第七百五十三話 スルト(六)
イリアと愛、そして医務局員二十名を乗せた輸送車両が複数台、自動操縦によって戦場の真っ只中を突っ切っていく。
混沌の大地を埋め尽くすのは、膨大な熱気だ。
スルトとホオリ、そしてアグニが放出する大量の熱が、数多の幻魔が生み出す猛火が、この広大な戦場を席巻し、掻き混ぜ、熱の嵐となって吹き荒れている。
大量の死を飲み込む、莫大な炎。
黒き炎の柱が聳え、渦を巻いて、掻き乱している。
なにもかもが死んでいく、まさに地獄のような戦場。
イリアは、戦場の有り様を見遣りながら、操縦席に備え付けの通信機を手に取った。助手席には愛が座っていて、魔力の練成を始めている。
「聞こえる? 美由理」
『なんだ?』
「戦場にスルトとホオリが現れたわ」
『聞いている』
「杖長たちとマルファスがなんとか持ち堪えてるけど、それも時間の問題よ。そっちは早くなんとかならないの?」
『なんとかしようとはしているが』
「本当に、頼んだわよ。まずはアグニをどうにかしないと、どうしようもないんだから」
『わかっている』
美由理の声がわずかに怒りに震えたのは、イリアに対する苛立ちなどではあるまい。アグニを倒しきれない歯痒さ故だ。
そんなことは、イリアにもわかっている。
とはいえ、いわねばならないことがある。イリアが少しばかり混乱している理由だ。
「それと、一つ問題があるのよ」
『いまこの状況でわたしにいうことか!?』
「義一くんが、姿を消したわ」
『なんだと……!?』
通信機越しに聞こえてくるのは、美由理の動揺であり、荒ぶる魔力の猛りだ。轟然と燃え盛る炎が、通信機の向こう側からその熱気を運んでくるかのようだった。
『いったいどういうことだ!?』
「スルトが現れて、前線が崩壊した。その直後、義一くんの生体反応に異変があったの。それがなんなのかはあなたなら理解できるでしょうけれど、問題はその後よ。義一くんがムスペルヘイムの中に入っちゃったのよ。あなたの命令じゃないわよね?」
『……ああ。命令は出していない。が、事情は理解した』
「どういうこと?」
『説明は後だ。イリア、きみはいまどこにいる?』
イリアは、美由理がこちらの疑問には全く答えてくれないこと渋い顔をしながらも、質問に答えた。
「最前線に向かっているところよ」
『なぜだ?』
「あたしたちの出番だからね。前線を立て直すには、それっきゃないだろ?」
『了解した。そちらは任せる。こちらは、任せろ』
「義一くんはどうするのよ? 幸多くんも追いかけていっちゃったわよ?」
『ならば、好都合だ』
「はい?」
『行け。そして、皆を助けろ』
「言われるまでもないけど」
「ああ、そうさ。言われるまでもないさね」
通信機の向こう側の親友にそう言い返したときには、愛は、助手席の扉を開いていた。加速し続ける車両から飛び出したのは、前方に巨人を捉えたからにほかならない。
「めがみちゃん、頼んだわよ!」
「……任せときな」
愛は、イワキリからの声援に片手を挙げて応えつつ、法機を召喚した。すかさず法機に飛び乗り、白衣を模した導衣を靡かせながら飛行する。
そして、スルトの巨躯と、上空のホオリを肉眼で確認するとともに、その莫大な魔力の奔流が破壊的な熱波となって吹き荒れている様を認識する。
小久保英知の星象現界・大地護神が、杖長たちを辛くも護っていたが、それももはや尽きようとしているのが、巨大な祭壇に佇む英知の様子からも明らかだった。
だから、愛は、上空から祭壇へと飛び降りたのだ。
そして、唱える。
「愛女神」
その星象現界は、イリアと美由理が勝手に命名し、登録したものであり、彼女としては特別に気に入っているわけではなかったが、といってなにかほかに素晴らしい名が思いつくこともなく今日までやってきたのだ。
その結果がこれである。
もはや魔法名が固定化されてしまい、星象現界を発動するためには、この名を真言として発声しなければならなくなってしまった。
魔法とは、想像力の具現だ。
魔法の元型を呼び起こす星象現界ならば、なおのこと、より強固で純粋な想像力が必要となる。
そして、定着してしまった魔法名こそ、想像力を喚起する上で適切な手段なのだ。
愛の全身から放出された星神力が、純白の光となって全周囲へと拡散していく。
スルトやホオリが思わず顔を背けかけるほどに強烈な光は、六人の杖長たちにとっては希望の光そのものであり、勇気を沸き上がらせるには十分すぎるほどの威力を持っていた。
光が、幾重もの波紋となって広がりきると、愛を中心とする同じ大きさの輪となった。幾重にも重なった光の輪は、巨大な球状の結界を形成し、結界内に生命の息吹を巡らせる。
