第七百三十九話 ムスペルヘイムの火(四)
幻魔との共闘。
戦団史上、いやそれどころか、人類史上初となる試みは、二個大隊に編成された導士たちに様々な感情を抱かせていた。
人は、誰しも幻魔に対する強い嫌悪感を持つ。
それはまさに遺伝子に刻印された恐怖であり、憎悪であり、絶望であり、怒りであり、蟠りであり、拒絶の記憶そのものだ。
幻魔は、その誕生以来、人類の天敵として存在し続けてきた。
人類にとって、幻魔ほど恐ろしいものはなかった。
人類が再びこの天地の、この地球の覇者として返り咲くためには、幻魔の殲滅こそ避けては通れぬ道である、と、誰もが理解していた。
その幻魔と共闘しろというのだ。
導士の誰もが激論を戦わせるのは当然だった。
無論、命令である以上従わないわけにはいかなかったし、嫌ならば参加しなければいいだけの話だ。
だが、人類存亡の危機が迫っているとなれば、導士たちに否やはなかった。
そして、竜級幻魔オロチの威容を目の当たりにすれば、その脅威を本能的に理解できようというものだ。
オロチが目覚めれば、その圧倒的な力によって、龍宮の周囲一帯に致命的な事態が訪れるだろうというマルファスの脅迫めいた警告が、覆しようのない事実なのだと誰もが認識したのだ。
竜級幻魔は、絶対的な存在だった。
ただ眠っているというだけだというのに、その姿を目にしただけで気が狂いそうになるものが続出し、吐き気や違和感に苛まれるものも少なくなかった。
祭殿を退出後、医務局員に世話になる羽目になった導士は、数多といた。
それによって、オロチの危険性は、理解できた。
確かにオロチを覚醒させるわけにはいかない。
そのために、スルト軍の南進を食い止め、撃退しなければならないというのも、道理だ。
それは、龍宮を、幻魔の国を護るというためではなく、人類生存圏を、双界をこそ護るためなのだ。
それそのものは、この戦闘に参加する五百名全員がわかっている。
しかし、それでも、拭いようのない不快感と嫌悪感、忌避感が導士たちの心に渦巻き続けている。
「幻魔と共闘だなんてね」
「ロックですよね」
「……まあ、そうだね」
荒井瑠衣は、皆代幸多を嘆息混じりに一瞥した。
真夜中、青白い月明かりが星々の光の雨とともに降り注いでいる中、彼女は、大隊長として戦団陣地にあった。
龍宮北東部に構築された戦団陣地には、二個大隊が展開中であり、約五百名の導士たちが、自分たちの出番はまだかまだかと待ち構えている。
戦端は、とっくに開かれているのだ。
鬼級幻魔スルトの〈殻〉ムスペルヘイムと空白地帯の境界付近では、多量の幻魔が激闘を繰り広げており、無数の魔法が乱舞し、数多の咆哮が響き渡って、陣地にまで届いていた。
緋焔門付近の主戦場で、大乱戦が展開されている。
オトヒメ軍の幻魔たちもまた、陣地を構築し、戦団陣地とともに防衛網を形成しているのだが、幻魔たちが陣地に留まっている暇もなく、ひっきりなしに前線へと送り込まれている様子が窺いしれた。
霊級、獣級、妖級の幻魔たち。中でも水、風、闇属性を得意とする幻魔ばかりが、オトヒメ軍に属している。
一方、スルト軍の幻魔は、ほとんどが火属性であり、土、光属性の幻魔が少なからず混じっているという具合だ。
龍宮が水属性の〈殻〉ならば、ムスペルヘイムは火属性の〈殻〉なのだ。
〈殻〉には、なにかしらの特性がある。そしてその特性とは、殻主たる鬼級幻魔の性質に関わるものだとされている。
オトヒメがその名の由来通りに水属性を得意とするように、スルトもまた、由来からして火を得意とするのであり、だからこそ、〈殻〉もそのような特性を持っているのだろう。
ムスペルヘイムは、燃え盛る炎の〈殻〉だ。
戦団陣地からでも、無数の火柱が立ち上っている様がはっきりと見えた。
夜の闇を貫くように燃え上がる火柱の数々は、スルトの力を見せつけるかのようであり、また地獄そのものようでもある。
「オロチの覚醒だけはなんとしても防ぐべきです。あんなものが目覚めれば、人類が滅亡したっておかしくはない」
瑠衣を真っ直ぐに見つめながらいってきたのは、真星小隊の伊佐那義一だ。彼の黄金色の眼が、淡い光を帯びている。
