第七百二十八話 龍宮からの使者(三)
マルファスがその心臓を提示したのは、ロックハート小隊と真星小隊に包囲されている最中だった。
なぜ、突如としてそんなことをしたのかといえば、そうしなければ埒が開かないと考えたからにほかならない。
人間たちは、幻魔を天敵と見、倒すべき存在と認識してる。
それは当然の帰結であり、道理に他ならない。
幻魔は、散々《さんざん》人類を食い物にしてきた。
人間が死によって生み出す膨大な魔力をこそ最高の食料としてきたのだし、そのためにこそ、人間を追い詰め、殺戮してきたのだ。
ついに幻魔の数が圧倒的になれば、人類さえも不要とする地球そのものの大改変、魔天創世を行い、地球上の生物を死滅へと追い遣ったのだが。
どういうわけかわずかばかりにも生き残った人類からすれば、幻魔を忌み嫌う理由は、十分すぎるほどにあった。
むしろ、嫌わない理由を探すことのほうが難しいだろう。
そんなことは、マルファスにだってわかっている。
そして、交渉の余地などないことも、理解しているのだ。
それでも、マルファスは、彼らにはどうしても交渉の席に着いてもらわなければならなかったし、だからこそ、心臓を差し出したのだ。
魔晶核を曝け出し、差し出したとき、人間たちの反応は、想像以上に混乱し、動揺したものだった。
誰一人として状況を理解できないとでもいうような反応であり、上官の指示を仰がねばならなかった。
マルファスは、即断即決をこそ望んだが、人間には人間の事情があり、そればかりは仕方がないと受け入れた。
「龍宮に竜級幻魔がいるということは、わかった」
マルファスに対してだけでなく、周囲の導士たちに聞かせるようにして、美由理は告げた。
彼女の背後に展開した大型幻板には、ロックハート小隊が収集した情報が表示されている。それによれば、結晶樹の森のさらに北側に横たわる広大な大地、その先の巨大な盆地が龍宮と呼ばれる〈殻〉であることがわかる。
ロックハート小隊と真星小隊は、龍宮と空白地帯の境界付近にまで接近し、その際に周辺の情報収集を行ったのである。
なぜ、〈殻〉に近づいたのかといえば、そうすればマルファスの言っていることの真偽が判明するかもしれないかったからにほかならない。
義一の真眼を用いれば、〈殻〉の奥底に眠るという竜級幻魔の存在を認識することができるのではないか。
竜級幻魔の魔素質量は、鬼級幻魔とも比較にならないほどに莫大だといわれている。
であれば、〈殻〉の外からでも確認できるに違いない、と、義一は考えたのだ。
そして、実際に義一は、龍宮の奥底に埋もれる途方もない規模の魔素質量を確認した。鬼級幻魔たるマルファスとも比較にならないほどの魔素質量。まさに次元が違うといっても過言ではなかった。
そして義一が、それをなぜ竜級幻魔のものだと断定できたのかといえば、不活性状態の魔素、つまり、静態魔素だったからだ。
静態魔素とは、本来ならば非生物に宿る魔素であり、大気中や様々な物質に内包される代物だ。それら静態魔素も場所や地形によってその濃淡が変わるものだが、しかし、義一が真眼で把握したそれは、とても地中に偏在する静態魔素とは思えないほどの密度であり、質量だったのだ。
魔素異常地帯でも見られない魔素質量であり、それを目の当たりにした瞬間、義一は、軽い目眩を覚えたくらいだった。眼球が、脳が、激しい痛みを訴えてきたのである。
義一は、これまでに何度か、真眼を通して鬼級幻魔を視てきたが、このような感覚を抱くの初めてだった。
今まで一度だって目にしたことのない魔素質量だった。
全身総毛立ち、噴き出した汗は滝のように体を流れ落ちた。その場に立っていられなくなって、幸多に寄りかかってしまったくらいだ。
それほどまでの魔素質量を目撃すれば、龍宮に竜級幻魔が眠っているというマルファスの発言を信じないわけにはいかなかった。
義一は、ありのままを美由理に報告し、美由理は、マルファスを第九衛星拠点に連れて来るように命じたのである。
