第七百四十九話 スルト(二)
「極大魔素質量を確認! 鬼級幻魔です!」
「なんだと……!」
情報官からの悲鳴にも似た報告が、神威の耳に突き刺さった。予期せぬ事態に衝撃と動揺が生じる。
「鬼級幻魔の出現に伴い、戦線が半壊……いえ、完全に崩壊しました!」
「馬鹿な……!」
神威は、戦場俯瞰図を見つめながら、唸るほかなかった。
緋焔門付近に起きた大爆発は、確かに、その場にいた多数の幻魔、数多くの導士を巻き込み、戦場そのものを崩壊させたのだ。
ただでさえ不利だった最前線の戦況が、その一撃でもってスルト軍の圧倒的優勢へと大きく流れを変えていく。
スルト軍の幻魔の大多数が爆散したが、そんなことではスルト軍の戦力は揺らぎようがない。
数の上では、スルト軍のほうが圧倒的に上だ。
それは、当初からなんら変わらない。
だからこそ、質で対抗しなければならなかった。
質。
連合軍の勝利は、導士たちの魔法技量にこそ、かかっていた。
そして、その勝利とは、スルト軍が真っ先に差し向けてきた鬼級幻魔の打倒であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。
つまりは、アグニだ。
アグニさえ撃破できれば、スルト軍は戦略を立て直す必要に迫られるはずだ――というのが、マルファスの見込みであり、その見込みだけが頼りだった。それに縋り付いていたとすらいっていい。
でなければ、勝ち目がない。
スルト軍の鬼級三体を含む総兵力一千万に対抗するだけの戦力は、こちらにはないのだ。
戦団が全戦力を動員することができれば、撃退することも不可能ではないかもしれないが、現実的ではなかった。
それは即ち、人類生存圏を絶望的な危機に曝すということである。
それはできない。
かといって、龍宮侵攻を見過ごすことも出来ない。
だからこそ急遽二個大隊と、星将三名を動員したのだが、それだけではやはり足りなかった。
アグニだけならばともかく、二体目の鬼級幻魔が投入されたとなれば、戦況がスルト軍に傾くのは道理だ。
そして、そうなる可能性について、考えられないことでもなかったのだ。
「閣下、お気を確かに。全て、想定の範囲内の出来事です。スルト軍は、いえ、スルトは、マルファスの話を聞く限りではとてつもない野心家です。龍宮への侵攻を、龍宮の制圧を心に決めたのであれば、そのためにどのような努力も惜しまないでしょう。戦力の大半を、二体以上の鬼級幻魔を投入することだって、考えていたに違いありません」
吉田光の冷徹なまでの言葉に、神威は、苦い顔をして頷くほかない。作戦部参謀の彼には、わかりきったことだったのであり、何度となく注進されてきたことである。
しかし、戦団と央都の現状を考えれば、これ以上の戦力を即座に動かすことは難しかった。
その結果が、このザマだ。
黒い炎の巨人が、死屍累々《ししるいるい》の最前線を悠然と歩いていく。ただ歩くだけで黒い炎が撒き散らされ、周囲の大気が灼かれ、幻魔や導士たちを殺戮していくのだ。
まさに幻魔災害だ。
存在そのものが、災害なのだ。
神威は、天を仰いだ。マルファスを睨んだのだ。
「あれがスルトか?」
「……ああ。あれがスルトだ。まさか、スルト自ら出張ってくるとはな」
マルファスも苦渋に満ちた表情をしていた。
そして、彼は、複雑怪奇な律像を展開すると、何事かを唱え、姿を消した。
神威が、ヤタガラスからの中継映像に目を向ければ、スルトの巨躯に黒い魔力体が激突する瞬間だった。
マルファスだ。
一方その頃、戦団陣地内には、大量の損傷報告が響き渡っており、医務局の導士たちが前線へ移動する準備を始めていた。
今作戦に、多数の医務局導士が帯同しているのは、戦後を考慮してのことである。
戦後、大量の負傷者が出ることは間違いなかったし、そのころには各小隊の補手も魔力を使い切っている可能性が高い。
となれば、医務局の導士たちが活躍する機会が訪れるだろうと判断されたのだ。
戦場に帯同するということは、死地に赴くということだ。
今回、動員されたのは、医務局内の事前の取り決めに従った人員ばかりであり、戦場に出ることを了承しているものたちばかりだ。
だからこそ、このような状況にも即座に対応できるのだが。
愛は、いつだって、そんな部下たちの健気さに胸を打たれるのだ。
「さて、あたしも行くかね」
「本気なの?」
「あたしはさ……もう嫌なんだよ」
愛がイリアを真っ直ぐに見つめると、彼女の瞳の奥でなにかが揺れた。イリアには、愛の想いが明確に伝わってくる。
彼女がなにを嫌悪しているのか。
彼女がなぜそこまで生き急いでいるのか。
彼女がどうして死に場所を求めているのか。
イリアには痛いほどわかるから、彼女もすぐさま準備を整えた。といっても導衣を着込むことくらいしかできないが。
「だったらわたしも行くわよ。幸多くんが待ってるもの」
「お兄ちゃんが?」
愛が冗談めかして言うと、イリアは否定もしなかった。
「そうよ。わたしの大切なお兄ちゃんなの、彼」
「幸多くん、困ってたじゃないか」
「年上の妹がいたって、いいじゃない」
「別にいいけどさ」
愛は、この期に及んで調子の変わらないイリアに苦笑するほかなかったが、同時に感謝もした。重くなりがちな空気が、少しだけ軽くなった気がしたからだ。
医務局員とともに前線へ。
戦線を立て直すには、それ以外に打てる手はない。
星象現界は、戦団における魔法の最秘奥だ。
誰もが持つ魔法の元型である〈星〉の象をこの世界に現す、究極の技術。
それが星象現界である。
〈星〉は、魔法の元型と言われるように、魔法士ならば誰もが生まれ持ち、内包しているものだと考えられている。しかし、星象現界を発現できるものは少なく、杖長ほどの導士の中ですら、数えるほどしかいないというのが現状なのだ。
第九軍団の杖長・味泥朝彦の星象現界・秘剣陽炎が有名だが、第九軍団の杖長の中で星象現界が使えるのは、彼を含めても三名しかいない。
第七軍団は二名、第二、第四軍団もそれぞれ三名ずつといった有り様だ。
そんな数少ない星象現界の使い手の中から、今作戦へと投入されたのが、荒井瑠衣であり、鍵巴であり、小久保英知なのだ。
「ふむ。人間にしては、やるようだが」
スルトが傲岸にも告げてくると、その巨大な足でもって、足下に構築された大神殿を踏みつけた。ただの踏みつけは、しかし、大爆発を伴うものであり、大地護神と名付けられた星象現界に大打撃を与えるものだった。
神殿が根底から吹き飛ばされ、粉々に砕け散る。
「こんなもので我をどうにかできると思うたか」
嘲笑い、炎の剣を振り下ろす。剣閃が黒い炎となって迸り、直線上に存在するもの全てを灼き尽くしていくかのようだった。
だが、杖長たちは避けきっている。
「そりゃあ、まあ」
英知は、薄ら笑いすら浮かべながら、自身を乗せた岩石の祭壇の上でスルトを見ていた。スルトの赤黒い目が、英知を捉える。
祭壇は、スルトと目線が合うほどの高さだった。
スルトが踏み潰したはずの神殿がいつの間にか完全に復元していたのだ。いや、それどころか、より複雑かつ巨大なものになっている。