第七百五十一話 スルト(四)
「これだけじゃあ如何ともしがたいのは事実だろうさ。けどな、おれたちゃ人間だぜ?」
「あたしの歌を聴きなああああっ!」
英知が皮肉げに笑えば、瑠衣の大音声が上空から降ってきた。
瑠衣と二体の星霊によるスリーピースロックバンドが、この戦場に凄まじい破壊音を響かせる。その音波そのものが星神力によって生み出された破壊の波動であり、スルトの頭部に直撃すると、凄まじい轟音が響き渡った。
わずかに巨躯が揺れる。
さすがに星象現界というべきだろう。
全く効果がない、などということはありえなかった。
「白く塗り潰してあげる」
続いて、巴が指を鳴らした。すると、スルトの足下から超高密度の冷気が立ち上り、その下半身を氷漬けにして見せた。一瞬、スルトの動きが止まる。
スルトは、そのときになって、ようやく状況を理解したようだった。
鬼級幻魔は、確かに圧倒的としか言いようのない存在だ。
人間と比較した場合、その魔素質量の差は、覆しようのないものだった。魔法技量も、生命力も、身体能力も、なにもかもが鬼級幻魔のほうが遥かに陵駕しているのだ。
絶望的なほどの差が、確かに存在する。
しかし、絶対的なものではない。
絶対的といっていいのは、竜級幻魔ほどの力の差があってこそ、ようやくだ。
鬼級幻魔は、これまで、何度となく人間によって討伐されてきた。
人類生存圏が存在しているのは、人類が鬼級幻魔に打ち勝ってきたという事実があればこそだ。
戦えない相手ではない。
勝てない存在ではない。
斃せない敵ではない。
星象現界さえあれば、だが。
「足りぬ……足りぬな!」
スルトが轟然と吼え、氷漬けになった下半身から黒い炎を噴き出した。そのまま氷を溶かし尽くしたかと思えば、上空に向かって炎の剣を振り抜く。黒い火柱が無数に立ち上り、螺旋を描いて瑠衣へと殺到した。
が、しかし、瑠衣へと到達する直前、巨大な岩塊が立ちはだかる。
黒炎は岩塊に激突し、岩塊こそ爆散させたものの、その向こう側にいた瑠衣にはなんの影響もなかった。むしろ、瑠衣の歌唱は、さらに熱を帯びている。
楽器をかき鳴らし、破滅的な音色を奏でる瑠衣と星霊たち、そしてその歌声によって巻き起こるのは、魔法の嵐だ。
星神力を込められた攻型魔法の数々が、怒濤の如くスルトへと襲いかかっていく。激突と同時に巻き起こるのは、強烈な反動であり、金切り音が戦場にこだまする。
それだけではない。
雪白姫を発動した巴の氷魔法もまた、次々とスルトへと放たれていた。吹雪が降り注ぎ、氷の華が咲き乱れる。星神力の炸裂が、スルトの巨躯をわずかでも削っていく様は、その戦いを見守る周囲の導士たちに勇気を与えた。
もちろん、他の杖長たちも戦闘に参加していたが、彼らの役割は、星象現界を発動中の杖長たちの援護である。
戦いには、役割分担こそが重要だ。
そして、自分たちの役割を十二分に理解しているからこそ、杖長は杖長たりえるのだ。
攻撃に参加できないことを嘆くような、羨むような杖長はいない。
全身全霊の限りを尽くし、瑠衣たちの援護を行うのが、莉華たち三名の杖長であり、だからこそ、瑠衣たちも戦闘に専念できるのである。
スルトは、しかし、まだまだ余裕に満ちていた。
星象現界による攻撃を無数に受けながら、その巨躯は崩れ落ちる気配すら見せない。
黒く燃え盛る炎を全身に纏い、氷魔法の尽くを吹き飛ばせば、そのまま頭上から火の雨を降らせた。黒く破壊的な炎の塊が豪雨となって降り注ぐも、それもまた、どこからともなく出現した岩石の天蓋によって防がれた。
これぞ、大地護神の力だ。
英知は、大地の祭壇の上にあって、星象現界内の大地に常に力を送り続けている。それによって自動的な防御機構が機能しているのであり、彼は、そのために攻撃に参加できないのだが、役割としては十分すぎるほどのものだろう。
演奏と歌唱に専念しなければならない瑠衣にとって、英知の星象現界ほどありがたいものはない。
