第七百三十三話 竜が眠る都市(三)
オトヒメは、数多くの幻魔と同様、人類にとって受け入れがたい存在であることに違いはなかった。
人間に極めて酷似した姿形をしているという点は、鬼級幻魔に共通している点であり、マルファスとも同じだ。
二本の足で立ち、二本の腕を持ち、胴体から首が生え、頭がある生物。外見上、とても人間に似ている。わずかに誤魔化すだけで擬態できるくらいには。
オトヒメの容貌は美しいといっていいだろうし、見た目には満点をつけるものもいるかもしれない。穏やかな微笑みを湛えていて、その表情には悪意や敵意など微塵もなかった。人間と相対しているにもかかわらず、だ。
しかし、その赤黒い瞳に宿る禍々《まがまが》しさは、やはり人間には許容しがたいものだった。
人間の遺伝子に刻まれた恐怖や忌避感、嫌悪感が、さながら波紋の如く全身に広がっていく。
オトヒメに害意はない。
むしろ、驚くほどに友好的であり、穏和で、優しげですらあった。
身に纏う優美な装束が、オトヒメの柔らかな精神性を表現しているかのようであり、同時に神秘性を感じさせるようでもあった。白を基調とする衣は、神官や祭司が身につけるための装束のようでもあった。
オトヒメは、この龍宮という祭殿の祭主であり、それに相応しい格好をしているのだろうが。
「話は、マルファスより聞き及んでおります。皆様方は、龍宮の窮地に駆けつけてくださり、わたくしどもと協力してムスペルヘイムの軍勢と戦ってくださる、と」
「……話が早くて助かる。が、我々は、龍宮を、オトヒメ、あなたたちを信用していいものかどうか、判断しきれていない」
「それは……どういう?」
オトヒメが小首を傾げ、隣に立つマルファスに目線を送った。マルファスが困ったような顔をする。
神威の声や表情に含まれる圧力は、彼自身の自己防衛のためもあるが、戦団の代表として、人類の代表としてこの場にいるという事実も影響していた。戦団の行動に関する決定権を持つ神威は、まさに全人類の代表といっても過言ではないのだ。
その責任の重さを神威ほど理解しているものはいない。
判断を一歩でも間違えれば、その瞬間、今日まで築き上げてきた全てが瓦解しかねない。
故に、慎重を期する。
「龍宮の危機は理解した。そしてその危機が我らが人類生存圏に波及するほどのものだということもだ」
神威は、この地に渦巻く膨大な魔力を肌で感じていた。
この濃密極まりない魔素は、ありふれた〈殻〉とは一線を画するものだ。圧倒的な違和感、異様なほどの圧力、神経が磨り減らされていくような感覚。まるでなにか巨大な生物の体内に呑まれたかのような、そんな錯覚すら抱く。
導士たちの大半が、この龍宮の魔素圧に目眩すら覚えているような状態だった。
ここに竜が、竜級幻魔オロチが眠っているというのは、疑いようのない事実だ。
それは、義一が真眼で確認したことによって確定したことではあったが、神威が〈殻〉に足を踏み入れたことによってさらなる確信を得たのである。
ここには、竜が眠っている。
であれば、マルファスのいう近隣一帯の重大な危機が迫っているというのもまた、事実だ。
ムスペルヘイムの軍勢が龍宮を制圧すれば、それだけで大惨事になりかねない。
竜級幻魔オロチが、覚醒とともにその圧倒的な力を発揮し、周囲一帯を根本から破壊することだってありえるのだ。
竜級幻魔は、基本的には活動しない。温厚というよりは、常に惰眠を貪っているような、行動原理すら不明の存在だ。
領土的野心を本能的に行動原理とする鬼級の遥か上位に君臨しながら、なにもかもが違うのが竜級なのだ。
竜級の調査研究が行われた際には、数多の研究者が至近距離への接近に成功し、細胞の採取を成し遂げているほどである。細胞を採取する程度では覚醒することもなければ、怒りに触れるということもないということだ。
しかし、一度、その眠りを妨げると、竜は怒りと共に莫大な魔力を解き放ち、周囲一帯を滅亡させるといわれている。
そして、それが全てだ。
そうした最悪の事態を阻止するためにこそ、神威は、龍宮を救援することを決めた。央都のため、人類のためだ。
そして、なんとしてでもムスペルヘイムの軍勢を撃退し、二度と龍宮へ手出しさせないようにするためには、大打撃を与える必要があるだろう。