「しかし、それがなぜ、外部に救援を求めることに繋がる? しかも、同じ幻魔ではなく、人間に助けを求めるなど、幻魔らしくもないのではないか?」
美由理の疑問には、マルファスは苦笑するばかりだった。
「むしろ幻魔らしいだろう。幻魔と一括りにされているとはいえ、信用できるものなど、同じ殻印の持ち主だけだ。鬼級幻魔の大半は、強烈な野心を持つ。我欲の塊であり、闘争本能こそが、奴らの全てだ。そんなものに助けを求めたところで、どうなるものでもあるまい」
「人間ならば、応じて貰えると?」
「可能性の話だ。人間が我ら幻魔を忌み嫌っていることも、その理由もよくわかっている。人間にしてみれば、我ら幻魔と手を組むなど考えられまい。だが、利害が一致すれば、どうだ?」
「利害か」
「そうだ、利害だよ。これは、我々だけの問題ではない。龍宮を中心とする一帯が存亡の危機に曝されているといっても過言ではないのだよ」
マルファスは、ただ、美由理の蒼い瞳を見据えている。この人間の集団において、一番話のわかりそうなのが、美由理だったからだ。
だれもがマルファスを警戒していることはわかっているし、当然だった。逆の立場ならば、マルファスは、間違いなく人間と交渉を持とうなどとはしなかったかもしれない。
そんな中にあって、美由理だけは、マルファスの言葉に耳を傾けてくれる気配があった。
「龍宮が、侵攻を受けている」
「……そんなことか」
「そうだ。そんなことが、大問題なのだ。龍宮には竜級が眠っているといったな。そして、それはそこの人間が確認している」
マルファスが一瞥したのは義一であり、義一の金色の眼は、わずかに光を帯びていた。その光の異様さには、マルファスも思わず我が目を疑ったほどだ。
「ああ」
「龍宮は、その竜級のために作られたといっても過言ではないのだ。我が殻主オトヒメは、鬼級には珍しい博愛精神の持ち主だ。わたしがいうのもなんだが、オトヒメが殻主だからこそ、龍宮は今日まで存続してきたといっていい。そんな龍宮をオトヒメが作ることに決めたのは、竜級と出逢ったからなのだ」
マルファスがオトヒメを語る際、その口調が熱っぽくなっているように感じるのは、気のせいなのか、どうか。
マルファスが心底オトヒメを敬っていることが伝わってくることに異様さを感じるのは、結局のところ、人間側が幻魔のことをほとんど理解しきれていないからだろう。
人間にとっての幻魔とは、天敵以外のなにものでもなかった。
幻魔が確認されるようになってから今日に至るまで、まともな交渉を持ったことなどなかった。
〈七悪〉は一方的に警告してくるようなことこそあったが、あれを、あんなものを交渉などとは呼ぶことはあるまい。
こうして幻魔とまともに会話を交わしていること、それ自体が初めてなのではないか。
この場にいるだれもが、とんでもない緊迫感の中で、鬼級幻魔に人間くささのようなものを感じ取ったり、それによって自分たちの中に確固たるものとして存在していた幻魔像が揺らぎつつあるのを認めていた。
幻魔とは、なんなのか。
結局、人類は、詳細に知らないのではないか。
「その竜級幻魔は、オトヒメによってオロチと呼ばれている。そう……つまるところ、龍宮とは、オロチを祭神とする祭殿なのだよ。そして、オトヒメは、祭主であらせられるわけだ」
「……なにがいいたい?」
「オトヒメは、オロチが安心して眠っていられることをお望みだ。だからこそ、我ら龍宮のものは、龍宮を護ることに全力を尽くしてきた。万一にも龍宮が危機に曝されれば、オロチが目覚めるかもしれない。オロチが目覚めるようなことがあれば、龍宮は愚か、周囲一帯が破滅するのはだれの目にも明らかだ。そうだろう?」
「それは……」
『まったく……その通りだな』
そう頷いてきたのは神威である。
神威は、いつにも増して厳めしい顔つきで、マルファスを見据えていた。
その隻眼に込められた力の強さは、マルファスですら居住まいを正すほどのものだった。