第六百七十八話 特異なる力(十一)
暗澹たる闇が、眼前に広がっている。
どこまでも続くような闇の深淵。けれども、どこかに限界があり、壁や天井もあるはずの空間。当然のように床だってあり、だからこそ、彼は立っていられるのだという感覚があった。
実感が、ある。
肉体が、この幻想空間上に介入し、干渉している。
つい先ほどと同じだ。
同じことが起きている。
ただし、場所は違う。
ここは、中枢深層区画などではなく、戦団本部・本部棟三階にある護法院管理区画のただ中である。
護法院管理区画とは、その名の通り、護法院が管理している区画であり、護法院関係者以外の立ち入りが禁止されている領域である。
護法院とは、戦団を創設した導士たち、いわゆる長老たちからなる集団であり、端的にいえば、戦団の管理者たちのことだ。
護法院は、戦団の法そのものといっても過言ではなく、護法院が定めた規律が戦団を支配し、護法院が紡いだ言葉がそのまま戦団を動かしている。
護法院に逆らえるものはいない。
護法院に対し意見を述べることができるとすれば、戦団最高会議くらいのものなのだ。
そして、護法院もまた、戦団最高会議の一員である。
幸多は、戦団最高会議に参加したこともあり、護法院がどういった面々で構成されているのかについては把握していた。
いずれも戦団最古参の導士の中でも、特に中枢に関わっていた人物ばかりだ。
神木神威、伊佐那麒麟、上庄諱、相馬流陰、鶴林テラ、朱雀院火流羅、白鷺白亜。
いずれ劣らぬ有名人ばかりだが、その姿は闇に溶け、代わりに動物の顔を模した面が浮かんでいた。
竜、麒麟、栗鼠、雀、鷺、馬、鶴の面である。
「きみがここに召喚された理由は、わかっているね」
「はい」
幸多は、竜の面から発せられた神威の声に頷き、自分を取り囲む戦団の長老たちから、無言の圧力を感じずにはいられなかった。
ここは幻想空間。
情報だけの領域。
それなのに、気配を感じるような気がしてならない。
「きみは、幻想空間や幻想体に干渉する能力を発現させた。いままさにこの場に存在するきみこそが、そうだという話だが、にわかには信じがたいものだな」
神威は、闇の中に浮かぶ幸多の姿を見つめる一方で、幻板に映し出された幻創機付近の映像を一瞥した。
護法院の会議場であるこの暗黒空間と直通の幻創機は特別仕様であり、護法院管理区画にしか設置されていない。
当然、幸多は、その幻創機を用いたのであり、幻創機の側に配置された寝台には、本来ならば彼の肉体が仰臥するなりして存在しているはずだった。しかし、そこにあるのは神経接続用の頭用装具と、誰もいない寝台だけだ。
幸多は、イリアからの報告にあった通り、青白い燐光となって幻創機に吸い込まれていった。
その際の映像は、この場にいる全員が見ている。
そして、誰もが驚き、唖然としたものである。
魔法は、奇跡といわれた。
神の力の如く、ひとの手で容易く奇跡を起こすことのできる技術である、と。そして確かに様々な奇跡を実現してきたし、いまもなお、その奇跡に等しい力が猛威を振るい続けている。
だが、魔法は、全能でもなければ、万能でもない。
できることと、できないことがある。
そのできないことのひとつに、実体のまま幻想空間に干渉することというものがある。
そもそも、幻想空間とは、情報のみで構成された領域であり、実体もなにもあったものではない場所なのだ。
ただ、情報だけが満ちている。
実在しない領域であり、故にこそ、干渉など不可能であるはずだった。
しかし、幸多は、どういうわけか実体でもって幻想空間に入り込んできてしまった。
幻想体ではなく、現実体。
いま、神威たちが面を通して見ている幻想空間に、幸多の肉体が存在しているのだ。
ありえないことだ。
まるで、魔法だ。
魔法の使えない完全無能者の、魔法。
「しかし、きみがここに入り込んでくる瞬間を目の当たりにすれば、疑うのも馬鹿馬鹿しい。きみは、確かにそこに存在している。なにもない、情報だけの空間に、確かに介入し、存在しているのだ」
「はい」
幸多は、神威の言葉に頷くしかできない。
自分でもなにが起きているのかわからなければ、制御できているわけでもない。気がつけば、幻想空間に入り込んでいたのであり、その現象が常に起こり続けているだけのことなのだ。
幸多としても、制御できるものならば制御したかった。
幻想空間に実体で入り込むことに利点はない。
