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第七百五話 魔界に吹く南風(一)

 えている。

 かわいている。

 飢え、渇ききっている。

 食っても食っても満たされず、飲んでも飲んでも癒やされない。

 腹は空っぽのままで、喉は荒れたままだ。

 故にこそ、彼は、喰らい続ける。

 喰らい続けなければ、ならない。

 バアル・ゼブルは、前方に横たわる広大な荒野を見渡しながら、目を見開く。

 顔面の両目と、頭上に浮かぶ四つの亀裂こそ、彼の六つの目だ。赤黒い目は幻魔の証であり、四つの亀裂は、より禍々《まがまが》しくうごめいている。

 体は、以前より一回りも小さくなってしまった。腕や足は短くなり、体積そのものが小さくなっている。以前の体はそれなりに気に入っていたのだが、こちらの心情などお構いなしに変わってしまった。変化。激変といっていい。

 サタンによって、作り変えられてしまった。

 サタンは、主だ。

 彼らの頭目であり、首領。

 唯一無二の絶対者ぜったいしゃ

 なればこそ、バアル・ゼブルも付き従うしかなかったし、消し滅ぼされたとしても文句はいえなかった。

 なのに、生かされた。

 勿体もったいないからだ、と、サタンはいった。

 そして、その言葉が全てなのだろう。

 どうでもいい存在だったならば、あのとき、消滅させていたに違いない。

 ぞくり、と、する。

 背筋が凍るような、肝が冷えるような感覚。

 サタンという絶対者を目の当たりにすれば、誰だってそう思うはずだ。そう感じるはずだ。そう理解するはずなのだ。

 だから、バアル・ゼブルは、生きているという実感とともにこの荒野に立っている。

 地球全土が魔界まかいと変わり果てて、久しい。

 彼は、その瞬間を目の当たりにした鬼級幻魔の一人だ。

 幻魔戦国時代に幕を引き、あらゆる幻魔の頂点に君臨した幻魔大帝げんまたいていエベル。

 その神々《こうごう》しくも禍々しい姿は、今もなお、幻魔たちの瞼の裏でさんたる光を放ち続けていたし、その輝きこそがこのどす黒い天地に陰影を与えているのではないかとすら想うことがある。

 エベルは、この世界にそれほどの影響を残した。

 だが、死んだ。

 この地球全土を幻魔の世界に作り替えるべく、その命を使い果たして、死んだ。

 魔天創世まてんそうせいを起こして。

 それが起きたのは、バアル・ゼブルがまだバアルと名乗っていた時代である。

 世界が突如として変貌へんぼうした。

 地球全土の魔素濃度が何百倍にも増大し、結果、地球上から幻魔を除くありとあらゆる生物が死滅しめつしてしまったのだ。

 バアルは、せっかく射程に捉えた獲物の群れが瞬く間に爆ぜていく瞬間を目の当たりにしたものであり、その光景は、忘れられないものとなってしまった。網膜に焼き付き、脳髄に刻みつけられたのだ。

 地上に新種の植物が誕生したのは、それからしばらくしてのことだ。

 人類が結晶樹けっしょうじゅと名付けたそれらがいつどうやって誕生したのかは、バアル・ゼブルも知らない。

 魔天創世が生み出したものなのか、それとも、まったく異なる意志によって誕生したものなのか、想像もつかなかった。

 ただ、結晶樹の存在がなければ、この地上からは酸素が絶えていただろうし、人間が生き残ることなど、万が一にもなかったのだろうが。

(だとすれば、だ)

 彼は、前方の赤黒い大地に生い茂る結晶樹の森を見遣みやり、そして、その木陰に潜む獣級幻魔の群れを確認して、はねを広げた。髑髏どくろの模様が入った透明な翅が、膨大な魔力を拡散する。

 無意識に発動した飛行魔法がバアル・ゼブルの肉体を勇躍ゆうやくさせ、結晶樹の森へと突っ込ませた。

 ここは、魔界。

 力だけが全てであり、破壊はかい殺戮さつりくが秩序を構築する混沌の大地。

 バアル・ゼブルの戦闘は、一方的なものだった。いや、それは戦闘とすら呼べないようなものだったかもしれない。

 蹂躙じゅうりん

 あるいは、虐殺ぎゃくさつ

 空白地帯の結晶樹の森に潜んでいた獣級幻魔たちは、野良や野生などと呼ばれる連中ばかりだ。〈クリファ〉に所属せず、故に鬼級幻魔の庇護を得られないが、同時に鬼級幻魔の命令で死に急ぐ必要もない。

