第六百七十六話 特異なる力(九)
幸多の身になにが起きたのか。
送られてきた映像を解析した結果わかったことは、彼の肉体がどういうわけか幻想空間に転送されていたという事実だけだった。映像に細工がされているわけでも、加工が施されているわけでもなければ、CGでもなんでもなかった。ましてや、幻想空間上の映像などでもない。
そして、幸多の肉体が幻想空間から現実世界に帰還を果たした際の映像にも、一切の加工の後がなかった。
純粋な記録映像。
そして、その映像を解析するだけでは、なにもわからないことがわかった。
「幸多くんが幻想体に干渉するなんらかの特別な力を持っていることは、わかっていた。そしてそれが幸多くんに施術された超技術によるものだということも、ね。そしてそれがとんでもないことだということだって、わかりきっていたわ」
「それは……わかる」
「常識を覆す大事件さね」
イリアの考えには、美由理も愛も異論を挟まなかった。
当然の結論だ。
いま目の前で繰り広げられている光景を目の当たりにすれば、誰だって我が目を疑うだろう。混乱さえするかもしれない。
あるいは、女神たちが実体を持つ人間の仮装なのではないか、などと疑い始めるのではないか。
だが、ヴェルザンディが美由理たちの体を通り抜けて見せたように、三女神は実体を持たない幻想体なのだ。
それなのに、幸多には触れることができている。
立体映像に触れることなどできるわけがないというのに、だ。
幸多は、物理法則を無視している。
彼は何者なのか、と、護法院が騒然となるのは当然だったし、技術局や情報局が彼を徹底的に調べ上げる必要があると訴えてくるのも納得の行くことだった。
そして、つい先程、彼の身に起きたことを考えれば、イリアだって混乱してしまいかねない。
「さて。まずは幻想空間に旅立ってもらいましょうか」
「ふむ」
「ま、それが手っ取り早いのかね」
幸多が幻想体に触れられることは、以前からわかっていたことだし、女神たちとの再度の触れ合いによって再度確認できた。
幸多は、幻想体と物理的に接触することが可能なのだと確信していい。
だが、本当に幸多の肉体が幻想空間に転移するのかどうかについては、不明なままだ。
映像だけでは、証言だけでは、確証は持てない。
たとえ一切の細工の後がないのだとしても、だ。
この目で見たものしか、信用できない。
だから、イリアは、女神たち――というよりは、ノルン・システムに指示を出し、システム上に幻想空間を構築させた。
そして、三女神の権能によって、幸多の意識を幻想空間上に構築した彼の幻想体に同期させることとしたのだ。
ノルンの三女神は、イリアに指示されるまま、幸多と戯れることを止めると、彼の三方に立った。そして、両腕を彼に差し出すように伸ばすと、両手の間に幻想的な光を集めた。
幸多の目には、その光がなにやら複雑な記号の集合体のように視えていた。
光が、幸多に照射される。
そして、彼の意識が飛んだ。
暗転の後、幸多の視界に光が戻ると、そこは汎用訓練場の見慣れた景色が広がっていた。
どこまでも広がる真っ白な天地。縦横に走る無数の線が、距離感の把握を簡単にしているのか、むしろ困難にしているのか。
いずれにせよ、見慣れた世界、見知った空間だった。
幸多は、幻想体に意識が同期する感覚もいつも通りだと思ったし、何度となく行ってきた幻想空間への訪問と変わらない気がした。
しかし。
『凄い、凄いわ、幸多くん! 本当の本当に本当だったのよ!』
『幸多、きみは本当にそこにいるのか? いるのなら返事をしたまえ!』
『いやはや、まさに驚天動地だねえ』
『うわ!』
『幸多様のお姿が消えてしまいましたね』
『どういうこと……?』
幻想空間の外部から飛び込んできた六者六用の反応に、幸多は、思わず耳を塞ぎたくなった。言葉の洪水が押し寄せてきたからだ。
それから、目の前の虚空に幻板が出現したかと思えば、中枢深層区画の光景が映し出された。
そこには、当然のように六人が映っている。美由理、イリア、愛、ヴェルザンディ、ウルズ、スクルドの六人である。
女神たちの中心に立っているはずの幸多の姿だけがなかった。
当然だが、加工された映像などではないだろう。そんなことをする意味がない。
「えーと……」
幸多は、心底戸惑った。驚く以上に困惑するのだ。
一度経験したとはいえ、だ。
