第七百四十八話 スルト(一)
「はぁ……はぁ……!」
龍野霞は、全身から噴き出す汗を止められなかった。意識が激しく揺れている。
いま、目の前で、部下が死んだ。
突如出現した鬼級幻魔によって、殺された。無残に、無慈悲に、無常に。
一瞬にして、命を散らせたのは、つい最近戦団に入ったばかりの才能溢れる若者だった。まだ二十年も生きていない、若い少女。素晴らしい魔法技量の持ち主だったが故に戦団に目を付けられ、戦闘部に勧誘された彼女は、家族の日常を護ることができるなら、と、承諾したのである。
そして、第七軍団に配属され、龍野小隊に入った。
霞は、そんな彼女の才能を認め、育て上げて見せると誓ったばかりだった。
今回の衛星任務も、彼女の導士としての成長に繋がるものだと信じて止まなかったし、実際、通常の衛星任務だけならば、彼女は、魔法士として大きく成長したに違いなかった。
だが、そうはならなかった。
黒き炎の巨人が、火の玉となって降ってきた。
それによって二個大隊の陣形が、オトヒメ軍の布陣が、壊滅的な打撃を受けた。
最前線に展開していた数多くの導士が、最初の爆発によって吹き飛ばされ、魔法壁を引き剥がされたのだ。その上に幻魔爆弾の爆発に飲まれた。爆発に次ぐ爆発の連鎖が、数多の導士の命を奪っていった。
大量の命が、散った。
霞の部下は辛くも生き残っていたが、しかし、巨人の手に掴まれた新人導士は、抵抗することすらできずに死んだ。
握り潰されて、絶命した。
霞が感情の赴くまま、怒りに突き動かされるままに律像を展開するも、黒い巨人は、こちらには見向きもしなかった。
二十メートルはあろうかという巨体からは、常に黒い熱気が発散されていて、周囲には炎が渦巻いている。
ただ歩くだけで、その周囲に甚大な被害をもたらすのは、幻魔災害の名の通りだ。
「霞!」
鋭い叫び声に、はっとなる。見れば、荒井瑠衣がこちらに向かってくるところだった。
「杖長……!」
「あんたは、下がって指示通りに動きな! 奴は鬼級幻魔スルトだ。あんたの敵う相手じゃあないよ!」
「でも……!」
「一時の感傷で自棄になるんじゃあないよ! これまでだって散々見てきただろ!」
瑠衣は、霞を叱り飛ばすと、霞の部下たちが彼女を強引に引っ張っていく様を一瞥した。部下たちの耳には、戦団陣地からの指示が届いているのだ。
スルトから距離を取り、陣形を立て直し、戦線を再構築するという至極真っ当な命令。
そのためにも生き残った全ての導士を回収し、後方から最前線へと向かっているという医務局と合流するのである。
後方にいるはずの医務局導士が前線に送り込まれてくると言うことは、補手やそれ以外の魔法士だけでは間に合わないと判断されたのだろう。
それだけの事態。
それほどまでの窮地。
「そう、これは窮地だ」
瑠衣は、黒き巨人を見上げながら、告げた。
鬼級幻魔は、全長二十メートルはあろうかという巨躯であり、漆黒の表皮からは莫大な魔力が炎となって噴き上がっている。双眸は赤黒く輝き、こちらを見た。一瞬目が合っただけで心が竦《すk》むほどの圧力を感じるのは、鬼級幻魔だからこそだろう。
「でも、それって、最初からだよな」
などと、瑠衣の発言を訂正してきたのは、第二軍団杖長の戎紀律だ。焼け焦げた導衣を新品のそれへと着替え直したばかりの彼は、やはり新品の法機を手に、瑠衣の左後方に展開した。
「そうよね。最初から圧倒的な戦力差だったんだもの。元より、地獄みたいなものだったわ」
紀律の意見に賛同したのは、同じく第二軍団の鍵巴だ。彼女もまた、スルトに灼かれた導衣を転身機によって置き換えており、瑠衣の右前方に布陣した。
「地獄結構。所詮この世は魔界そのものだ。どこもかしこも幻魔ばかり。楽園などありはしないし、天国なんて見つかりはしない」
そう言い切ったのは、第四軍団の杖長、小久保英知。彼は、瑠衣の頭上にあって、法機の上に仁王立ちに立っていた。超高密度の律像が、彼の周囲に構築されていく。
