第七百三十一話 竜が眠る都市(一)
「これから先、我が殻主オトヒメが〈殻〉龍宮となる」
マルファスが足を止めたのは、迷いの森を北に抜け、荒涼たる空白地帯を越えた先、赤黒い大地に穿たれた広大な盆地の目前だった。
神威を筆頭とする戦団一行もまた、彼に倣って足を止めた。
五百名の導士からなる二個大隊は、第七軍団杖長二名の指揮下、整然と隊列を組んでいる。皆、導衣を着込み、法機を手にしていた。臨戦態勢なのだ。
その頭上には、トリフネ級空中輸送艇・天勇と天桜、天迅が、その巨大さを見せつけるかのように浮かんでおり、到着の時を今か今かと待ち受けている。それらの輸送機には、戦闘に必要な物資が詰め込まれており、また、作戦部や技術局、医務局の導士たちが搭乗していた。
「〈殻〉がどういう領域なのか、知ってはいるな?」
「鬼級幻魔の領土であり、結界だな。なにかしらの力が付与されている場合が多く、殻印を持たざるものは、その力によって阻害される」
神威は、マルファスの怜悧な眼差しを真正面で受け止めながら、告げた。マルファスが頷く。
「そうだ。しかし、オトヒメは、我らが殻主は心優しい御方なのだ。何度もいうが、幻魔にあるまじき心根の持ち主なのだよ」
「ふむ?」
「つまり、だ。龍宮は、何人も拒まない、ということだ」
マルファスが導き出した結論に、神威は、返すべき言葉を見失った。
通常、あり得ないことのように思えたからだ。
神威は、いままでいくつかの〈殻〉に攻め込んだ。そしてそのたびに〈殻〉に付与された力によって阻害されてきたものである。リリスの〈殻〉バビロンでは魔力の練成を邪魔されたものだったし、イブリースの〈殻〉では細胞という細胞が凍てつくような感覚に苛まれた。
〈殻〉は、鬼級幻魔が己が心臓たる魔晶核を差し出して構築する結界である。そこには、鬼級幻魔の意志が働き、強大な力が巡っている。その力の一端が、なんらかの力として現れ、侵入者を阻害するのだ。
そして、だからこそ、殻印という紋章が必要なのであり、殻印持ちの幻魔たちは、〈殻〉特有の阻害効果を受けずに済むのである。
だが、マルファスの話を聞く限りでは、龍宮には殻印が不要だということだった。
「では、なぜおまえは殻印を刻んでいる?」
「……これはわたしのオトヒメへの忠誠の証であって、それ以上でもそれ以下でもない。そして、ここにいる多くの幻魔たちは、自らの意志で殻印を刻む。誰も強要などはしない。オトヒメの本意ではないからな」
「ふむ……」
神威は、マルファスの当然といわんばかりの反応に、渋い顔をした。
幻魔は、斃すべき敵だ。
そして、リリス文書を通じて、多少なりとも幻魔の社会について知ってきたつもりだったし、それはおそらく間違いではないはずだった。
幻魔社会の根幹に置かれる理とは、力だ。
力こそ全てであり、それ以上の法は、幻魔の世界には存在しなかった。
力有るものが絶対的に正しく、勝利者こそが掟だった。
それが全て。
だからこそ、鬼級幻魔たちですら、絶対者に等しい竜級幻魔には手を出さないし、存在そのものを黙殺しているのではないか、とも考えられた。
竜級幻魔とは、それほどまでに圧倒的であり、絶対的なのだ。
そんな竜級幻魔は、しかし、能動的に活動することはほとんどなく、何十年以上もの間眠り続けているものが大半だった。
だがそれは、休眠中の火山そのものといっても過言ではなく、一度でも噴火すれば、一度でも目覚めれば、手が付けられなくなるのは間違いなかった。
故に神威は即断即決でもって、龍宮への救援を決めたのだ。
そんな龍宮が殻印を必要としない〈殻〉であるという事実も、そうでありながらも殻印を持つことで忠誠の証を立てるマルファスをはじめとする幻魔たちの存在も、神威には、魔界にあらざる不思議に思えてならない。
「では、入ろう。中には大量の幻魔がいるが、気にしないでくれたまえ。誰もがオトヒメに忠誠を誓っている。協力者に襲いかかることはない」
「そうあって欲しいものだ」
「皆、オロチの存在を知り、畏怖している。オロチが目覚めることになりかねないような行いをする理屈がない」
「道理だな」
神威は、やはり渋い顔をしたまま、しかしながら納得はした。
ならばこそ、龍宮は、殻印による統制を行わずとも、安穏たる日々を送ることが出来てきたのではないだろうか。
〈殻〉に属するというのは、殻主たる鬼級幻魔の庇護下に入るということであると同時に、その支配下に入るということでもある。殻主の命令に付き従う兵隊になるということであり、殻主の野心の炎に灼き尽くされかねないという立場でもある。
だが、なんの安全性もない野良の幻魔よりは遥かにましである場合もあるだろうし、そうした理由から〈殻〉に属する幻魔も多いのだろう。
龍宮は、どうか。
オトヒメの庇護下に入るというよりは、むしろ、オロチの庇護下に入るといったほうが近いのではないか、と神威は思った。
