第七百二十九話 龍宮からの使者(四)
龍宮は、鬼級幻魔オトヒメが主宰する〈殻〉である。
〈殻〉とは、鬼級幻魔のみが持つことのできる結界であり、領土そのものといっていい。
鬼級幻魔は、その出現以来、個々に〈殻〉を形成し、その土地の領有権を主張してきた。そして、領土の拡大を推し進めてきたのだ。
〈殻〉と〈殻〉がぶつかり合えば、領土を巡って戦争が勃発したものだったし、それに人間が巻き込まれたという記録も少なからず存在している。
鬼級幻魔の数多くは、領土的野心を抱え持って生まれ落ちてくるのだという。
誰もが己が〈殻〉を拡大することにこそ全生命を懸けているかのようであり、それこそが存在意義であるといわんばかりに〈殻〉の領土争いに全精力を注いでいた。
二度に渡る魔法大戦によって人類が衰退し、それに伴って幻魔が大量に生まれると、鬼級幻魔もまた数多に産声を上げた。それら鬼級幻魔たちもまた、多数の〈殻〉を創造し、その勢力争いが世界全土を飲み込み、幻魔戦国時代へと突入していったのである。
それこそ、鬼級幻魔たちの本能に根付いた領土的野心に基づくものなのだろう。
鬼級幻魔は、誰もが領土を競い合った。
まるでそれが生まれ落ちた理由であるかのように、ひたすらに。
そんな中にあって、数少ない例外こそが、オトヒメだとマルファスは考えていた。
オトヒメだけは、生まれながらにして領土的野心を持ち合わせておらず、故に博愛精神の化身の如き稀有な存在となったのではないか。
そんな風に考えながら、マルファスは、道を急いでいた。
人間たちの組織である戦団の判断は、早かった。
龍宮の置かれている事情を知れば、手を拱いている場合ではないことくらい、人間にだって理解できるというものだろう。
今でこそ惰眠を貪り、休眠状態に陥っているオロチだが、一度目を覚ませば、竜級幻魔に相応しい力でもって暴れ回ること間違いない。
その圧倒的な力は、鬼級幻魔が何体、何十体集まり、束になったところで敵うものではなく、近隣一帯の〈殻〉が跡形もなく消えて失せるだろう。
それだけならば、人類は大いに喜んだかもしれない。
だが、竜級幻魔もまた、幻魔である。
当然、その暴威は、人類生存圏にも牙を剥く。
央都と呼ばれる土地そのものが吹き飛ばされ、大量の命が失われるのは言うまでもなかった。
だからこそ、戦団は、協力を約束したのである。
「ったく、信じらんねえ。なんで幻魔となんて協力しなくちゃならねえんだ」
「そうしないと央都が危ないからだっていってたでしょ」
「どうだか。おれは幻魔のいうことなんざ、信じねえけどな」
「ぼくだって、信用してないけどさ」
「ぼくの眼も信用ならないと?」
「そんなこといってないだろ」
「いってるようなものだよ」
「皆、一先ず落ち着こう。これは総長が決めたことなんだ。ぼくたちは、総長の指示に従い、進むだけだよ」
マルファスが振り返れば、人間たちが口々に意見を言い合っている様が飛び込んでくる。
多くは、反発だった。
遺伝子に刻みつけられた幻魔への恐怖や怒り、敵意が、反感となって現れているようだ。
当たり前のことだろう、と、マルファスもまた思うのだ。
マルファスの考えを龍宮側に提示したとして、両手を上げて賛同する幻魔など、一体としていないだろう。
ほかに妙案があろうがなかろうが、幻魔が人間と協力して事に当たるなど、考えられないことだった。
幻魔は、万物の霊長を自負している。
かつて驕りに驕った人類が用いたその言葉を皮肉として使いつつも、人類を見下しているのである。
人類が魔法を発明した先に誕生した自分たちこそ、この世界の新たな支配者である、と、幻魔の誰もが思っていたし、考えているのだ。
人間など、美味な食材に過ぎない。
そしてそれも、魔天創世後の世界では不要だった。
人間の魔力を喰らわずとも、この地に満ちた多量の魔素で補うことができるからだ。
幻魔が人間の存在を記憶の中から消してしまうほどに、魔界と化した世界は、幻魔たちにとって楽園そのものだったのだ。
