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第七百三十六話 ムスペルヘイムの火(一)

「調子はどうだ?」

「いまはもう、大丈夫です。ご心配をおかけしました」

「そう改まることはない。姉として当然のことだ」

 美由理みゆりのそんな何気ない一言がどんな治療手段よりも効果的だということを理解しているのは、ほかならぬ自分本人だけではないか、などと義一は思うのだ。

 上司、軍団長としてではなく、家族として、姉として心配してくれているというその言葉、心遣いが嬉しいのだ。

 義一は、治療用の寝台から上体を起こしながら、胸の内から沸き上がってくる喜びが周囲に伝わらないように注意した。ともすれば、表情に出てしまいかねない。

 二人がいるのは、戦団本陣内の一角だ。そこは医務局が支配する治療室になっており、彼ともう一人の重症者が担ぎ込まれていた。

 龍宮りゅうぐう北部の空白地帯に急造された戦団本陣には、戦闘部の二個大隊、つまり五百名の戦闘要員と、後方支援のために駆り出された技術局や医務局の導士たちが、いままさに戦闘の準備を推し進めているところだった。

 九月四日、午後九時。

 オトヒメ軍とスルト軍が激戦を繰り広げる最前線が火の海に包まれているという話もあってなのか、真白ましろ黒乃くろのが興奮気味に治療室に飛び込んできた。

 二人が真っ先に向かったのは、治療室内の一角であり、そこには診察を受けた幸多こうたが寝台に横たわっていた。

 オロチの祭殿さいでんを出た直後である。

 幸多が鼻血を流しながら転倒し、義一がそのまま意識を失ったのだ。

 すぐさま義一は魔法による治癒を受けたが、それでも一向に良くなる気配がなかった。龍宮から運び出して、ようやく気分が良くなったところを見ると、オロチの魔力に当てられたのだろうと見られた。

 魔力とは名ばかりの、莫大な魔素まそ質量に、だが。

 それも動態どうたい魔素ではなく、ただの静態せいたい魔素に過ぎない。

 休眠中の竜級りゅうきゅう幻魔は、さながらこの大地と同化するかのようにして、全身を巡っているはずの動態魔素を静態魔素へと変質させていた。そして、その莫大極まりない静態魔素が龍宮全体を取り巻いているようであり、だからこそ、義一は、気分が悪くなって仕方がなかったのだ。

 真眼しんがんは、魔素を目視するという異能だ。

 静態魔素と動態魔素を区別することのできる数少ない方法であり、幻躰げんたいと本体を見分けられる唯一の手段でもある。

 それは戦団にとってはなくてはならないものであり、故にこそ義一は誕生したのだが、今回のように予期せぬ事態に遭遇そうぐうする可能性も秘めている。

「かつてお母様もブルー・ドラゴンを目の当たりにしたときには、意識を失いかけたそうだ。それこそ、竜級幻魔が内包する魔素の膨大さに当てられてな」

「……そういえば、そんな話を聞いた覚えがあります」

「気をつけねばな。きみは、大事な伊佐那いざなの跡取りだ」

「はい」

 義一は、美由理の言葉に込められた想いに強くうなずいた。

 麒麟きりんは、実子を持とうとしてこなかった。

 戦団の創設から長きに渡って最前線で働き続けてきた麒麟には、そのような余裕がなかった――というわけではない。同じく創設者である朱雀院火流羅すざくいんかるら上庄諱かみしょういみならには、配偶者がおり、その間に実子を設けている。

 そして、その子供たちもまた成長し、子を成していた。

 なにか理由があって、設けなかったのだろう。

 義一にはわからないことだが、どうやら美由理や義流ぎりゅうたちは察しているらしい。

 ともかく、実子こそ設けなかった麒麟だったが、戦団の方針から、伊佐那家を地上に確立する必要に迫られた。そこで孤児を引き取り、養子とすることで、伊佐那家を盛り上げようとしたのだ。

 そうして、義流や美那兎みなとらが伊佐那家の一員となっていったのだが、美由理ほどの才能の持ち主をしても、伊佐那家の後継者たりえなかった。

 第三因子・真眼こそが伊佐那家の象徴だから、だろう。

 義一は、己の黄金色の瞳が持つ意味を、いまさらのように理解するのだ。

 竜級幻魔オロチを目の当たりにして、いまもなお網膜もうまくに焼き付く膨大な魔素の残光に、意識そのものが灼かれるような感覚に囚われながら、考え込む。

 自分が後継者で良かったのか、と。

(ほかにだれがいるのよ)