竜級幻魔の寝床には、数多くの行き場のない幻魔たちが集っている、といわれている。
なぜならばそこは一種の中立地帯であり、最強無比の支配者の元では、なにものも平等だからだ。そこでは争いが起きることもなければ、諍いへと発展するようなこともない。鬼級幻魔ですら、竜級の眠りを邪魔しようとはしない。
一種の楽園が、竜級幻魔の元には築き上げられているのだといわれている。
龍宮が安定しているのは、まさにそこに理由があるのではないか。
だが、そんな龍宮がいままさに存亡の危機に立たされているというのが、信じられない話ではあった。
龍宮を侵攻しようとしている鬼級幻魔スルトが、龍宮に竜級幻魔が眠っていることを知らないとは考えられない。
マルファスも、龍宮を護るべく、オロチの存在を喧伝しているといい、実際、ある程度は効果があるというのだが、スルト軍は、侵攻の意図を明らかにし、既にその戦力を龍宮に差し向けてきているという。
スルトがなにを考え、なぜ、オロチの覚醒に繋がるかもしれない暴挙に出たのかは、皆目見当もつかないのだ。
神威にも想像のしようがない。
「では、行くぞ」
マルファスは、緊張感たっぷりと言った様子の人間たちを一瞥して、龍宮へと向き直った。盆地に一歩足を踏み入れれば、その瞬間、感覚が冴え渡る。
龍宮を覆う結界が、いままさにマルファスの意識を染め上げていったのだ。
それは安息の地に戻ってきたという感覚であり、安心感そのものといっても過言ではなかったし、同時に圧倒的な力をも感じた。
龍宮は、魔界の大地のど真ん中に穿たれた広大な盆地に築き上げれた都市だ。
〈殻〉の、幻魔都市の多くがそうであるように、あらゆる建造物が幻魔たちの手作りによるものである。幻魔建築とも幻魔造りとも呼ばれる建物群は、人間の眼には奇異に映るものであり、場合によっては吐き気を催したり、嫌悪感に苛まれたりすることがある。
龍宮は、どうか。
薄く青白い光の膜が、龍宮全体を覆っており、それが〈殻〉の結界であることは明らかだった。その結界の内側に幻魔都市が広がっていて、様々な形状の建造物が軒を連ねるように並んでいる。
どこか古風な建物の数々は、とてもではないが、幻魔が作り上げたもののようには見えなかったし、ひとの手が加わっているのではないかと思えるほどに精巧なものばかりだった。
深い蒼と淡い白、そして眩いまでの朱が特に目立つ建物ばかりである。
「これが〈殻〉……」
幸多は、初めて幻魔の領土に足を踏み入れたことに感動すら覚えながら、背中を押されるままに先を急いだ。
真星小隊は、荒井瑠衣が率いる第一大隊に属しているのだが、その第一大隊の隊列の中でも、真っ只中を歩いていた。
「〈殻〉に入るなんて初めてだぜ」
「なんだか……緊張する……」
真白と黒乃が、隊列を乱さないように歩きながら、周囲の建物群に気圧されるようにいった。
建物群の影には、幻魔の姿が散見された。ケットシーやアーヴァンクといった見慣れた幻魔の姿もあれば、妖級幻魔アプサラスやサハギンが建物の窓から顔を覗かせている。
アプサラスもサハギンもやや人間に近い、けれども異形感の伴う姿をしており、一見しただけで嫌悪感が湧き上がるのを抑えられないのは、人間である以上、仕方のないことなのだろう。
そもそも、導士たちの大半が、今回の任務について納得できていなかった。
幻魔と協力して、幻魔の領土を守る戦いなど、そのために命を懸けるなど、考えられる話ではない。
『勘違いするな! 幻魔の《殻》のため、龍宮のためではなく、人類生存圏のため、央都のため、人類の未来のためにこそ、諸君は戦うのだ! 諸君の命は、幻魔どものために燃やすのではない。央都を生きる、双界を生きる人々のためにこそ、燃やし尽くすのだ!』
神威のそのような大号令は、確かに導士たちの胸を打ち、心に響いたものの、それはそれとして、龍宮内部に足を踏み入れれば、胸がざわめくのも当然だった。
「ううん……」
「大丈夫?」
幸多が思わず気遣ったのは、義一の顔色がどうにも優れなかったからだ。
龍宮を目前に控えたときから徐々に体調が悪くなっているようであり、龍宮に入ってからはなおさら悪くなっているようだった。青白い光の膜の中にいるからこそ、余計にそう見えるだけなのか、どうか。
「大丈夫。心配いらないから」
「本当かよ」
「顔色、悪いよ?」
真白も黒乃も、義一のことが心配になって、彼が背負っていた荷物を肩代わりした。
幸多は、不意に寄りかかってきた義一を背負うことにして、自分の荷物を黒乃に預けた。
義一は、幸多の背中で申し訳なくなったが、こればかりはどうしようもないことだとも思った。
魔素に当てられている。
竜級幻魔の魔素質量の凄まじさは、魔素を肉眼で見ることの出来る人間にしか実感できないものなのだ。
ここは龍宮。
竜が眠る都市。