第七百二十七話 龍宮からの使者(二)
第九衛星拠点は、稼働以来最大最高の緊迫感に包まれていた。
滞在中の導士全員が勢揃いし、いつ何時でもありとあらゆる状況に対応できるように、攻型、防型、補型といった様々な魔法を発動する準備を終えていた。
無数の律像が乱舞するかのようにして、拠点敷地内に満ち溢れている。
そして、それら律像を構築する導士たちは、緊張感の真っ只中にあり、数多の視線が集中する一点に神経を尖らせていた。
巨大にして堅牢強固な城壁に囲われた拠点敷地内、その広大な空間の中心にそれはいた。
漆黒そのものとでもいうような姿をしたそれは、禍々《まがまが》しいとしかいいようのない赤黒い双眸を持ち、暗黒の闇を凝縮したかの如き一対の翼を持っていた。身に纏う衣も黒一色であり、数多の羽毛がその全体を縁取っている。
美しいといって差し支えない容貌だったが、その姿を目の当たりにしてなにかしら好意的な感情を持つものがいるとすれば、一般的な人間の感性からは大きく逸脱した感覚の持ち主だろう。
なぜならば、それは幻魔だったからだ。
しかも、鬼級幻魔である。
マルファス。
それが、その鬼級幻魔の名であり、右手の甲に刻まれた殻印から、鬼級幻魔オトヒメが主宰する〈殻〉龍宮に属していることがわかる。
「これで良かったのかな?」
黒乃が囁くように問えば、真白がいちにもまして渋面を作った。
「おれが知るかよ。幻魔を拠点に招き入れるなんざ、前代未聞だろうが」
唾棄するような真白の言葉には、その周囲にいるだれもが同意したいところだったに違いない。
幸多にしても、そうだ。
いままさに目の前で展開されている光景が、前代未聞の大問題だということは、だれの目にも明らかだった。
衛星拠点は、央都防衛構想の要であり、人類生存圏を外敵から守り抜くための砦なのだ。
そんな重要な場所に、理由があるとはいえ、鬼級幻魔を招き入れるなど到底考えられることではない。
だが、そのように判断したのは、他ならない第七軍団長・伊佐那美由理であり、彼女がこの第九拠点の支配者なのだから、導士たちにはなにもできない。ただ、美由理の指示に従うだけのことである。
美由理は、といえば、いままさにマルファスと対峙しており、その周囲には無数の幻板が浮かび上がっていた。
「――というわけです」
美由理の凜然とした立ち姿は、この場にいるだれよりも美しく、輝いているように見えるというのは、幸多の贔屓目などではあるまいが。
美由理は、マルファスを目の前にして、一切の動揺をしていなければ、緊張感すら認められない、いつも通りの鉄面皮を維持していた。
さすがは星将というべきだろうし、歴戦の猛者というべきかもしれない。
幾度となく鬼級幻魔と戦ってきたという事実も、彼女をして、冷静さを維持させているのだ。
そんな美由理の周囲に浮かんでいる幻板に映り込んでいるのは、戦団総長・神木神威の顔であり、副総長・伊佐那麒麟の顔であり、あるいは護法院の長老たちの顔であった。
『状況は理解した。しかし、独断専行が過ぎるのではないか』
『そうだぞ、伊佐那軍団長。いくら状況が切迫しているとはいえ、幻魔を拠点に招き入れるなど、言語道断ではないか』
長老たちの発言は、言外に、万が一にも衛星拠点が陥落したらどうするのか、という想いが込められていて、それには美由理も同感ではあった。
鬼級幻魔ならば、その一撃で衛星拠点を滅ぼすことも容易いに違いない。だが。
「ですが、彼の説明を聞けば、上層部の判断を仰いでいる時間も惜しい、と、わたしは判断しました。それに」
美由理は、右手の中にある物体が長老たちに見えるように掲げて見せた。美由理の手のひらの上で浮かんでいるのは、拳大の結晶体だ。紫黒の結晶体は、まるで脈動しているかのように禍々しくも鈍い輝きを発している。
魔法士ならば、その結晶体から莫大極まりない魔力を感じ取ることができるだろう。