 脳裏のうりにそんな嘆息とも苦笑とも取れない声が響くものだから、義一は小さく頭を振った。自分以外の誰が、麒麟の後継者たりえるのか、と。

「聞いてよ、お兄ちゃん。皆酷いのよ」

「誰がお兄ちゃんなんですか」

「幸多くんだけど」

「えーと……」

「そこまで堂々と言い張れるのも凄いな」

「どう見ても妹って感じじゃないのにね……」

 幸多の寝台に目を向ければ、寝台に横たわっていた彼にイリアがしながれかかるようにしている様が飛び込んできたものだから、義一は、唖然とした。

 そして、なにかが割れるような音がしたものだから、そちらに視線を向けると、美由理の背中が彼の視界を遮った。

「イリア、幸多はいま治療中だぞ」

「治療はもう終わったよ」

「だって」

めぐみ……」

 わなわなと端末を握り潰した手を震わせる美由理の後ろ姿は、義一から見ても鬼気きき迫っていたが、きっとおそらく、表情はいつも通りの鉄面皮に違いなかった。

 ここは、戦団本陣の治療室だ。

 医務局の医師たちが常駐しており、医療設備の稼働状況などを確かめている。

 美由理が素の表情を出せるような状況ではない。

 とはいえ、美由理らしからぬ反応だと、義一は思うのだ。

「ねえ、お兄ちゃんってば、聞いてる?」

「ですから、いつからお兄ちゃんになったんですか」

「いまだけど」

「いま!?」

 幸多が困惑を通り越して素っ頓狂とんきょうな声を上げるのを聞いて、九十九つくも兄弟は、顔を見合わせた。幸多に心底同情するのは、これが初めてではないのだが。

 幸多が医務室に運び込まれることになったのは、祭殿を出た直後に意識を失ったからだ。これはまずいとすぐさま真白と黒乃の二人で地上まで運び出すと、そこでようやく意識を取り戻している。

 幸多が意識を失った原因は、義一とほとんど変わらないのだが、理屈は違うところにあるらしい。

 義一は、意識を席巻するほどの魔素に圧倒され、幸多は、細胞の再生が追い着かないほどの魔素に蝕まれかけた。

 あのままあの場所に滞在し続けることは、幸多を命の危険にきけんす行為だったということであり、戦団本陣の医務室が完成するなり、即座に治療を施されることとなったのだ。

 幸多の肉体がこれほどまでにないくらいの危機的状況に陥ったのは、間違いなく、竜級幻魔の寝床ねどこに足を踏み入れたからにほからならない。

 あの場に満ちていた魔素は、あの場にいたほとんどの導士の体調に悪影響を与えており、九十九兄弟すら軽く目眩めまいを覚えたほどだった。

 神威かむいだけはなんともなさげだったが、しかし、それ以外の導士は、星将せいしょうですら、多かれ少なかれ影響を受けている。

 美由理も、だからこそ、興奮状態に陥っているのではないか、と義一は考えてみたのだが、どうやらそうではなさそうだった。

 イリアが幸多にしなだれかかった体勢のまま、彼の顔を覗き込む。

「駄目かしら?」

「え、えーと……」

「幸多が困っているだろう。それに、まだ治療が終わったばかりだ。安静にしていないといけないはずだろう」

「そんなことはないよ」

「愛……」

「最新型の医療用分子機械を注入したからね。これは、幸多くんの体内の分子機械を元に開発されたものだから、前回のような拒絶反応は起こらないはずだよ」

「もっちろん、開発したのはこのわたし、大天才イリア博士よ、どうお兄ちゃん、良い具合でしょ?」

「そうやってお兄ちゃん呼びを正当化する戦法か」

「戦法ってなんですか」

 義一は堪らず口を挟んだが、幸多を挟んで激論を戦わせる美由理たちには届かなかったようだった。

 すると、九十九兄弟が義一の元へと歩み寄ってきた。

「おれたちの隊長、モテモテだな」

「兄さん、ああいうの、羨ましい?」

「ぜーんぜん」

「だよね」

 真白が思い切り断言するものだから、黒乃は笑うほかなかったし、そんな二人の反応には、義一も苦笑を浮かべるだけだった。

 幸多は、どうやら十八期の魔女たちに好かれているらしい。

 今にも戦火が目前に迫っているこの状況下で、そんなことを考えているのは自分たちくらいのものだろうが。



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