第七百三十七話 ムスペルヘイムの火(二)
ムスペルヘイム。
龍宮北東部に広がる巨大な〈殻〉は、鬼級幻魔スルトによって作られ、近年、急速な成長を遂げたといわれている。
スルトは、北欧神話に登場する炎の巨人の名であり、その名の通り、炎の化身の如き鬼級幻魔であるという。
鬼級幻魔が生まれ持つ本能である、領土的野心の赴くままに活動しているところを見れば、ありふれた鬼級幻魔の一体といえるだろう。
一方、龍宮の殻主オトヒメは、それら一般的な鬼級幻魔とは一線を画す存在であるといっていい。能動的に領土を広げるための行動を一切取らなければ、自らの意志で幻魔を従えようとしたこともないというのだ。
しかも、オトヒメに忠誠を誓う幻魔たちは、己の意志で、己が楽園たる龍宮を守るためにこそ、殻印をその身に刻んだのだという。
神威は、闇夜を煌々《こうこう》と照らす炎の柱を遥か前方に見遣りながら、苦い顔をした。彼の視線の先には戦団の陣地があり、さらにその前方にオトヒメ軍がその物々しい軍勢を展開している。
そして、その最前線では、いままさに激戦が繰り広げられているのだ。
ムスペルヘイムの南側に設けられた緋焔門と呼ばれる巨大な門から溢れ出しているのが、スルト軍の幻魔たちであり、その数たるや圧倒的としか言いようがない。
それに対するオトヒメ軍の戦力は、あまりにも物足りない。
「幻魔と共闘することになるだなんて、想像したこともありません」
総長命令とはいえ、決して納得できることではない、と、言外にいってきたのは、八幡瑞葉だ。
今回、龍宮を救援するべく、戦団は五百名の導士と三名の軍団長を投入することを決定した。
神木神流、八幡瑞葉、伊佐那美由理である。
その三名の軍団長が、神威の元に集っている。
「だろう。だが、既に一度、起きている」
「一度……?」
「マモン事変の……皆代輝士のことですね」
「ああ、そういえば……」
神流の言葉に瑞葉が思いだしたようにいう。
マモン事変なる幻魔災害を解決に導いたのは、幸多たちが天使型幻魔ドミニオンとの共闘に踏み切ったからだ。ドミニオンの助力がなければ、解決しなかった可能性も大いにある。
もっとも、いずれは砂部愛理の星象現界が完成し、彼女が時間転移を引き起こしたのは間違いない、というのが技術局の導き出した結論だが。
しかし、仮にそうなったとしてもそこに至るまでの経緯を考えれば、必ずしも喜ばしいことではない。
それまでにあの場にいた導士たちは消耗し尽くし、壊滅した状態で、砂部愛理だけが時間転移によって姿を消すような結末になっていた可能性だって、十二分に考えられるのだ。
あのときは、あれが最善の結果だった。
それは、理解できている。
しかし。
「本当に信用できるんですか?」
「オトヒメは、信用して良い」
「オトヒメは……ですか」
「ああ」
「閣下は、オトヒメのなにをもって信用に値すると考えておられるのですか?」
神流の疑問は、当然のものだった。
神威がオトヒメになにを感じ、なにを想い、なにを認めたのか、といったことについて、なにも伝えていなかったからだ。
遥か前方、闇夜を灼くムスペルヘイムの紅蓮の猛火を睨み据えながら、神威は口を開く。
「オトヒメは、オロチを神の如く信仰している。そして、オロチを神とすれば、それ以外の全ては等価値であると考えているようだ。己を含めてな」
オトヒメが龍宮に来るものを拒まず、殻印すら必要とせずに住み着くことを許しているのも、その現れだろう。
だからこそ、野良の幻魔たちは、龍宮に集い、オトヒメの庇護下に入る。
ただし、オトヒメに忠誠を誓っているわけでもなければ、支配されているわけでもないから、戦火が迫れば、逃散してしまうものも少なくないという。
そう、マルファスが嘆いていた。
散々、オトヒメの庇護を受けながら、大事のときには、力を貸そうともせずに去って行くものがあまりにも多いのだ、と。
だからこそ、龍宮は窮地に曝されているのだ、とも。
「それは優しさや慈悲などとは全く異なるものだ。幻魔も人間も、おそらくそれ以外の生物も含めた全てが、オトヒメにとってはどうでもいいのだ。オロチさえあればそれでいい。それがオトヒメの価値観の根源であり、全てなのだろう」
