第七百三十四話 竜が眠る都市(四)
オトヒメが広間の奥に向かい、厳重に封印されていた扉を開くと、濃密な魔素が暴風のように流れ込んできた。
神威が思わず足を止めるほどの密度である。肌がひりつき、神経が痺れるような感覚すらあった。
振り返り、導士たちの無事を確認して、前進を再開する。
オトヒメとマルファスは、人間たちの反応などつゆ知らず前進を続けているため、距離が開いた。追いかけなければならない。
本殿と呼ばれる龍宮中心の建造物、その複雑にして精緻な構造の真っ只中にある広間から、さらに奥へ。
扉を潜り抜けると、幻魔造りの回廊がゆるやかな傾斜を描いていた。
幻魔造りとは、幻魔特有の素材を用いた建物全般のことを指す。〈殻〉に存在する建築物、構造物、あらゆるものが幻魔造り、幻魔建築と総称されており、厳密な区別はない。
幻魔は、機械を忌み嫌う。どういう理屈なのかはわからないが、本能として嫌うらしい。
一部の例外として、リリスやマモンのような鬼級幻魔の中には、機械を存分に利用しているものも確認されているが、大半の幻魔は、人間が作った機械の存在そのものを黙殺する。
例えば、幻魔造りの建物に機械が混じっていることがあるのだが、それは機械の存在そのものを無視した結果だと考えられている。機械を無視する余り、材料に紛れ込んでしまうのだ、と。
幻魔建築などに用いられる建材は、幻魔素材とも呼ばれ、この魔界で産出される様々な素材を合成したものである。
そしてそれら幻魔素材は、戦団の技術者、研究者たちによって調査、解析され、央都の発展に大きく寄与していた。もちろん、幻魔素材そのものを利用しているわけではない。
幻魔素材で作られた建物は、人間には到底住み心地のいいものではなく、吐き気を催すほどの違和感を覚えさせるからだ。
今この長大な回廊を歩いている最中でも、とてつもない違和感が四方八方から神威たちを包み込んでいた。
「やはり、幻魔造りというのは、人間には向いていないな」
「わたしは閣下や副総長から伝え聞いていただけですが、実際に〈殻〉に足を踏み入れて、実感しました。これは人間には理解できない、と」
「だろう」
神威は、美由理の忌々しげな表情を横目にみて、小さく頷いた。
「央都も、最初はこうだった」
「バビロンでしたか」
「そうだ。リリスの〈殻〉バビロン。あれを央都の、葦原市の土台にするのには骨が折れたよ」
神威が美由理に昔話をしている中、幸多たちはといえば、隊列の中央辺りを歩いていた。
幸多は、この〈殻〉の魔力に当てられた様子の義一のことが心配で仕方がなかったが、かといって、義一を連れて〈殻〉の外に行くわけにもいかず、黙々と隊列を乱さないことだけを考えていた。
義一は、幸多の背に体を預けたままぐったりとした状態だったが、しかし、その金色の眼は、爛々《らんらん》と輝いている。そして、その輝きは、回廊を降りていく最中、いや増していくばかりだった。
強く、鋭く、激しく。
眼が燃えるように熱いのは、彼が生まれ持った第三因子のせいであり、真眼がその異能を発揮しているからにほかならない。
この地に満ちた膨大な魔素の実体を捉え、目視しているからこそ、脳に多大な負荷がかかっている。そして、魔素の密度は、回廊に至ってより一層、濃くなっているというのがはっきりとわかるのだ。
周囲の導士たちが肌感覚でわかるほどだ。
義一の眼は、いまにも潰れそうなほどの痛みを発している。思わず幸多の首に回した腕に力を込めてしまえば、幸多が彼を振り返り、心配そうな顔をしてきたものだから、首を横に振るしかなかった。
真眼のことで心配をかけたくはない。
こればかりは、他人にはどうにもできないことだからだ。
「まさかこんなことになるなんてね……」
「まじでな」
黒乃と真白は、自分たちが〈殻〉の真っ只中にいて、さらにその深奥部に向かっているという事実に混乱さえしているようだった。
それは、多くの導士が考えていることだ。
まさか幻魔と共闘する羽目になるなど、誰が想像するだろう。その上で〈殻〉を訪れ、踏み込んでいくなど、想像だにできない事態だった。
回廊は、ひたすら地下へと向かい、降っているようだった。ただひたすらに、深く。
そして、義一の真眼には、この地にうねる莫大極まりない魔素の根源へと近づいていることが明らかだった。
「オロチ……」
「え?」
幸多は、義一がぼそりと発した言葉を聞き逃さなかったが、しかし、彼が力なくもたれかかってきたので、それ以上は問いかけなかった。
幸多はといえば、全身が痺れるような感覚に苛まれていた。それがなんなのか、いまならばなんとはなしに理解できる。
いわゆる魔素圧と呼ばれるものだろう。
魔素濃度によって変動するそれは、濃度が濃ければ濃いほどに増すものであり、この龍宮に足を踏み入れたときから幸多の意識を苛んでいた。そして、本殿に近づき、回廊へと至ると、全身の皮膚という皮膚が痛みとして感じるようになったのだ。