愛女神は、空間展開型の星象現界である。
「また、人間が増えましたな」
「たかが一人増えたところで、どうなるものでもあるまいが」
ホオリが嘲笑い、スルトが傲然と言い放つ。
愛としても、幻魔たちの反応は間違いではないと思っていた。
愛の星象現界は、攻撃能力など一切ない。そもそも愛は補型魔法の使い手であり、補手である。仮に小隊を組むことがあれば、補手としての役割に専念するほど、攻型魔法を不得意としていた。
防型魔法ならば多少なりとも使えるのだが、攻撃系の魔法は、からっきしなのだ。
他者を傷つけることが、できない。
それが治療目的のものであればまだしも、そうでない以上、だれであれ傷つけることができなかった。
相手が人類の天敵たる幻魔であっても、だ。
「そうだろう、マルファス。汝らには、なにもできぬ。我を斃すなど、以ての外ぞ」
「さて……」
マルファスは、スルトの問答に付き合わず、闇の翼を羽撃かせるのみだ。ホオリが撒き散らす火の粉を吹き飛ばし、スルトの生み出す熱波をも天高く舞い上げる。
マルファスの目的は、最初から変わっていない。
スルト軍の戦力を削ぎきって、スルトの野心そのものを落ち着かせることこそが主眼なのだ。スルトを打倒することなど、端から考えてはいない。
現有戦力では、アグニ、ホオリ、スルトの三体を纏めて斃すことなどできるわけもない。
その上、この場にいるスルトは幻躰なのだ。
斃せたとしても、なんの意味もない。
それどころか、こちらが消耗するばかりだ。
スルトへの攻撃は、全くの無意味――というわけでもないのが、問題だ。
スルトを攻撃し、ここに足止めすることには、大いに意味があった。
いま、三人の星将がアグニと戦っている。
アグニが撃破できれば、それだけでスルトにとっては大いなる痛手となるだろう。その瞬間、スルトは冷水を浴びせられたようにして、意志を曲げる可能性が高い。
そして、その可能性に全てを懸けるしかない。
マルファスは、故に、ここにいる。
この場でスルトを食い止める人間たちをわずかでも生かし、スルトを足踏みさせ続けるために。
そんな中現れた妻鹿愛という人間もまた、星将だという話は聞いていた。戦団における医療の頂点に君臨する人物であり、最高峰の治癒魔法の使い手だという。そんな人間が戦場に現れた瞬間、確かに状況が動いた。
それまで消耗し尽くし、疲労困憊といった様子だった人間たちの動きが変わったのだ。
「大丈夫かい?」
「は……はあ」
愛が手を差し伸べると、小久保英知は、困惑したかのような表情で手を取り、立ち上がった。
英知には、なにがなんだかわからないという気持ちで一杯だった。先程まで力尽きる寸前であり、いまにも意識が失われるところだった。
それが突如として力が湧き上がり、星象現界を維持することも可能となったのだ。全身から魔素が満ち溢れ、魔力を練成し、星神力への昇華をも継続することができている。
あり得ないことが起こっていた。
これが、愛の星象現界の力なのだとすれば、とんでもないものではないか。
「これが先生の星象現界の能力、ですか?」
「そうさ。これがあたしのとっておきで、まあ……あんまり使う機会のないものさ」
愛は、多少、バツの悪い顔になった。
なんといっても、愛が前線に出る事自体、あってはならないことだからだ。
愛は、戦団における医療の頂点だ。掛け替えのない存在なのだ。
そんな人物がいかに有用とはいえ、常に最前線に出せるわけがなかった。
今回の帯同だって、半ば強引なものだった。
そして、強引に押し切って良かった、と、彼女は思った。
もし、愛がここにいなければ、杖長たちは全滅していたのではないか。
そうなれば、アグニの打倒すら不可能になる可能性が高い。
愛は、杖長たちがスルトへの集中攻撃を再開する様を認めながら、同時に莫大な星神力の集中を感じた。そしてそれは、愛たちの目の前で巨大な氷柱となって発現する。
それは、スルトの巨躯を完全に飲み込む氷の檻であり、同時にホオリの全身も氷漬けになって地面に落下し、その途中でさらに分厚い氷塊に覆い尽くされて固定された。
とてつもなく巨大な氷像が誕生したのである。
「なっ……!?」
唖然としたのは、英知だけではない。その場にいた全杖長、そしてマルファスは、なにが起きたのか全く理解できていなかった。
愛は、スルトの向こう側を見ていた。
緋焔門一帯が、天を衝くほどに大きな氷壁によって覆い尽くされていたのだ。
スルトとホオリ、そして緋焔門が同時に氷漬けにされたということは、だ。
「なるほどね」
愛は、アグニの方向へと目を向けた。
アグニもまた、巨大な氷塊に閉じ込められたようだった。
美由理が、星象現界・月黄泉を発動させたのだ。