「彼が魔晶核を、心臓を我々に差し出したのです。これを見れば、彼の覚悟もわかりましょう」
美由理は、手の中のそれが脈打つたびに、膨大な魔力が周囲に拡散されているのを感じていた。強烈な力が、しかし、大気に溶けるのではなく、マルファスの肉体に収斂していくのが感覚として理解できる。
義一の真眼には、その様子が映像として見えているのだろうか。
『魔晶核か』
『先も聞いたが、それは本物なのかね? 鬼級幻魔が作り物の魔晶核を持っていたのを、我々は何度も見ているのだぞ』
『幻躰である可能性は?」
「それは心配ありませんよ。義一がいますから」
美由理は、義一を横目に見て、彼が小さく頷くのを認めた。
義一の両目が黄金色の光を帯び、鬼級幻魔を見据えている。緊迫感に満ちた表情は、彼が帯びた使命の重さを感じさせるものだ他t。
義一の第三因子・真眼は、魔素の実体を捉え、認識することのできる異能である。
そしてそれこそ、地上奪還作戦が成功した最大の要因であり、鬼級幻魔リリスを打破できた理由なのだ。
伊佐那麒麟の真眼が、〈殻〉の要石たる殻石と化していたリリスの魔晶核を見つけ出したからこそ、無限に復活する鬼級幻魔の幻躰に止めを刺すことができたのだ。
幻躰とは、〈殻〉を主宰する鬼級幻魔だけが持つ、分身のようなものだ。それには偽りの魔晶核が埋め込まれており、本物と区別を付けることが出来なかった。
唯一、真眼だけが本物と幻躰を見分けることができるのだ。
なぜならば、魔素の流れが視覚的に把握することが出来るからであり、幻躰には、殻石から魔素が流れ込んでいることがわかるからだ。
義一の眼は、マルファスの魔晶体に流れ込んでいる魔素が、彼が差し出してきた魔晶核によって生み出されているものだと確認している。
それによって、美由理は、マルファスの覚悟と決意を認め、第九衛星拠点に連行するように瑠衣に命令したのである。
瑠衣は、大いに反対したが、しかし、他に方法はなかった。
「それに彼は、龍宮の殻印持ちですから、そもそも殻主ではない。殻主でなければ、幻躰を作ることは叶わない――というのは、定説に過ぎませんが」
「それで合っている。幻躰は、〈殻〉を作るために殻石を奉じた鬼級だけの特別なものだ。もし、全ての鬼級が幻躰を使えるのであれば、幻魔戦国時代が一度でも終わることはなかったはずだ」
マルファスが、しびれを切らしたようにいってきた。
美由理は、彼が一刻も早く交渉を進めたいと考えているのだろうと察すると、魔晶核を掲げるのを止めた。
魔晶核は、幻魔の心臓だ。
それを差し出してくるということは、こちらに命を預けたということにほかならない。
気に入らないことがあれば、すぐにでも破壊すればいいという意思表示である。
そうすれば、マルファスは死ぬ。
役目を果たすことも、使命を遂げることもできずに、死に絶える。
そこまでの覚悟が、彼にはあるのだ。
幻魔は、信用ならない。
人類の天敵であり、滅ぼすべき存在だ。
だが、しかし、マルファスの話には、どうしても耳を傾けなければならなかった。
黙殺すれば、それだけで致命的なことになりかねない。
『いま、幻魔のその発言で全てが疑わしくなったぞ』
『殻主以外の鬼級が幻躰を使えるかどうかは、いまは問題ではないでしょう。義一が確認しているのですから。それとも、真眼を疑いますか?』
『い、いや、そういうわけではないが……』
長老たちの議論があらぬ方向へと向かっていく中で、美由理は、マルファスの目を見ていた。禍々しくも赤黒い瞳は、ただ、真っ直ぐにこちらを見つめている。
全周囲を取り巻く導士たちのことなど全く意に介していなければ、数多と渦巻く律像も気に留めていない。
マルファスは、覚悟を決めて、ここに飛び込んできている。
でなければ、人間と交渉しようなどとは思うまいが。
「話を進めてよろしいですか?」
『……構わん。進めたまえ』
厳かな、そして緊張感に満ちた神威の声が、美由理の耳朶に心地よかった。