 ただし、その自由の代償として、自分の身は自分で護らなければならなかった。

 たとえば、突如として降りかかる災禍さいかにも、己の手で対処しなければならないのだ。

 バアル・ゼブルは、獣級幻魔アスピスの群れを殲滅せんめつすると、その死骸から溢れ出した魔素を根こそぎ吸い上げて、自分のものとした。

 魔素は、天地に満ちている。

 しかし、生物が体内で生産する魔素と、大気中に満ちた魔素というのは、随分と性質の異なるものであり、故に、魔素を摂取するために空気を吸うというのは、非常に効率が悪かった。

 さらにバアル・ゼブルからすれば、全く美味しくないというのが、大問題だ。

 大気中の魔素を吸うくらいならば、幻魔の魔晶核ましょうかくが生み出す魔素を吸い上げるほうが余程ましだった。

 もっとも美味なのは、人間の魔素だ。

 それも、死の直後に練成される魔力こそが至高の味であり、だからこそ、幻魔たちはこぞって人類を殺戮したのである。

 だが、それもこれも、幻魔大帝の一存によって、今や遠い過去のものと成り果てた。

 地球上から人類が消えてなくなり、人間狩りが出来なくなった。

 だからこそ、彼は惰眠だみんむさぼっていたのだ。

 眠っている限り、無駄に力を消耗しなくて済むし、腹もあまり減らなかった。

 耐え難い空腹に襲われることもなければ、悪夢にうなされることなど万にひとつもない。

 長い夢を見ていた。

 夢から覚めると、待ち受けていたのは予期せぬ現実であり、絶対的な死であった。

 バアルは死に、バアル・ゼブルとして蘇った彼に与えられたのは、一つの使命だ。

 その使命が、彼を彼たらしめている。

 バアル・ゼブルは、結晶樹の森を抜け出すと、左前方の山脈を見た。天を衝くほどに巨大な山々が連なり、難攻不落の要塞の如く聳え立っている。

 その先にこそ、彼の当面の目的地があるはずだった。

 アヴァロン。

 鬼級幻魔アーサーが主宰する〈クリファ〉であり、この地における最大規模の〈殻〉である。

 なぜ、バアル・ゼブルがアヴァロンを目指してきたのかといえば、本能だった。

 本能が、彼をここまで導いたといっていい。

 渇いている。

 飢えている。

 空腹感が、飢餓感が、彼の本能を突き動かし、肉体を躍動やくどうさせるのだ。

「ここから先はアヴァロンの、アーサーの〈殻〉の中……か」

 バアル・ゼブルは山中に至ると、高密度の魔素を前方に感じ取った。それこそ〈殻〉の結界であり、触れれば最後、警報でも鳴り響くに違いない。

 周囲に並び立っているのは、結晶樹だ。

 山も谷も川も平地も、この混沌の大地を埋め尽くすのは結晶樹ばかりなのだ。

 あとは、幻魔が作ったなにかしらの構造物が、わずかばかりに存在する程度だ。

 そして、アヴァロンの内部には、幻魔造りの建造物が大量に存在するに違いなかった。

 かつて、始まりの鬼級幻魔は、〈殻〉を作った。

 〈殻〉は、幻魔が初めて獲得した都市であり、まるで人類のそれのように作り上げられていった。

 人類を見下し、人類を嘲笑い、人類を否定する幻魔たちが、結局、人類社会を模倣するかのように都市を作り上げていったのは、皮肉というべきなのか、どうか。

 バアル・ゼブルには、わからない。

 バアル・ゼブルがバアルとして存在していた頃、〈殻〉を持とうなどと考えもしなかったからだ。

 バアルは、個で在り続けた。

 個として、生き続けることにこそ、意味があると考えていたからだ。

 だが、それもいまや昔の話だ。

 バアル・ゼブルとなったいま、そんなことはどうでもよくなっていた。

 いま、彼を突き動かすのは、飢えであり、渇きであり、空腹感であり、飢餓感であり、闘争本能なのだ。

 バアル・ゼブルは、アヴァロンへと踏み込むと、全身を灼き焦がすような感覚に苛まれたが、黙殺した。

 殻印かくいんを持たない幻魔が〈殻〉に侵入するということは、つまり、そういうことだ。

 〈殻〉そのものが、異物を排除しようとしている。



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