を帯びた星神力の塊が砲弾として撃ち込まれていく。電光の尾を曳く無数の砲弾が、アグニのずたずたになった魔晶体をさらに損壊し、打ち砕き続けていく様は、圧巻というほかない。
それだけでは留まらない。
美由理が生み出した氷の槍が、四方八方からアグニを攻め立て、鬼級幻魔に咆哮させた。
火柱が、天を衝く。
荒かった呼吸が次第に安定していくのは、全身に浴びた大量の魔素がその毒気とともに体外に排出されていっているからだろう。
痛みは、完全に消えて失せた。
右腕こそ失ったものの、視界は良好そのものだ。
右眼に突き刺さっていた鎧套の破片を引き抜くと、あっという間に治ってしまった。
元々自己治癒力は、魔法士が驚くほどに高かったが、その原因が明らかになったことで、それが生来の能力などではないことがわかって納得したものだ。
人間は、この魔界の環境に適応するため、魔導強化法を生み出した。
当初、異界環境適応処置と呼ばれたそれは、戦団によって魔導強化法と名を改められ、第二世代、第三世代と改良を重ねられていったという。
そしてそれはただこの魔素濃度が何十倍、何百倍にも膨れ上がった地上の環境に適応するためだけの処置ではなかった。
身体能力も増幅され、魔素生産量も増大し、自然治癒力も強化された。人々が長期間にわたって若々しく、健康的な肉体を維持できているのも、魔導強化法のおかげだ。
もちろん、魔法の恩恵も多分にあるのだろうが。
幸多は、第四世代相当の魔導強化法を施術されているのではないか、と推測された。それは事実ではあったのだが、同時に、別の技術も組み込まれていた。
分子機械である。
赤羽亮二が独自に開発したというこの分子機械は、幸多の体内で常に細胞の新陳代謝を行っているのだ。故に、幸多がどれほどの重傷を負っても、瞬く間に回復できるのだ、という。
負傷した右眼があっという間に回復したことで、幸多は、分子機械の治癒力の高さを実感し、感謝した。
おかげで、動き回ることができるからだ。
幸多は、義一を追っていた。
スルトの降臨によって戦線が崩壊した直後、義一は、どういうわけか緋焔門へと向かっていってしまったのだ。
ムスペルヘイムの奥へと。
幸多が意識を取り戻したときには、義一の姿は完全になかった。
そして、スルトと杖長たちの戦いは激化しているだけでなく、最前線には、スルト軍の幻魔たちが雪崩のように押し寄せてきていた。
その真っ只中へ、義一は消えた。
意識を失ったままの真白と黒乃のことを別の小隊に任せると、幸多は、鎧套と闘衣を転送した。
F型兵装は、高密度の魔素の塊である。一方、幸多自身には、一切の魔素が宿っていない。その特異体質を活かせば、幻魔の群れのただ中に突入するのもお手の物だった。
この魔素密度だ。
戦団の制服に着替えた幸多の姿は、幻魔の目には捉えきれない。
ただ見えないだけではない。
幸多の存在そのものを知覚出来なくなるのだ。
鬼級幻魔すら、幸多の存在を認識できなかったという事実がある。
だからこそ、幸多は、義一を追いかけた。導士たちの制止を振り切り、幻魔の群れの中へと身を躍らせた。
義一の言葉が耳に残っている。
義一の表情が、網膜に焼き付いている。
彼は、他人事のように義一のことをいった。まるで、自分が義一ではないかのように振る舞っていた。
それが、幸多には、他人事には思えないのだ。
(義一くんにも、いるのかもしれない)
幸多の中にいる彼らのような存在がいて、それがいままさに表出しているのではないか。
そして、そのために暴走したのだとすれば、すぐにでも追いかけなければならない。
隊員の面倒を見るのは、隊長の務めだ。
まだ発足したばかりとはいえ、真星小隊は、幸多の小隊であり、義一は欠かせない隊員なのだ。
放っておくことなど、できるわけがない。
ガルムやケルベロスが火の息を吐きながら進軍していく真横を駆け抜けていくのは、なんの問題もなかった。大量の幻魔が群れをなして前進し、あるいは戦闘行動を始める中、ただの一体も、幸多の存在を認識しなかった。
仮にぶつかったとしても、気づかれないのではないか。
が、ぶつかったら負傷するのは幸多のほうなので、むしろ丁寧に避けながら緋焔門を突破した。
すると、緋焔峡谷と呼ばれる領域に至る。
マルファスによると、ムスペルヘイムは、スルトによって三つの領域に分けられたという。
緋焔門を潜り抜けた先に横たわるのが、緋焔峡谷だ。その名の通り、緋色の炎がその亀裂から噴き出す峡谷であり、山々によって織りなされる複雑に入り組んだ地形は、この混沌とした空白地帯そのもののようでもなった。
かつてはいくつもの〈殻〉が、ムスペルヘイムの内側にあったというのだが、どこもかしこも似たような景色に変わり果てているところを見れば、スルトによって作り替えられたのだろうと想像が付く。
殻主は、己が〈殻〉を想うままに創造するという。
ムスペルヘイムのどこもかしこも燃え盛る炎に覆われた大地こそが、スルトの望む世界なのだろう。
幸多が緋焔門を突破してしばらくすると、違和感を覚えた。
先程まで谷間から轟然と噴き出していた炎が、突如として凍り付いたかのように動かなくなったのだ。見回せば、緋焔門の炎も、周囲を移動している幻魔たちの動きも止まっていた。
まるで時が止まったように。
「月黄泉……」
幸多の言葉は、そのまま答えとなった。
幸多が移動している間に再び時が動き出すと、それと同時に緋焔門が氷壁に覆われたのだ。
ムスペルヘイムの内側に閉じ込められたという感じだったが、もちろん、そんなことはない。
美由理は、スルト軍の増援を食い止めるためにこそ、月読を使ったに違いなかった。