第七百三十五話 竜が眠る都市(五)
幸多は、オロチの祭殿に足を踏み入れるなり、その広大さに驚いたものだったが、なによりも遥か前方に鎮座する巨竜の頭部にこそ、度肝を抜かれた。
記録映像でしか見たことのない、伝説の存在を目の当たりにした気分だった。
実際、その通りだろう。
いま、この世の中を行きている人間の中で、竜級幻魔をその眼で見たものがどれだけいるというのか。
神威を初めとする戦団創設者たちは、リリスとの死闘直後にブルー・ドラゴンと遭遇し、その圧倒的な力に打ちのめされたという話だったし、その後も何度となくブルー・ドラゴンの襲撃を受けたというが。
全身が灼かれるような感覚とともに目を見開き、その姿を網膜に焼き付ける。
オロチは、その頭部だけで数十メートルはあるのではないかという巨大さを誇っており、全長を想像するだけで頭がおかしくなりそうだったし、回廊が長く深く続いた理由も頷けるというものだろう。
本殿の遥か地下でなければ、オロチの頭部を隠しきれるものではないだろうし、その全身となると、龍宮全体の地下深くに埋まっているのではないかと思えた。
「なるほど……そういうことか……」
義一が、幸多の耳元で囁くようにいった。
「な、なにがわかったの?」
「……最初に龍宮を視たとき、オロチの、竜級幻魔の存在を確認したでしょ」
「うん」
義一のいう最初とは、マルファスと初めて遭遇したときのことだ。
今から半日前の出来事に過ぎないから、よく覚えている。
龍宮が侵攻されれば、周囲一帯のみならず、人類生存圏まで壊滅的被害を受けかねない、などと、マルファスはいってきたものだが、その真意は、龍宮に竜級幻魔オロチが眠っているからというものだった。
オロチが覚醒すれば、それだけで人類生存圏にまで被害が及ぶだろう、と、マルファスは告げてきた。
それは、死の宣告に等しい。
ただし、事実ならば、だが。
だからこそ、その事実を確かめるべく幸多たちは龍宮の手前まで訪れ、そして、義一の真眼で確認したのだ。
そして義一は、確かに鬼級幻魔とは比較にならないほどの魔素質量を確認し、それが竜級幻魔によるものと判定したのだが。
「あのとき、竜級幻魔の位置を特定できなかったんだ。龍宮の奥にいることはわかっても、どこにいるのかまでは。その理由がいまわかったよ」
「どういうこったよ?」
「龍宮そのものが、オロチの体の上に築かれていたんだ」
「なるほど……なるほど?」
「ということは、ぼくたちはオロチの体の上にいたってこと?」
「そういうこと……なんだけど」
「ん? どうしたの?」
「隊長、大丈夫?」
「なにが?」
「なにが……って」
義一が心配したのは、幸多の体温が制服越しにも伝わってくるくらいに高くなっていたからだ。祭殿への回廊に足を踏み入れてからというもの急激に上昇し始めた体温は、いまや超高温といっても過言ではないほどの高まりを見せており、幸多の頬を汗が伝っていた。
いくら生体強化を受けているとはいえ、常人の体が耐えられるような体温とは思えなかった。
「体温だよ、体温」
「うん、なんだか暑いね」
「暑くねえよ、むしろ寒いっての」
「うん、寒いくらいなんだけど」
「隊長の体調、おかしいかも」
「それ、冗談?」
「冗談じゃなくて」
幸多は笑って取り合おうとはしなかったし、義一に気づかれるほどに体温が上昇している理由については、深く考えないようにしていた。
考えたところで、どうしようもない。
この完全無能者の肉体が、魔素濃度をどうにか耐え凌ごうとしているだけのことだ、と、幸多は考えていた。体内を巡る大量の分子機械が、肉体を維持するために全力を注いでいる。だからこその発熱であり、発汗なのではないか。
だから、わざと明るく振る舞っているのだが、それが義一や九十九兄弟には奇異に映ったのかもしれない。
そうしていると、神威が祭殿の奥へと歩いて行くのが見えた。
「総長こそ、大丈夫かな?」
「大丈夫だと思うけど……」
黒乃は、幸多の顔が紅潮していることに気づき、なんともいえない表情になった。義一の言うとおり、幸多の体調が尋常ではないことは明らかだった。
かといって、どうすればいいのかわからない。
幸多に負ぶさっている義一を見れば、彼の金色の眼は、今は神威とオロチに集中していて、強烈な光を帯びている。いつにない輝きは、まさに異能を発揮しているといわんばかりだ。
「総長、なにしようってんだ?」
「さあ?」
幸多にも神威の目的はわからない。
神威は、オロチの頭部、その真下にまで歩み寄ると、頭上を仰いでいた。
その様子を見つめる義一の眼には、オロチの頭部が発する魔素質量と同等の魔素質量が神威の全身に満ちる様が映った。しかし。
(え……?)