自分の身にこのようなことが起こったとして、素直に受け入れられる人間がどれだけいるだろうか。一人としていないのではないか。どれほど想像力が逞しい人間であっても、ここまでの事態を妄想できるだろうか。
「本当に幻想空間に飛び込んじゃった感じですか? これ」
幸多は、現実世界に自分が存在しない事実に少しずつ衝撃を受けながら、イリアに問いかけた。
イリアたちは、中枢深層区画内に展開した幻板から、幻想空間上の幸多の姿を見つめており、その光景を幸多が幻想空間から見ているという不思議な状態だった。
いや、それそのものはよくあることかもしれない。
幻想空間内の人間と現実世界の人間が連絡を取り合うことくらい、ありふれている。
しかし、その現実世界には、自分の肉体があるはずであり、確認できることも多いはずだ。
幸多の肉体は、そこにはなかった。
現実から消え失せ、幻想の存在になってしまっている。
なんとも現実感のない話だった。
しかし、確かにそれは現実で、覆しようのない事実なのだ。
幸多は、幻想体の手を握り締めて、そこに確かな現実感を認めて憮然とした。幻想体の感覚と大差がないからだ。
現実の肉体なのか、幻想体なのか、確かめようがない。
『そう……なるんでしょうね』
『本当にそこにいるんだな……』
『うーん……どういうことなんだい?』
『幸多くんは、幻想空間に転移した。まるで空間転移魔法でも使ったかのように、肉体そのものが幻想空間に入り込んでしまったのよ。でも、本来、そんなことはありえない。幻想空間は、膨大な情報で構成された仮想空間に過ぎないもの。それに実体はなく、実在もしていない。仮に幻想空間に入り込むことができたとしても、干渉することなんてできるわけがない。でも』
イリアは、口早に説明しながら、幸多が当然のように幻想空間に佇んでいる様を見ていた。闘衣を身につけた彼の二本の足は、確かに地面を踏みしめている。
彼は、幻想空間に干渉している。
『幸多くんは、幻想体に干渉することができる。ヴェルたちと触れ合うことができる。だから幻想空間にも干渉することが可能で、幻想空間で戦うこともできた。そしてそれは、きみがなにか特異な力を持っているからなのではないか』
「特異な力……ですか」
幸多は、イリアの説明を聞きながら、自分の手のひらを見ていた。幻想体となにも変わらない様子の手だが、しかし、確かな違いがあった。
法子に付けられ、完治していない傷痕があったのだ。
幻想体ならば、絶対に存在しないものだ。
幻想体は、登録情報を更新しない限り、変化が起きることはない。幻想体が発揮しうる能力も、登録された情報に基づくものである。
当たり前のことだが、幸多がここに来る直前に幻想体の登録情報を更新したわけではない。
やはり、ここにあるのは、幸多の実体なのだ。
でなければ、法子につけられた傷痕が残っているわけがない。
『この世には、魔法以外にも特別な力があるでしょう。麒麟様の真眼もそう。美由理が時間に干渉する魔法を使えるのだって、第三因子のおかげなんじゃないかって考えられているもの』
『確定してはいないがな』
『そりゃあそうさ。なんてったって時間静止中のあんたを調べることなんてできないからね』
『うむ……』
『それで、調べたのよ』
美由理と愛の話に内容も気になったが、幸多は、イリアの言葉にこそ引っかかった。
「なにをです?」
『きみがつい二時間前に行っていた幻想訓練中の武器庫の記録を、よ』
「はい?」
幸多は、イリアが突然なにを言い出したのかと思った。
『通常、幻想訓練で使用される闘衣や武器は、全部、〈書庫〉に登録された情報に過ぎないわ。鎧套もそう。全部、情報を元に再現された幻想体に過ぎない。実物じゃないのよ』
それは当たり前のことだ。
幻想空間に実物を持ち込むことなどできるわけがない。
先程、イリアが言ったとおりだ。
実体が幻想体に干渉することはできない。
『きみが黒木法子さんと幻想訓練を行っている間、白式、撃式武器や鎧套のいくつかが転送された記録が残されていたわ。そして、召喚座標は、伊佐那家が管理する幻創機が構築した幻想空間上だった。それは、現実には存在しない情報の海の中よ。つまり、幻想空間上のきみの元へ、現実世界の兵器が召喚されたということなのよ』
イリアは、説明をしながら、幻板に表示した当該記録を見ていた。
そこでは、幸多によって現在召喚されている闘衣の記録が更新されたところだった。
通常ありえないことが、いままさに目の前に起きている。