第七百十七話 統魔、家に帰る(三)
統魔の実家である皆代家は、水穂市北東に位置する山辺町の中でも、南東部にある。
水穂市南東部に聳え立つ御名方山の麓に広大な土地を有しており、母・奏恵は、近いうちにこの土地を売り払うつもりであるらしい。
九月三日。
まだまだ夏の日差しが圧倒的な時節であり、晴れ渡る空の下、風に揺れる夏草がさながら緑色の波を起こしているようだった。
その緑の波の向こう側に佇む一軒家が、皆代家だ。庭の物干しに洗濯物が揺れていて、人が住んでいることを証明している。
奏恵は、九月に入るなり、早々に家に戻ってきたという話だが、それも統魔が水穂基地に入るという話を聞いていたからのようだ。
そうでなければ、長沢家の実家に帰っていたか、天風荘での生活を開始していたかのどちらかだろう。
奏恵が皆代家に拘る理由がないのだ。
確かに、皆代家には、大切な家族の思い出が詰まっているし、大事な場所だ。しかし、一人で暮らすにはあまりにも広すぎるのだ。
統魔か幸多のどちらかがいてくれるのであればまだしも、そうではない以上、孤独を感じずにはいられないのだろう。だから、天風荘に引っ越してきた。
天風荘ならば、幸多か統魔のどちらかがいるかもしれないし、葦原市内に住んでいる両親や姉妹とも会える。寂しさを紛らわせるのも難しくはない。
奏恵が孤独を実感するようになったのは、幸多を葦原市に送り出してからのことだという。それまでは幸多が側にいて、奏恵の日々を支えてくれていたのだろう。
統魔は、十三歳のときに家を飛び出して、ろくに帰らなかった。そのことをいまさらのように後悔している。
もう少し、奏恵の側にいてあげるべきだったのではないか、と。
しかし、星央魔導院に入り、導士への道を歩み始めた統魔には、そのような余裕はなかった。後悔できるのは、それだけ精神的な余裕が生まれたということにほかならない。
統魔は、遠目に実家を見遣り、久々に帰ってきたという感覚の中にいた。
家を飛び出してから四年以上が経過している。
実家に帰ってくるのは、本当に久々だった。
「あれが! 統魔の実家!」
なにやら一人興奮気味に駆けだしたルナに対し、統魔は、なんともいえない顔になった。
彼女がなぜここまで興奮しているのか、統魔にはわからない。
「隊長の御実家、初めて見ますね」
「隊員を連れて実家を訪れる隊長なんていないからな」
「それもそうですね」
字は小さく笑って、統魔の気苦労に同情した。気苦労の一因がするものでもないのだろうが。
統魔は、緑の波を突っ切っていくルナの後を追いかけて、実家に足を運んだ。
物干し竿に揺れるシーツの白さが、目に痛かった。
魔法を使わずに幸多を育ててみせるという両親の決心が、そこに現れているから、余計にそう感じるのかもしれない。
幸多が――お腹の中の子供が完全無能者だと診断されたときの両親の心情は、想像すら出来ない。そして、その子供が生まれ落ちることができるかどうかすらわからない状態だということが判明したときの絶望感は、筆舌に尽くしがたいものだったに違いない。
だからこそ、奏恵と幸星は、幸多に限りない愛情を注いだのだ。
愛情だけは、ほかの誰にも負けてなるものか、と、思ったのではないか。
幸多が変に捻くれることなく真っ直ぐな心根の持ち主に育ったのは、紛れもなく、両親の愛情があればこそだ。
眩いばかりに光り輝く愛が、幸多を育て上げた。
幸多という太陽のような少年を、作り上げたのだ。
統魔は、どうだろう。
皆代家の敷地内に足を踏み入れ、考える。自分もまた、皆代家の愛に包まれたからこそ、ここにいられるのだという実感がある。
統魔は、幸多と同じ日に生まれた。
魔暦二百六年六月五日。
十六年前、赤羽医院にて、生まれ落ちたのだ。
そのことだけは、忘れようがない。
知識として、情報として、記憶している。
ただ、両親に関する記憶はなかった。赤羽亮二、緋沙奈夫妻がどのような人物だったのか、まるで覚えていないのだ。
両親がどのように自分を育ててくれたのか、全く記憶していない。
真っ白な空白が、頭の中にある。
その空白の奥底に両親の記憶が眠っているのではないかと何度となく掘り起こそうとしたが、どうにもならなかった。
ノルン・システムに頼み込んで記憶を覗き見てもらおうとすら考えたのだが、結局、止めた。
思い出せないということは、思い出さなくていいことなのではないか。
そんな風に考え直したのだ。