「だから、信用していい、と?」
「少なくとも、オトヒメは我々を敵視してはいないし、利用しようとも考えてはいない。ただ、オロチの安眠を護る同胞として見ているように思える」
であれば、戦いが終わった直後、こちらを裏切り、攻撃してくるようなことはないだろう、と、神威は結論づけた。
少なくとも、オトヒメは、だが。
「オトヒメは、ですよね?」
「そうだ。マルファスは、わからない」
「わたしを信用する必要はない。オトヒメを信用しろ」
不意に頭上から声が降りてきて、神威たちは、それが星々の光を浴びながら降ってくるのを見た。
マルファスである。
漆黒の翼が、星明かりを受けて輝いている。
「わたしが殻印を刻んだのも、オトヒメに忠誠を誓うためだ。殻印を刻んだものは、殻主の命令に忠実になる。いままさに最前線で戦っている幻魔たちのように命を散らすことも厭わない。それが殻印を刻むということだ」
「龍宮は殻印を刻む必要はないという話ではなかったか?」
「だからこそだ。だからこそ、殻印を刻み、忠誠の証を立てる必要があると、わたしは判断した。そうすることで、オトヒメとオロチの安息を護ることができるのであれば、これほど安いことはない」
マルファスの表情からは、彼がオトヒメに心酔している様子が窺えて、神威は静かに納得した。
マルファスの言葉に嘘はない。
なにせ、彼は、戦団に己の弱点を、心臓たる魔晶核を渡したままなのだ。それはつまり、スルト軍の撃退に成功した後、戦団が己の心臓を破壊する可能性すら受け入れているということなのだ。
彼は、その身の全てで、戦団の信頼を勝ち取ろうとしている。
「わかった。では、我々はオトヒメを信用することとしよう。マルファス、きみもな」
神威が告げると、マルファスは、呆気に取られたような顔をした。しばらくして、姿勢を改める。
「神木神威、そして戦団の人々よ。御助力、感謝する」
鬼級幻魔らしからぬ丁重なお辞儀を目の当たりにして、軍団長たちは顔を見合わせた。
幻魔に対する本能的な嫌悪感や忌避感を消し去ることはできないものの、中にはマルファスやオトヒメのような幻魔がいるということは、理解しなければならない。
軍団長たちは、そのように受け止め、マルファスの忠誠心の高さを認めたのだった。
「龍宮は、オトヒメの意向に従い、来るものを拒まず、去る者を追わないという、ほかに類を見ない〈殻〉だ」
マルファスが昔語りを始めたのは、神威たちに多少なりとも理解してもらう必要があると踏んだからだ。
戦端はとっくに開かれているが、戦団の出番まではまだ時間がある。
「わたしは、かつて、北に〈殻〉を構えていた。魔天創世以前からな。本当に小さな〈殻〉だった。戦力もあまりに少なく、故に、魔天創世後、降って沸いたように現れた鬼級幻魔アーサーに一蹴されてしまった」
「アーサー……幻魔大帝の腹心だったか」
「リリス文書に載っていましたね」
「リリス文書? ああ、きみたち人類は、バビロンの魔女を打ち倒したのだったな。リリスめ、なにか記録でも残していたか」
「ああ。リリスが残してくれた記録は、我々人類の発展に大いに役立った。とはいえ、オロチの存在については、知る由もなかったがな」
「それはそうだろう」
マルファスは、大きく息を吐いた。
リリス。
かつてこの魔界に悪名を轟かせた魔女は、幻魔大帝エベルの寵姫であり、エベルに魔天創世を行うようそそのかした大罪人といっても過言ではない。
一部の、幻魔大帝側の幻魔にとっては、だが。
マルファスにしてみれば、リリスのおかげでエベルによる統一がなくなったことになったのだから、むしろ、歓迎するべき存在だった。
とはいえ、リリスは厄災の化身そのものであり、人間たちに打倒されたという事実には、なんの感傷も湧かなかったが。
むしろ、良くやった、という気持ちのほうが強い。
リリスが存在し続けていれば、今頃、龍宮はさらなる戦禍に飲まれていた可能性が高い。そして、オロチが目覚め、暴れ回っていたのではないか、とすら思ってしまう。
リリスの暗躍とは、それほどまでのものだ。