そしてそれは、瑠衣と巴にもいえることだ。
三人は、魔力を星神力へと昇華し、故にこそ、スルトに目を付けられた。
「だからといっても、この有り様はナンセンスだわね」
第四軍団杖長・沢野君江が肩を竦めて見せながら、前方に魔法壁を展開する。超広範囲にして多重の防壁は、つぎの瞬間、スルトが振り下ろしてきた拳を受け止め、引き起こされた黒い魔力の爆発にも耐えて見せた。
ただし、爆風が魔法壁を粉々に吹き飛ばしたため、六人の杖長は、それぞれに飛び離れ、再び空中で陣形を構えた。
「鬼級相手に戦える導士がどれだけいるのよさ」
「だから、あたしたち、なんだろ」
瑠衣は、君江の意見ももっともだと思いつつも、夜空を舞った。スルトがただ動くだけで物凄まじい熱風が渦巻き、ともすればその圧力に吹き飛ばされそうになる。
君江の防型魔法が間に合わなければ、容易く大打撃を受けていたことだろう。
魔法壁が幾重にも展開し、瑠衣たちを護っている。
君江は、魔法壁の展開と維持、再構築に全力を尽くしており、故に彼女は、紀律の法機に横乗りになっていた。
紀律が君江を守り、君江が全員を護っているのだ。
そして、第七軍団のもう一人の杖長・躑躅野莉華は、といえば、瑠依たちが負傷してもすぐさま回復できるように治癒魔法の準備をしていた。だから、会話にも混ざらず、全神経を集中しているのである。
「面白いことをいうものだ!」
スルトの威厳に満ちた大音声が、熱波とともに拡散する。そして声は、真言そのものだ。スルトの魔法が、破壊的な炎の渦となって、周囲の地形を吹き飛ばしていく。
大量の幻魔の死骸も、導士たちの亡骸も、なにもかもが一掃されていくかのようだった。
瑠衣は、歯噛みした。噴き上がる怒りを抑えなければならない。感情のままに行動してはならない。冷静に。冷徹に。冷酷に。
伊佐那美由理の薫陶が、瑠衣の意識を制御する。
「汝ら如き、ものの数にも入らぬぞ?」
スルトの黒々とした巨躯から噴き出すのは、致命的な威力を伴う炎そのものだったし、さらにその炎は巨人の右手に収斂し、巨大な剣となった。
禍々《まがまが》しくも破壊的な炎の刃は、スルトの身の丈ほどもあり、軽く振るうだけで黒い火炎の波が生じた。
多重に展開した魔法壁が粉々に打ち砕かれていく様を見届けながら、瑠衣は、スルトの頭上へと至る。眼下に見下ろす巨人の体は、圧倒的な迫力を与えてくるが、それ以上に許せないという想いのほうが強かった。
だから、彼女は唱えるのだ。
「燃えろあたしの反骨魂!」
スルトの黒い炎に照らされ、瑠衣の影が深くなったかと思うと、その影の中から二体の星霊が出現した。煌びやかな、しかし毒々しくもある衣装を身に纏った女性形の星霊は、ベーシストとドラマーであることを主張するかのようにそれぞれの担当楽器を携えていた。ギターとボーカルは、瑠衣である。
瑠衣は、ギター型法機ロックスターをかき鳴らし、星神力が滾る様を表現した。
化身具象型の星象現界だ。
「雪白姫」
続いて、星象現界を発動したのは、巴である。氷属性を得意とする彼女の星象現界は、武装顕現型であり、全身に纏う白装束は可憐そのものだった。彼女は、さながらおとぎ話の登場人物のように姿を変え、膨大な冷気を周囲にもたらした。
それもスルトの熱気を押し返すほどの冷気である。
「大地護神!」
三人目の星象現界の使い手は、英知だ。
地属性魔法を得意とする彼は、空間展開型の星象現界を使う。広範囲に展開された星神力の結界は、壊滅的な有り様の大地にも見事に作用し、大地そのものが激しく動いた。地中から隆起する無数の岩石が複雑に組み上がっていくと、巨大な神殿が構築される。英知は、神殿の中心に降り立っている。
瑠衣、英知、巴の三人が同時に星象現界を発動したことによって、戦場に星神力が満ちた。
スルトの莫大極まりない魔力を圧倒するには至らないものの、耐えられる程度には強大な魔素質量がそこに出現したのである。