そんな幻魔の一体であるマルファスも、まさか人間たちに協力を仰がなければならないような事態になるなどとは、想像だにしていなかった。
だが、こればかりは、どうしようもないことだ。
状況は、切迫している。
いまや、龍宮は存亡の危機に立たされてしまった。
龍宮の近隣にはいくつもの〈殻〉が存在し、そのいずれもが龍宮を狙っている。龍宮が防衛にこそ力を入れているものの、外に打って出ることはなく、内に籠もっているという事実が大きいのだろう。
それこそ、龍宮の殻主にして祭主たるオトヒメの方針によるところが大きく、龍宮に属する全ての幻魔は、祭主の考えに賛同しているものばかりだった。
龍宮の安定と維持。
それこそが、オトヒメと龍宮の幻魔たちの望みだった。
だが、そうした龍宮の方針が、近隣の〈殻〉には、臆病に映るのだろうし、怯懦に見える。
だからこそ、散々攻撃対象にされてきたのだ。
それでも、これまではどうにかやり過ごすことができた。
近隣の小さな〈殻〉からの攻撃ばかりだったからということもあり、辛くも耐え凌ぐことができたのだ。
しかし、今回ばかりはそうもいかなかった。
龍宮の北東部に、鬼級幻魔スルトの〈殻〉ムスペルヘイムがあった。それは当初、龍宮よりも小さな〈殻〉であり、戦力的に見ても龍宮が負ける要素はほぼほぼなかった。眼中にさえ、入っていなかったのだ。
だが、それが、突如として肥大した。
龍宮を遥かに上回る規模の〈殻〉となり、二体の鬼級幻魔を配下に従えたことによって、大戦力を得たスルトは、大いに調子に乗っているのだという。そして、ついに龍宮への侵攻を部下たちに示唆したのである。
その話を伝え聞いたオトヒメは、対話によって、スルトに矛を収めさせようとした。博愛主義者、平和主義者のオトヒメらしい判断だった。
だが、全て、無駄だった。
ムスペルヘイムを訪れたオトヒメは、スルトによってその幻躰を破壊され、それによって宣戦布告の代わりとされたのである。
スルトは、既に龍宮侵攻の軍勢を整えており、龍宮側の軍勢もまた北東部の空白地帯に展開していた。
ムスペルヘイムの広さは、龍宮の四倍から五倍以上であり、戦力差もそれだけあると考えていい。
無論、周囲の〈殻〉のことを考慮すれば、全戦力を龍宮に差し向けてくるような暴挙にはでないだろうが、それにしたって、圧倒的な戦力差だということはいうまでもない。
近隣の〈殻〉を警戒しなければならないのは、龍宮とて同じなのだ。
出せる戦力には、限りがある。
だからこそ、マルファスは、外部に戦力を求めた。
近隣の〈殻〉を飛び回り、協力者を求めた。
だが、いずれの〈殻〉も、彼を受け入れなかったし、追い払うばかりだった。
竜級幻魔の目覚めがどれほど致命的な被害をもたらすのか、だれも想像しないのだ。
想像力の欠如。
それは、幻魔の多くが抱える致命的な欠陥なのではないか。
マルファスは、人間が迷いの森と名付けた結晶樹の樹海上空を飛行しながら、考える。
その結果、人間に協力を申し出ることになるなど、想像だにしない事態だった。
だが、ほかに方法がない。
人間ほど頼りにならない存在もないが、同時に、彼らが多数の鬼級幻魔を屠ってきたという事実から目を逸らしてもならなかった。
彼らと協力すれば、もしかすれば、ムスペルヘイムの軍勢を撃滅することはできなくとも、追い払うことができるのではないか。
龍宮としては、それでよかった。
なにもスルトを滅ぼす必要はないのだ。
二度と龍宮に手出ししないように出来れば、それだけで十分だった。
龍宮の、オロチの安息を護ることが出来るのであれば、それ以上のことは望まない。
そして、だからこそ、人間たちは、マルファスの提案を呑んだのだ。
ムスペルヘイムの軍勢を撃退するまでの、一時的な協力関係の締結。
その最前線には、戦団総長・神木神威の姿があり、だからこそ、戦団の導士たちは不満を持ちつつも、付き従っているという感じがあった。
マルファスは、あの要塞での交渉中、突如として現れた神木神威の圧力には、言葉を失ったものだ。
なぜ、人間如きに気圧されたというのか。
マルファスには、まるで理解できなかった。