義一が驚きの余り瞬きした次の瞬間には、神威の魔素質量は通常のそれと変わらなくなっていたのだが。
義一には、なにがなんだかわからなくなった。
「なるほどね。事情は理解したわ。でも、それにしたって先を急ぎすぎじゃないかしら。わたしたち、ずっと外で待たされてたんだけど」
「さすがに〈殻〉内部に機材を持ち込むのはな」
美由理が冷ややかな表情でもって応対したのは、技術局の一団を率いていたイリアにである。
イリアは、今回の作戦にあたって技術局を筆頭とする後方支援部隊を結成、トリフネ級輸送艇三機に分乗し、戦団本部を飛び立った。
第九衛星拠点にて美由理たちと合流し、龍宮手前まで移動してきたというわけである。
「わたしは、良くない?」
「だったら来たら良かっただろう」
「行けるものなら行ききたかったわよ! でも、こっちにもこっちの事情があってね」
「事情?」
「閣下からの指示を待っていたのよ」
「そして、この状況か」
「そういうこと」
イリアは、ふふんと笑うと、展開中の戦団陣地を見回した。
夜である。
時刻は既に午後八時を回っており、頭上には無数の星々の輝きが満ちていた。その星明かりの下に横たわるのは、龍宮北東部の空白地帯だ。
その起伏に富んだ赤黒い大地のど真ん中には、擬似霊場発生装置イワクラが多数設置され、それぞれが簡易結界を構築している。そして、それら簡易結界を中心に展開型簡易防壁ヤマツミが無数に配置されており、それらが展開する様は、まさに要塞の如くといっても過言ではなかった。
イワクラの擬似霊場が幻魔の接近を阻み、ヤマツミの多重防壁が遠距離からの攻撃を防ぐのだ。それによって本陣の安全は確保される。
ここは最前線ではない。
最終防衛線であり、ここを突破されるようなことがあれば、龍宮への侵攻を許すこととなり、オロチの覚醒という最悪の事態を招きかねない。
だからこそ、厳重に守りを固めているのだが。
「閣下の指示通りに鉄壁の防衛網は敷いたわ。あとは、あなたたちが頑張ってくれることを祈るだけよ」
「全力は尽くす。が、まさかこのような事態になろうとはな」
「本当、まさかよねえ。まさか、幻魔と手を組むだなんて」
「そうはいっても、仕方ないさね」
美由理とイリアの会話に割り込んできたのは、なにやら端末を操作している愛だった。
「竜級幻魔がこの地に存在し、惰眠を貪っているというのなら、そのまま眠っていてもらう以外に対処のしようがないものね」
「全くだよ。なんたって、こんなところに竜級が眠っているかねえ」
「それに五十年もの間気づけなかったというのも、ね」
「それも致し方のないことだ」
そういって、三魔女の会議に入り込んできたのは、神威である。隻眼の指揮官は、既に導衣を纏い、臨戦態勢といったところだが、それもそのはずだ。
戦端は、とっくに開かれているのだ。
ムスペルヘイムの軍勢と龍宮の軍勢が、戦団陣地の北東部で激戦と繰り広げている。
無数の魔法が炸裂し、乱舞する様は、大戦争というほかない。
「我々は、央都の、人類生存圏の維持にこそ全力を注いでいた。央都近郊の〈殻〉については調べられるだけ調べたが、それ以上のこととなるとな」
戦団が知っている情報の多くは、ノルン・システムに残されたリリス文書に基づいたものだ。リリスは、几帳面な性格だったのだろう。知りうる限りのことを文書として記録していた。
おかげで、戦団は、近隣の主だった鬼級幻魔について、戦わずしてその情報を得られることができたのであり、故にこそ、戦略を立てることができたという事実もある。
だが、リリスは、龍宮とオトヒメの存在こそ知っていたものの、オトヒメが竜級幻魔オロチを奉るための祭殿として龍宮を作り上げたということは知らなかったようだ。
オロチは、龍宮の遥か地下に眠っていた。
龍宮に接近するだけでは、その存在を認識することはできないし、調べようがなかったのだろう。
今回オロチの存在を確認できたのは、義一がいればこそだ。
彼の真眼が、竜級幻魔相当の魔素質量を認識したのだ。
それも、大地の魔素と同化した代物であり、通常の方法では確認できない状態だった。
それによって判明したのは、休眠状態の竜級幻魔は、体内の魔素を動態魔素から静態魔素へと変化させる性質を持つという新事実であり、驚くべき情報として戦団全体に共有されている。
これまで、休眠状態の竜級幻魔を目視した真眼の持ち主はいなかった。
それはそうだろう。
竜級幻魔が出現したのは、第一次魔法大戦の最中だった。
そのころには、伊佐那の本家はネノクニへと移っていたし、ほかに真眼の持ち主がいたとしても、竜級幻魔に近づこうともしなかったはずだ。
故に、竜級幻魔の特異性について、人類は今日に至るまで知る由もなかったというわけだ。
神威は、静かに嘆息した。
事態は、想像以上に深刻であり、戦団は一歩も退くことは出来ない。