そのためには五百人程度の戦力では足りないかもしれず、二陣、三陣の準備を整えつつある。
現状、動員できる戦力がこの五百人なのだ。本来ならば、もっと大多数の戦力を掻き集め、スルト軍に致命的な一撃を叩き込みたい、というのが神威の本音だった。
それでこそ、スルトに考えを改めさせられる。
鬼級幻魔の本能たる領土的野心を消し去ることなどはできないにしても、龍宮をその視野から外すことはできるだろう。
だが。
「ムスペルヘイムの軍勢を撃退するのは、いい。龍宮が攻め落とされ、オロチが目覚めることのほうが余程問題だ。だが、スルト軍を撃退した暁に、龍宮の軍勢が我々を攻撃してこないという保証もまた、ないのだ」
神威は、じろりとマルファスを睨んだ。
マルファスの秀麗な顔がわずかに歪んだのは、彼としては人類に協力を求めるなど、不本意極まりないからに違いない。そうしたマルファスの真意は、彼の言動の端々に現れていた。
「今でこそ協力的だが、スルト軍が撤退し、龍宮への攻撃を諦めようものなら、その瞬間、我々に刃を向けるのではないか。その可能性がある限り、我々は、独自に戦うしかない」
そしてそのような状況に陥った場合の保険として、神威は出張ってきた、というわけだが。
「なるほど。あなた様の仰られることには一理ありますね。わたくしたちは幻魔、あなた方は人類。幻魔の誕生以来、互いに相容れぬ存在であり、忌み嫌い合って参りました。その上、魔天創世によって人類を滅ぼしたのは、幻魔の都合、幻魔の身勝手に他なりません。あなた方がわたくしたちの騙し討ちを危惧するのも、無理からぬこと」
オトヒメは、神威の言及を受けて、それでもなお態度を変えなかった。悪意も敵意もなく、ただ、悲しげに目を伏せるのみである。
そうしたオトヒメの反応を見れば、彼女が博愛精神に溢れた稀有な幻魔である、というマルファスの評も理解できるというものだが。
「では……こちらに参られませ。わたくしたちがなぜ、この龍宮に集まり、平穏裏に暮らし続けてこられたのか、その理由をご覧頂けるはずです」
「全員で、行っても?」
「構いませぬ。少数では不安でしょうし、なにより、わたくしたちに一切の敵意がないということを理解していただきたいのです」
そのためには、誠心誠意、全てを明らかにする必要があるのではないか、と、オトヒメは考え、故に奥へと人間たちを招き入れようとしているのだ。
マルファスは、そんなオトヒメの行動を制することはできない。
この〈殻〉の主はオトヒメであり、彼女の行動が全てに優先される。マルファスに発言権はない。
神威は、そんなマルファスの心情など知るはずもなく、背後を振り返った。
「だそうだ。皆、安心しておれの後についてくるがいい」
神威の後方には、五百人の導士たちが整然と並び立っていたが、その五百人を平然と収容できる広さがこの本殿にも、そして、これから向かう場所にもあるのだということでもあった。その事実には、多少なりとも驚きを覚えざるを得ない。
龍宮の広さは、大和市と同じくらいだ。その中心部に位置しているのが本殿であり、本殿の中心に、いま、神威たちは足を踏み入れている。
そして、オトヒメが、この広間の奥へと通じる扉へと歩き始めたものだから、神威たちもその後に続いた。
マルファスもだ。
彼は、やはり、人間への警戒心を隠せていない。
その点において、オトヒメとはまるで違った。
オトヒメは、神威たちに対し、一切警戒している様子を見せなかったし、嫌悪感や忌避感といった、幻魔が人間に持つ本能的な感情を併せ持っていないかのような、そんな気配すらあったのだ。
それが、神威にはどうにも解せなかった。
幻魔にあるまじき反応だと言わざるを得ない。
しかし、だからこそ、マルファスの反応に安心したりもするのだが。
マルファスが幻魔らしく存在してくれるからこそ、オトヒメの異様さが際立つのであり、危機意識を喚起してくれている。
オトヒメだけならば、絆されかねないのではないかと思えるほどだった。
少し前、マモン事変において皆代幸多が幻魔と共闘したという事実がある。
相手が天使型幻魔だったとはいえ、それでも、通常ではありえないことだったし、考えられないことだった。
ましてや、天使型ならざる幻魔とこれから共闘しようというのだ。
正気と狂気の狭間を行き来しているような感覚が、神威の中にあった。