瑠衣は、ギターをかき鳴らし、喉が張り裂けるほどに歌い続けている。ギターの旋律が律像となり、歌声が真言となって、次々と魔法を発動させるというのが、彼女の星象現界の能力なのだ。
極めて個性的で、他の誰にも真似の出来ないような星象現界だった。
歌声とともに発動する魔法の数々がスルトに直撃し続ければ、さすがのスルトも、煩わしくなったようだ。瑠衣を睨み、だが、その前方に出現した岩壁によって視界を遮られたものだから、怒りを咆哮として発した。
黒い炎が、渦を巻いて、周囲に拡散する。
地上の神殿を徹底的に破壊し、降りしきる吹雪を吹き飛ばし、殺到する魔法の全てを撥ね除けるように、だ。
そのときだった。
黒い風が、吹いた。
「よく、持ち堪えたものだ」
賞賛のようでいて、必ずしもそうでもないような声が聞こえてくると、黒い風が巻き起こって、スルトの巨躯を揺るがした。
黒く巨大な魔力体が、スルトに直撃したのである。
一瞬、それがなんなのか、杖長たちにはわからなかった。
だが、すぐに理解する。
これほどまでの魔素質量の持ち主は鬼級以外にはおらず、そして、スルトを攻撃するような鬼級は、彼以外には考えられなかった。
「マルファス!」
誰かが叫び、その鬼級幻魔を仰ぎ見た。
星空の下に浮かぶマルファスの姿は、天から堕ちてきた天使のようでもあった。漆黒の翼が昏い光を帯び、星明かりの中でもその禍々しさを主張している。
赤黒い双眸も、だ。
まさに鬼級幻魔としか言い様のない威圧感と迫力は、杖長たちにわずかばかりの安心感をもたらした。人類の天敵であり、斃すべき存在だというのに、味方だと認識すれば、こうも頼もしいものかと思わざるを得ない。
マルファスの魔法攻撃が星象現界に匹敵するのは、一目瞭然だった。
スルトの巨躯を揺らすほどの一撃など、誰もが容易く行えるものではない。
だが、スルトは、呵々《かか》と笑った。
マルファスの参戦など、端からわかりきっていたことであるかのようだった。
そして、熱風が吹いたのは、こうなることを読んでいたからなのか、どうか。
「これはこれは、スルト様。随分と苦労していらっしゃる」
「ホオリか」
スルトは、右肩に降り立った部下を横目に見て、憮然とした。緋色の衣を纏う鬼級幻魔は、いつものように飄々《ひょうひょう》とした様子で、彼を見ている。
「我は今、認識を改めたところだ」
「と、いいますと?」
「人間如きがこの魔界を生き延びてきたのには、それ相応の理由があったのだ。アグニが手間取るのも無理からぬことだった、とな」
「ほう」
ホオリは、スルトが人間如き劣等種に対し、そのような評価を下すとは考えてもいなかったため、思わず声を上げた。
スルトならば、たとえどのような相手であろうとも、踏み潰し、灼き尽くし、蹂躙するだけなのではないか。
だが、それはどうやら勝手な思い込みだったようだ。
「しかし、それもこれまでよ。汝が来たれば、我らの進撃を止めるものはどこにもいまい」
「それはその通りでございますな」
ホオリは、にやりとした。
スルトの周囲にいるのは、たった六人の人間とマルファスだけだ。
そのうち、強敵と見ていいのは、マルファスと、なにやら超高密度の魔素質量の塊となった三人だけであり、それ以外の人間には手間取る要素はない。
「では、参りましょうか」
「うむ」
スルトは鷹揚に頷くと、炎の剣を水平に振るった。
剣風が強烈な熱波となって前方広範囲を薙ぎ払おうとするが、巨大な岩壁が出現したことで、その影響は最小限に抑えられてしまう。
だが、スルトには、もはやその仕組みがはっきりと理解できていた。
だからこそ、スルトは、炎の剣を振り回すのである。
「鬼級が増えた!?」
悲鳴は、誰が上げたものだったのか。
誰もが同時に上げたのかもしれないし、もしかすると、通信機越しに聞こえてきたのかもしれなかった。
それほどまでの事態だった。
最悪にして、災厄だ。