呆れるほどに明るい記憶が、空白の後に続いている。
皆代家に迎え入れられてからの記憶は、まさに極彩色といっても過言ではなかった。
幸多と和解してから、ではあるが。
和解するまでは幸多を魔法不能者として、完全無能者として見下していたし、馬鹿にしてもいたのだ。
本当に嫌な子供だった。
周囲に持て囃されるまま、魔法の才能に溺れていたのだ。
魔法こそが全ての社会ならば、当然の帰結だったのかもしれないが、それにしたって、くだらない――。
「――どうしました? 隊長」
「うん?」
統魔は、字に呼びかけられて、はっとした。いつの間にやら深く考え込んでいたようだった。
気がつくと、玄関先でルナが奏恵と談笑している光景が飛び込んできたものだから、統魔は、顔面が蒼白になった。全身から血の気が引いていくようであり、すぐには反応できなかった。
ルナが母に良からぬことを吹き込んではいないか。
そして、良からぬこととはなんなのか。
そんな堂々巡りが、統魔の脳内に起こっていた。
「統魔-! 早く早く! お母様が呼んでるよー!」
「隊長、気をしっかり持ってください」
「お、おう」
統魔は、字に激励されてようやく気を取り直すことに成功すると、玄関先まで歩を進めた。
ルナが嬉しそうにこちらを見ている表情を見れば、奏恵と一瞬にして打ち解けたことを確信させた。
「ルナが元気なのは良いことですよ」
「そりゃあ……そうだが」
そんなことは、字に言われるまでもなくわかっている。
彼女は貴重な戦力というだけでなく、皆代小隊の一員としても重要な存在感を発揮していた。いまや、彼女のいない小隊など考えられないほどだ。
この一ヶ月で、とんでもないことになってしまった。
それは、悪いことではない。
だから、統魔もルナが笑顔でいてくれることを望むのだし、嬉しいのだ。
統魔は、玄関前で奏恵を向かい合った。奏恵が満面の笑みで統魔を迎える。
「お帰りなさい、統魔」
「ただいま、母さん」
奏恵がこの上なく喜んでくれていることがただただ嬉しくて、統魔は、それ以外の何もかもどうでもよくなってしまった。
奏恵が笑ってくれさえいれば、それでいい。
それが、統魔の原動力なのだから。
「なにも変わってねえ……って、そりゃあそうか」
統魔は、一人納得したのは、自室に足を踏み入れてしばらくしてからのことだった。
皆代家の二階にある一室。
幸多の部屋とは隣り合っており、寝台の位置は、鏡写しのようになっている。つまり、壁際に配置されていて、壁の向こう側に幸多の寝台が置かれているのだ。
本当に小さい頃、それこそこ皆代家の一員になって数年間は、統魔と幸多は同じ部屋で過ごしていたのだが、あるときを境に統魔が個室を求めた。
六年前、父・幸星が幻魔によって命を奪われ、復讐を誓ったあの日から、統魔は、導士になることを第一の目標とした。
そのためには一人で寝起きするのになれる必要があるのではないか、などと、子供らしく考え抜いた結果、一人部屋を求めたのだ。
それでも、夜、時々寂しくなると、壁越しに幸多に話しかけた。魔法を使えば、壁なんてなんの障害にもならない。
だから、幸多も寂しくないと喜んだ。統魔の魔法を、本当の奇跡のように嬉しがったのだ。
統魔は、寝台を見下ろしていると、壁に向かって話しかける子供のころの己の姿を幻視して、苦笑した。
一刻も早く大人になりたがったくせに、結局、子供であることを止められなかった少年が、そこにいる。
いまや一人前の大人になった、と、胸を張っていえるのか、どうか。
不意に足音がして、振り向くと、ルナが立っていた。彼女は不思議そうな顔で、室内を覗き込んでいる。
「ここが統魔の部屋?」
「使ってたの、十二歳までだけどな」
「ふうん。でも、そのわりには子供っぽくはないかも」
「……そうか?」
「うん」
ルナが見る限りでは、統魔の自室というのは、殺風景なものだった。央都の一般的な子供の部屋といえば、導士たちのグッズを始めとする様々な代物で溢れていてもおかしくはない。
だが、統魔の部屋には、そういった類のものは一切見受けられず、壁には訓練の予定表が張られ、床には鍛錬のための魔具が置かれているくらいだった。
彼が子供のころからどれほど真剣に導士になろうとしていたのかがわかろうというものだったし、いまや煌光級の導士になれたのも、そうした努力の積み重ねがあったからこそなのだろうとも思えた。
そんな統魔が、ルナは大好きだったし、心底尊敬しているのだ。