第七百三十二話 竜が眠る都市(二)
「龍宮は、オトヒメがそう名付けられた。オトヒメの名の由来は、きみたちもよく知っているだろう?」
「浦島太郎に出てくる乙姫か?」
マルファスの質問に応えたのは、美由理である。彼女は、龍宮に入るなり、神威の護衛を買って出て、その隣に並んだのだ。
戦団最高峰の導士たる彼女に護衛してもらえることほど光栄なことはなかったし、どのような場であっても油断しないという彼女の意志の表れには、神威もなにもいえなかった。
ほかに神木神流、八幡瑞葉が帯同しているが、二人は、それぞれ隊列の真ん中辺りと最後尾に位置している。
今回、戦団が龍宮救援のために動員したのは、総勢五百名の導士である。
五百名といえば、戦団の編成単位における二個大隊だ。
約百二十名の輝光級導士とその小隊を集め、編成していると考えればいい。
そこに六名の杖長と三名の星将が加わり、大星将こと軍団総長が総指揮を執っているのである。
戦力としては申し分ない、などとは、口が避けても言えることではない。
何分、スルト率いるムスペルヘイムの軍勢がどの程度の戦力を差し向けてくるのかわからないのだ。
戦団としては、マルファスから聞ける限りのことを聞き出した上で、出せるだけの戦力を出したかった。
かといって、央都の、人類生存圏の防衛網を緩めることもできない。
出せる戦力には限りがあったし、星将を三名も派遣するというだけでも、十分過ぎるほどに融通しているというのが、戦団上層部の意見だった。
神威と護法院には、まだまだ足りないという思いが強かったが、こればかりは、どうしようもない。
龍宮防衛に力を割く余り、央都が手薄になれば、近隣の〈殻〉が黙っているわけもない。ここぞとばかりに戦力を差し向けてくるだろう。
龍宮を守り抜いた結果、央都が滅び去るなど、笑い話にもならない。
「そうだ。オトヒメがなぜそう名乗ったのかは、わたしも詳しくは知らないが、いまならば運命というのだろうな」
「運命?」
「オロチと出逢ったことを、あの方は運命だと考えている」
マルファスは、龍宮の各所に幻魔の気配を認識しながら、魔力だけで彼らを威圧した。五百人以上もの人間が突如として侵入してきたのだ。
マルファスが先導しているとはいえ、警戒しない理由がない。
無論、神威にいったとおり、龍宮の真っ只中で襲いかかるようなものはいないだろうが、万が一のこともある。
故にマルファスは、配下の幻魔たちに一切の手出しをしないようにと厳命しておいた。すると、戦団の様子を警戒していた幻魔たちが、波が引くようにして去っていった。
「オトヒメは、この地で、オロチと出逢い、オロチのためにこそ、龍宮を作り上げた。オロチが安心して眠れる場所として、オロチを祀る祭殿として。オトヒメは龍宮の祭主となり、以来、庇護を求めて訪れる全ての幻魔を受け入れてきた」
「そうして出来上がったのが龍宮の戦力というわけか」
「故に、頼もしくはないのだ」
「なるほど」
神威は、マルファスの苦々しい一言に頷き、納得した。
龍宮の幻魔たちがただオトヒメやオロチの庇護を求めて集まったというのであれば、好戦的ではないだろうし、龍宮を護るためとはいえ、命を張って戦うことすら望まないのではないか。
「それでも、役に立たないわけではない。これまで何度となく龍宮を護ってきたのは、わたしと、彼ら妖級以下の幻魔たちだ。彼らも自分たちの安穏たる日々を護るために必死なのだよ」
「しかし、それだけでは北からの侵攻は抑え切れそうにない、と」
「……その通りだ」
マルファスは、嘆息とともに肯定した。
だからこそ、人間などにまで協力を要請しなければならなかった。
近隣の〈殻〉の幻魔たちは、領土争いにこそその野心の炎を燃えたぎらせているが、他者の領土を護るために戦力を提供するなど、考えられようはずもない。ましてや、滅ぼすべき龍宮を協力して護ろうなどと、思うわけがなかった。
龍宮がスルト軍によって蹂躙されようと、知ったことではないのだ。
その結果、オロチが目覚め、破滅の時を迎えるとは誰も信じていない。
オロチが眠っていることを知っていてなお、黙殺しているのだから、馬鹿げている。
彼らは、竜級幻魔の力の凄まじさを理解していながら、見て見ぬ振りをしている。
愚かとしか言い様がないのだが、それは、当事者だからこその意見なのかもしれない。