むしろ、欠点ばかりが思い浮かんだ。
幻想空間での訓練の利点を全て無に帰してしまうのだから、なんの意味もないとさえ思える。
疲労や消耗が残り続けるだけならばまだしも、肉体的な損傷までも残り続けるというのであれば、実戦となんら変わりがないのだ。
しかも相手は、幻想体であり、破壊的な魔法を使うことになんの躊躇もない。
幸多が致命傷を受けることだってありえたし、死ぬことだってあり得るのではないか。
実体で幻想訓練を行うとはつまり、そういうことだ。
それならば幻想空間で行う必要性が薄くなってしまう。
もちろん、現実空間に影響を与えないという点には違いはないのだが。
「イリア博士は、いま、きみに起こっている現象について、ひとつの仮説を立てた。それも聞いているね?」
「はい」
だから、ここに呼ばれたのだと幸多は認識していたし、実際それ以外に理由はないだろう。
「きみは、完全無能者だ。一切魔素を内包せず、故にこの世界では本来生きてはいけない存在だった」
それは、魔天創世によって爆発的に増幅した魔素が、凄まじい圧力を発揮しているからである。
およそ五十年前、神威たち地上奪還部隊が地上に順応できたのは、異界環境適応処置のおかげである。施術されていなければ、大昇降機でもって地上に上がっている最中、魔素圧によって死んでいただろう。
異界環境適応処置こと魔導強化法は、人体の魔素生産量を大幅に増幅することにより、魔素圧への耐性を得ることを最大の目的としたものだった。そして、実際にその通りの成果を出している。
では、幸多は、完全無能者の彼はどうなのか。
本来ならば、肉体がその形を維持できていることすらありえないことだ。
実際、妻鹿愛の調べによって、彼の肉体を構成する細胞が毎秒、大量に死に続けていることが判明している。大量に死に、大量に生産されている。
細胞の新陳代謝が、常人とは比較にならないほどの速度で繰り返されているというのだ。
それによって、辛うじて肉体を保っているのであり、強引に生き続けているといっても過言ではない。
魔導強化法を施術された魔法士とは、明らかに異なる生存方法だ。
そんな彼がどうやって幻想空間に干渉したのか。
それについての仮説は、つい先程、イリアから護法院に説明があった。
そしてその仮説が正しければ、彼の身にとんでもないことが起きているということになる。
そして、戦団の、央都のこれから先について、必要不可欠な要素となる可能性さえ明示していた。
だからこそ、護法院は、彼を召喚した。
「仕方がないでしょう。こうするほかなかったのよ。だましだましやっていくなんて無理なことは、あなたが一番わかっているはずよ」
イリアは、幸多の肉体に起きた異変に関する情報を纏め上げながら、通話相手の反応を待った。
反応は、決して芳しいものではなかったが、致し方のないことだと理解してくれたようだった。
そうでなければ、困る。
もはや動き出してしまった。
時は、止まらない。
時間に干渉する力でもない限りは、紡がれ始めた時の糸を止め、巻いて戻すことなどできはしないのだ。
「それとも、なにか妙案でもあったのかしら? 調停者さん」
イリアの問いに対する調停者の回答は、苦渋に満ちたものだった。わかりきったことだ。ほかに方法などはなく、茨の道を歩む以外にはないのだ。
でなければ、全てが破綻してしまう。
それでは、意味がない。
「……でしょう。だから、赤羽医院には生け贄になってもらうことにしたわ」
イリアが告げると、返ってきたのは沈黙だった。
通話が切れている。
イリアは小さく嘆息した直後だった。膝の上に重力を感じたのだ。見ずとも、わかった。アイが転移魔法を駆使して、イリアの膝の上に現れたのだ。
「イリアママ」
「……アイ。また抜け出してきたの?」
「いけにえってなあに?」
少女の屈託のない質問に対し、イリアは、どう返答するべきか迷わざるを得なかった。
本当のことなどいえるわけもないのだ。
「いつかあなたがお父さんとお母さんに逢うために必要な魔法よ」
「魔法?」
アイは、目をぱちくりとさせて、イリアの目を覗き込んだ。
彼女の大きな丸い目は、イリアには、この上なく美しいものに見えた。
そこには、穢れを知らない純真さが確かに存在したからだ。
そして、そんな彼女の瞳の中に映り込んでいる自分の目には、それこそ、穢れしかないのだろうとも想った。