(そうか。竜級幻魔の元へ向かっているんだな)
幸多は、義一の発言からそのように理解して、同時に自分の身に起きている異変の正体も把握した。
魔素圧を実感として感じるほどの濃度の魔素が、この回廊に満ちているのだ。
それはつまり、幸多の肉体が魔素に押し潰されそうになっているということにほかならない。痛みとして感じるほどなのだ。しかし、肉体は保っている。細胞が潰されるたびに新たな細胞が表出し、そして細胞が死ぬ。
幸多が、己の細胞の死と再生をこれほどまでに実感したことはなかった。
やがて、隊列が立ち止まったのは、先頭を歩くオトヒメが立ち止まったからであり、オトヒメの前方には荘厳な門が聳えていた。
オトヒメが門扉に触れ、何事かを唱えると、門全体に魔力の波紋が広がった。広間の扉同様に魔法で封じていて、それを解除したのだろう。
そして、オトヒメが門扉を開き、扉の中へと足を踏み入れていくと、マルファスが続き、神威たちも後に続いていく。
門内には、五百名もの導士たち全員が入りきれるほどに広い空間があった。
大空洞である。
その内部は、幻魔造りの祭殿という体裁が整えられており、なにかを祀るための様々な構造物が、空間そのものを彩り、飾っていた。
その中心には、巨大な祭壇がある。
そして、その蒼黒の石材を組み上げて作られたらしい祭壇の上には、誰もが度肝を抜かれるものが鎮座していた。
「これは……」
神威は、門内に足を踏み入れた瞬間、思わず仰け反りそうになったし、導士の中には、その途方もない巨大さに腰を抜かすものもいた。
誰もが驚嘆し、慄然としたのは、その空間全体を埋め尽くしかねないほどに巨大な物体を目の当たりにしたからだ。
異形の蛇とも鰐とも付かないような、そして途方もなく巨大な頭部が、この広大な空間の大半を埋め尽くすかのように存在し、その顎が祭壇に乗っかっている。
まさに竜の頭部そのものだった。
想像上のドラゴンそのものが形となって現れたそれは、竜級幻魔と呼ぶ以外にはないものだったが、なによりも、その巨大さにこそ誰もが圧倒されていた。
頭部だけで何十メートルもあるのではないか。
そして、その頭部の巨大さから想像するに、龍宮の地下全体に渡って本体が埋まっているのではないかと思えた。何十メートルもの頭部を支える胴体である。数百メートルもの巨躯を誇ったとしても、何ら不思議ではない。
なにせ、本殿地下のこの空間には、竜級幻魔の頭部だけが見えているのだ。
竜級幻魔オロチ。
神威は、存在しないはずの右眼が燃えるような感覚に苛まれたことで、確信を抱いた。
「皆様、こちらに眠られておられるのが、わたくしたちの守護、オロチ様でございます」
オトヒメは、祭壇の前に立つと、人間たちを振り返った。オトヒメの身の丈は、人間とさほど変わらない。彼女がオロチの眼前に立つと、オロチの巨大さがより際立った。
圧倒的としか、言いようがない。
神威は、眼帯の下で疼く痛みに苦い顔をしながら、告げた。
「見ればわかる」
「そうでございましょう。オロチ様は、わたくしたちの守護にして、この大地の主。オロチ様の元ならば、誰もが平等にございます。霊級も獣級も妖級も鬼級もありません。人間だからどうだというのでしょう。オロチ様には、何者も敵わないというのに」
オトヒメは、うっとりとした様子でオロチを仰ぎ見ていた。
まるで信仰対象を目前にした人間のように。
「……なるほど」
神威は、ようやくオトヒメに抱いていた違和感の正体に気づいた。
オトヒメが神威たちに向ける眼差しは、柔らかく、穏やかで、慈愛に満ちたものだ。敵意もなければ悪意もなく、人類を見下す幻魔らしからぬものだった。
それは通常ありえない話だ。
幻魔は人類の天敵であり、鬼級ともなれば、人類など餌や糧以下の存在に成り果てる。塵芥同然に見ていたとしても、おかしくはない。
なのに、オトヒメは違った。
それもそのはずだ、と、神威は、いままさに思い知る。
オトヒメは、オロチを絶対の神の如く崇め奉っているのだ。
マルファスのいっていた通りに、だ。
オロチこそ唯一至上の存在であり、オロチ以外の存在は、自分を含めた全てが等価であると考えているかのようだ。
つまり、オトヒメにとって、自分たち幻魔も、神威たち人間も、同じなのだ。
だからこそ、オトヒメは、龍宮を、オロチの安眠を護るためならば、人間と共闘することも受け入れ、積極的に協力しようというのだろう。
そして、それならば、オトヒメが裏切るという可能性は限りなく低くなったと考えていいのではないか。
少なくとも、オトヒメは、だが。
神威は、マルファスを一瞥し、彼がオロチではなく、オトヒメにこそ敬服している事実を確かめると、静かに息を吐いた。
もっとも警戒するべきは、オロチでもオトヒメでもなく、マルファスだ。
そして、マルファスが裏切ることはありえない。
彼の心臓は、未だ、戦団が預かっている。