第六百八十話 特異なる力(十三)
完全無能者とは、あらゆる生物、非生物に宿る魔素を一切内包しない存在である。
この世界の根幹には、魔素が存在するとされている。
魔素を内包しないものはおらず、物質、非物質に関わらず、魔素を抱え込んでいた。
魔素は、大気中、水中、真空中にすら、偏在している。
宇宙空間にだって、大量の魔素が存在しているのだ。
その宇宙空間の魔素を利用すれば、宇宙服を着ることなく宇宙遊泳が可能であると実証して見せた魔法士も存在するほどである。
この世は、魔素でできている。
魔素宇宙、エーテル宇宙などと呼ばれるのは、それが理由だ。
故に、魔素を一切内包しない存在などいなかった。
幸多以外には。
唯一無二といっていい。
幸多以外に同様の存在はおらず、故に、赤羽医院の院長であり、統魔の実父・赤羽亮二は、大いに苦悩しただろう。
どうすれば皆代奏恵の体内の赤子を無事に取り出すことができるのか。
どうすれば、その子供を無事に成長させることができるのか。
生き長らえさせることができるのか。
散々に考え、あらゆる文献に当たったに違いない。研究記録を探ったに違いない。
そうして分子機械技術に思い至り、独自に発明したというのであれば、赤羽亮二は、天才としか言い様がないのではないか――。
『そうね。赤羽医師がご存命であれば、いますぐにでも戦団への協力を申し出たでしょうね』
イリアが嘆息とともに、赤羽亮二の才能を認めたのも、幸多の体内に息づく大量の分子機械の存在に気づいたからこそ、なのだろうが。
幸多は、自分の体内に細胞の数を凌駕する分子機械が存在し、常に息づいているのだという事実を告げられ、なんともいえない感覚の中にいた。
そんな幸多の様子を心配して、だろう。イリアが、優しい口調でいった。
『幸多くん。なにも心配する必要はないわ。それらの分子機械は、きみを生かすため、きみをこの世界に存在させるために必要なものなのよ。きみの体がなぜ魔素圧に潰されないのか、なぜ、毎秒のように大量の細胞が死んでいるにも関わらず、きみが生きていられるか。その答えでもあるのよ』
幸多は、想った。
それこそ、自分が生きているという最大の疑問への解なのだろう、と。
疑問には解が必要だ、と、ある悪魔がいった。
確かにそうかもしれない。
疑問を疑問のまま放置しておくということは、こういう解答を得たときに、とんでもない衝撃を受けてしまいかねない。
幸多は、衝撃の余り、思考が硬直しかけていることに気づいたし、だからといってどうしようもない事実にも呆然としていた。
『幸多。大丈夫か?』
『は、はい……』
師の気遣いに幸多はそのように返事をしたが、なにが大丈夫なものか、といいたくもあった。
自分を成立させているものの正体を突きつけられて、平気な人間がどれだけいるのだろうか。
それが今日に至るまで幸多を存在させ続けてきたものであり、無害どころか有益極まりないものなのだとしても、なんだか愕然とするような感覚があった。
分子機械。
目に見えないほどに小さな、本当に小さな機械が、幸多を生かしている。
それも何百兆という数の分子機械が、だ。
この肉体の大半が機械のようなものなのではないか。
『それで……それとマモンを殴った件について、関係があるんだろうね? なんだかそんな口振りだけどさ』
『ええ。大ありよ』
イリアは、幸多のことを心配しながらも、冷静に話を進めた。
幸多の体内の分子機械は、赤羽亮二謹製の分子機械だ。
赤羽亮二は、技術局が喉から手が出るほどの人材であり、大天才といっても過言ではないことが、その分子機械の性能からも明らかだ、と、イリアはいった。
それらは、幸多の生命維持装置そのものといっても過言ではなく、幸多を生かし、存在させ続けるものである、という。
そして、その分子機械が発する熱と魔素の摩擦によって生じたのが、あの青白い燐光であり、それが幸多に魔晶体に痛撃を叩き込むだけの力を発揮させたのだ、という。
ドミニオンの力などではないのだ、と。
『ドミニオンはきみに力を与えたわけじゃなかった。きみの力を喚起させただけ。呼び起こしただけなのよ』
『それってつまりさ』
『幸多本来の能力だということか?』
『そういうことに……なるわね』
イリアがそう結論づけたから、幸多は、こうして誰もいない道場に足を踏み入れたのだし、一人で悶々と考え込んでいるのだ。
幸多は、イリアたちの結論に納得していなかった。