マルファスは、前方に見えてきた壮麗な楼門に向かって歩を進めながら、門衛たちが警戒感を強める様を見た。
マルファスが選びに選び抜いた門衛は、妖級幻魔アプサラスたちであり、武装した彼女たちからは天女のような美しさが損なわれていなかった。むしろ、より美々しく飾り立てられている。
それもこれも、オトヒメの趣味趣向が反映されている。
アプサラス。人間が下位妖級幻魔に類別した、幻魔の一種だ。人間に似た姿形をしている上、天女のように美しい容貌と、碧く透き通った肌の持ち主である。幻魔らしく赤黒い双眸は、やはり、禍々しい。
アプサラス本来の異形さは、その武装によって鳴りを潜めているというべきかもしれない。
「門を開けよ」
マルファスが一言告げれば、アプサラスたちは、速やかに楼門の扉を開いた。
荘厳極まる朱の楼門は、オトヒメが待つ龍宮本殿と外界を結ぶ唯一の出入り口であった。
門が完全に開ききるのを待って、マルファスは、神威たちを振り返った。
「オトヒメがお待ちだ。ついてくるがいい」
龍宮本殿は、龍宮の市街地ともいうべき、これまで歩いてきた場所とは空気感からして全く異なる領域だった。
楼門を一歩潜り抜けた瞬間、濃密な魔素が全身に絡みつくかのようであり、神威は、想わず美由理と顔を見合わせたものだったし、背後を振り返り、導士たちの無事を確認しなければならなかった。
高密度の魔素は、それだけで人体に有害だ。
第二世代、第三世代の魔導強化法を受けているであろう導士たちにはなんら悪影響はなさそうではあったが、しかし、神威は、全身を苛む重圧に渋い顔になった。
神威は、第一世代である。
その肉体の強靭さも生命力の強さも、魔素生産量も、なにもかもが第二世代以降の魔法士たちとは比較にならないほどだ。
それでもなんとか耐えられるのは、持ち前の魔法士としての技量が故だろうが。
「これは堪えるな」
「閣下は外で待たれますか」
「冗談をいうな」
「はい」
美由理が顔色一つ変えずに軽口を叩いてくるものだから、神威は、ますます渋面を作った。肉体への負荷は、いや増すばかりだったが、耐えられないほどではない。
少なくとも、この程度で崩壊するような柔な肉体であるはずがないのだ。
そんなことはわかりきっているから、彼は、ここまできたのである。
マルファスが歩を進め、神威たちは後に続く。五百名の導士の隊列に乱れはない。
龍宮本殿内に配置されたオトヒメ配下の幻魔たちが緊迫感に満ちたまなざしを向けてくるが、マルファスが一瞥することで事なきを得た。マルファスの命令は、絶対的なものであるらしい。
来るものを拒まず、全てを受け入れるオトヒメにはできないことを、マルファスが仕方なく代行しているのかもしれない。
そして、そうした様子を見れば、どうやらマルファスは、オトヒメに真に忠誠を誓っているらしいということがわかる。
いや、魔晶核を差し出してきた一件で、はっきりとしていたことかもしれないが。
本殿は、朱塗りの建造物であり、まさに寺社仏閣というべき構造をしていた。ただし、記録に残っている寺社仏閣を複合的に組み合わせたかのような外観であり、内装だった。奇妙というべきか、奇怪というべきか。
オトヒメが、その記憶に基づいて作り上げたものに違いないが、故にところどころ間違いがあったりするのだろう。
そんなことを考えながらマルファスの後に続いていくと、厳重な警備網のただ中を歩いて行くことになり、やがて、本殿の中心部と思しき場所に到着した。
そこは、やはり壮麗な空間であり、ただ一人、美しく着飾った女が待ち受けていたのである。おとぎ話から抜け出してきたかのような出で立ちだった。
その女こそ、この龍宮の殻主たる鬼級幻魔オトヒメであることは、誰の目にも明らかだった。
そしてその鬼級幻魔は、人間たちを確認するなり、恭しく頭を下げてきたのである。
「ようこそ、お越しくださいました。本当に、本当に感謝しています。この感謝の気持ちをどのようにすれば皆様方に伝えられるのかとずっと考えていたのですが、何分、わたくしは幻魔。人間である皆様方の気持ちに寄り添うことはできそうにもなく、このような出迎えになってしまった次第、恥ずかしく想っています」
などというオトヒメの言葉の前には、神威たちが呆気に取られるのも無理からぬことだった。
人類の天敵たる幻魔にあるまじき対応としか、言い様がなかったのだ。