その真眼が、竜級幻魔の絶大な力を認識したというのだろうが、彼の目には、オロチがどのように見えたのか、瑠衣にはわからない。
ただ、祭殿を出た直後、彼が幸多とともに意識を失った瞬間を目の当たりにしている。
ほかにも数多くの導士が気分が悪くなったようだったし、瑠衣自身、オロチの魔力に当てられたような感覚があった。
それがなにを意味するのかといえば、休眠状態であるはずのオロチですら、周囲に多大な影響力を持つということだ。そして、目覚めれば、その影響力は休眠状態の比ではないだろうし、龍宮や近隣の〈殻〉のみならず、央都までもがその影響を受けざるを得まい。
「それは理解してるよ」
瑠衣は、小さく肩を竦めた。
義一たちにいまさら説教されなければならないほど、瑠衣も愚かではない。総長命令であり、戦団の任務として現地に赴いたのだ。いまさら命令に背こうなどは思わない。
そんなものは、ロックでもなんでもない。
ただのわがままだ。
「ただ、幻魔のために命を張ることはないってだけさ」
「そりゃそうだ」
「うん……そうだよね」
九十九兄弟がうなずき合うのを横目に見て、瑠衣は、再び陣地を見回した。
戦団陣地内には、五百余名の導士たちが、夜を徹して戦闘に備えている。
誰もが幻魔との共闘に戸惑いながらも、しかし、それが人類のためならば、央都のためならばと奮起しようとしている。
皆、命懸けであり、決死の覚悟なのだ。
相手は、最大一千万体もの幻魔の大軍勢である。
それを聞いただけで、瑠衣は、絶望感を覚えたものだ。
スルト軍の総兵力が一千万であり、こちらに出せるのは、精々その三分の一が限度ではないか、という話なのだが、だとしても絶望的なまでの戦力差と言わざるを得ない。
オトヒメ軍の総兵力は二百万。当然、出せる戦力というのも、同じく三分の一程度だ。
そこに戦団の五百余名が加わったところで、焼け石に水ではないか。
事態を重く見た戦団は、さらなる戦力を投入するべく調整を行っているのだが、央都内外の防備を考えれば、即座に移動できるものでもない。そして、仮に調整できたとしても、この最前線に送り込める戦力には限りがある。
ただでさえオトロシャの〈殻〉恐府攻略に動こうとしていた矢先なのだ。
そのためにこそ戦力を融通していたというのに、予期せぬ事態に直面してしまった。
戦団本部が混乱するのも無理からぬことだったし、たった五百余名の二個大隊しか派遣できなかったとしても、致し方のないことだ。
「この五百人でどうにかしようってんだ。確かにロックとしかいいようがないね」
瑠衣は、幸多に片目を瞑ってみせると、みずからの持ち場へと戻っていった。
主戦場が、南下しつつある。
最前線の戦闘が激化の一途を辿っており、数多の魔法が炸裂し、爆砕に次ぐ爆砕が、閃光の嵐とともに吹き荒れていた。
『オトヒメ軍が後退しています! ああっ、鬼級幻魔アグニが最前線に現れました!』
情報官からの通信が悲鳴に変わり、戦団陣地内の緊張感を増大させた。
「鬼級幻魔アグニ」
「スルトに降伏して、その部下になった奴だろ?」
「鬼級は鬼級だよ、兄さん」
「わかってるっての。おれはだな――」
『アグニ、オトヒメ軍の前線を突破しました!』
真星小隊が言い合いをしている間にも、戦場の様相は激変していく。
無数の幻魔が爆炎とともに蹴散らされ、塵芥となって夜空に飛散していく様が、南方の戦団陣地からでもはっきりとわかるくらいだった。
それほどまでに鬼級と妖級以下の力の差は歴然としており、故にこそ、オトヒメ軍の前線部隊は、瞬く間に壊滅状態へと陥っていく。
幻魔の戦は、鬼級の力によって左右されるという。
鬼級が出れば、それだけで旗色が変わるのだ、と。
ならば殻主たる鬼級幻魔みずからが軍勢を率いて出張れば必ず勝てるか、といえば、そうではない。結局、敵の殻主も出てくることになるからだ。
鬼級同士の戦いとなれば、勝敗を決定づけるのは、個々の力量差であり、また〈殻〉の戦力差も大きな影響を与える。
『荒井大隊、躑躅野大隊、前進!』
神木神威の大音声が、通信機を通して、戦団陣地全域に響き渡り、それによって全導士が戦闘状態へとその精神を移行させた。
戦いが、始まる。