自分の力などというものを一切信用していないのが、幸多だ。
確かに、身体能力は、常人よりも遥かに高い。魔法士たちとは比較しようがないほどの筋力や動体視力があり、運動能力たるや頭抜けている。
それは、間違いない。
しかし、それだけでもって信用できるかといわれれば、そんなことはなかった。
戦うべき相手は、人類の天敵たる幻魔だ。
通常兵器の通用しない化け物を相手に戦うのであれば、幸多の身体能力など、焼け石に水程度にもなるものか、どうか。
幻魔の攻撃を躱すには役立つが、幻魔に攻撃を叩き込むにはあまりにも儚く、無意味だ。
そんなことは、理解し過ぎるくらいに理解している。
そんな自分に特別な力があるなどと、考えたこともなかった。
子供のころは、違う。
そんなことを無数に夢想し、数多に失望したものだ。目が覚めれば魔法が使えるようになっているのではないか。
魔法とは異なる超能力に目覚めたりしないか。
実は、とんでもない力を秘めているのではないか。
そんなことばかり考えては、現実に打ちのめされてきたものだ。
そして、目の前に統魔という圧倒的な現実が現れると、そうした夢想もしなくなった。
自分は魔法を使えないただの無能者に過ぎず、到底本気の統魔には敵わないのだと理解するしかなかった。
魔法さえ使わなければ幸多が優位を取れたが、そんなものはなんの自慢にもならない。
魔法士が魔法を使わない理由がないように、幻魔が手加減をしてくれるわけもない。
「熱との摩擦」
幸多は、拳を握り締めて、力を込めた。意識を集中し、全身の細胞という細胞が沸き立つ感覚を思い出す。
あのとき、あの瞬間、マモンを殴り飛ばしたときの感覚。
青白い燐光が拳だけでなく、全身から発散されていた映像。
記憶。
だが、どれだけ集中しても、幸多の体から青白い燐光が発散することはなかった。
あれから、同じような現象が起きたのは、一度きりだ。
幻想空間上で行った法子との手合わせの最後、幸多が全力を振り絞った末に発現したのが青白い燐光であり、それによって辛くも勝利することができたことは、記憶に新しい。
追い詰められてようやく発現した光。
青白い燐光。
「喚起……か」
ドミニオンが消滅する瞬間、幸多にかけたなんらかの力。
それが、幸多の体内の分子機械を誤作動、あるいは暴走させたのではないか、というのがイリアの推論だった。
分子機械の暴走が熱を帯び、その熱が周囲の魔素との間に摩擦を生んだ。摩擦が青白い燐光となって幸多の全身に纏わり付いたのであり、そして、その燐光こそが、マモンへの、魔晶体への痛撃となった。
『おそらく、あの燐光は、超周波振動のようなものを引き起こしていたんじゃないかしら』
とも、イリアはいった。
分子機械の暴走、あるいは誤作動が超周波振動と同様の現象を引き起こし、周囲の魔素を燃やし尽くしていく中で青白い燐光が生じたのだ、と。
だから、幻魔に、マモンに通用した。
幸多は、拳を開くと、手のひらに滲んだ汗を見て、息を吐いた。
どれだけ気張っても、燐光は生じなかった。
ドミニオンが喚起してくれたからこそ起きたのが、あの瞬間の出来事であり、あれこそまさに奇跡なのではないか、と思えた。
この世に神はいない。
奇跡は起きない。
けれども、幸多は生きている。
まるで奇跡のように。
(違うか)
幸多は、再び拳を作って、苦笑した。この体内を巡る大量の分子機械こそが、幸多を生かしている。
それは奇跡などではない。
赤羽亮二という大天才がいればこそ起きた出来事であり、確定した事象なのだ。
奇跡などという言葉を使えば、それこそ、安っぽくなってしまう。
幸多は、赤羽亮二に感謝こそすれど、彼の行いを悪くなど想ってもいなかった。
もう少し詳しく説明してくれても良かったのではないか、と、想わないではなかったが、説明するのも難しいことだったのかもしれない。
幸多の両親にしてみれば、幸多に施された処置がどのようなものであれ、生きていてくれればそれで良かっただろうし、深く聞かなかったのもわからなくはない。
なんらかの医療処置によって生まれることができた――その事実が全てであり、それで良かったのだ。
幸多だって、戦団に入らなければ知る由もない事実だった。
戦団に入り、マモンと対峙しなければ、このような衝撃的な真実に触れることなどなかったのだ。
そして、幻想空間への干渉と転移。
これもまた、体内に息づく大量の分子機械が引き起こした現象ではないか、と、イリアは考えているようだった。