第六百七十四話 特異なる力(七)
「確かに……いないな」
法子は、雷智たちから事情を説明されて、ようやく事態を理解した。
隣の寝台を見れば、本来ならば仰臥しているはずの幸多の姿はなく、枕の上に頭用装具だけが転がっていた。
だが、法子は、幻想空間で幸多の幻想体と死闘を演じたという実感があったし、あれは紛れもなく幸多そのものだった。
幸多の戦い方がより実戦的なものへと洗練されているのが、よくわかった。
法子は、結局は一般市民だ。近所で幻魔災害が発生したからと幻魔と交戦したことは何度もあったし、獣級幻魔を撃破したこともある。
しかし、その程度のことに過ぎない。
本格的な戦いとは縁遠い人生を送ってきたことに違いはなく、故に法子のそれは実戦的なものではなかった。
そして、それで十分だった。
この魔法社会を生き抜く上で必要以上の魔法技量を持っていることに代わりはなかったし、自分の周りのひとを守れるだけの力があれば、それで良かった。
それだけで構わない。
が、幸多は、そうではない。
導士として、戦士として、地獄のような戦場を戦い抜かなければならない。数多の幻魔を屠り、斃し、滅ぼしていかなければならない。
法子程度の魔法士に負けているようではいけないのだ。
だからこそ、法子は、幸多と再会するなり、彼の力を試したくなった。
彼が閃光級二位の導士で、いくつもの死線を潜り抜けてきたということは知っている。彼が同期の導士の中でも頭抜けた戦績を誇っていることも、承知の上だ。
その上で、彼の今の実力を知りたかった。
足りないものがあるのであれば、教えてあげたかった。
だが、不要だと言うことがわかった。
法子の最大最強の魔法さえも、彼には通用しなかった。
その事実を受け入れようとしていた矢先に、とんでもないことが起きていたという事実を知らされ、法子は、憮然とするしかなかった。
幸多のいない寝台を見て、幻板を見遣る。
幻想空間上には、幸多が所在なげに突っ立っている。
法子を吹っ飛ばした後、壊滅的打撃を受けた大地に降り立った彼は、周囲を見回しているようだった。
『終わったんだから、戻して欲しいんだけど』
幸多は、幻板の向こう側から当然のように文句をいってきて、奏恵は、慌てた。
「そ、そうよね、戻せばいいのよね。戻せば……でも、戻るのかしら……?」
「や……やってみるしか、ないんじゃ……?」
「そ、そうね……やってみるしか……ないわね」
奏恵は、幻創機の操作盤としばし睨み合うと、覚悟を決めて、普段の手順通りに操作した。幸多の意識と幻想体の接続を切り離したのだ。
すると、幻創機が青白い燐光を発したかと思うと、それは機材を伝って頭用装具へと至り、膨大化した。
そして、頭用装具が吐き出した大量の青白い燐光の中から幸多が現れ、元の状態に収まった。
つまり、頭用装具を装着し、仰臥した状態である。
幸多は、きょとんとした。
その場にいる全員が、あんぐりと大口を開けて、幸多を見ていたからだ。
とんでもない衝撃的な映像を目の当たりにして、愕然としているような、そんな間の抜けた表情だった。
「ど、どうしたのさ?」
幸多には、なにがなんだかわからないから、そう尋ねるしかなかった。
「ぼくが幻想空間に入り込んだ? 冗談にしたって面白くないけど」
幸多は、奏恵たちから説明を受けて、そのようにつぶやいた。
が、周囲の反応を見る限り、嘘でも冗談でもなさそうだった。
肉体が、実体を持つものが、情報だけで構築された幻想空間に入り込むなどありえないことだったし、考えられないことだった。
幻想空間にのめり込みすぎて、幻想空間に取り残される類の創作物は有り余るほどにあるし、そうした題材の映画やアニメも数多にあるし、そのような題材の作品でも、肉体そのものが幻想空間に取り込まれてしまうものもないわけではない。
しかし、肉体は現実世界にあって、意識だけが幻想空間に取り残されるという作品が大半だったりした。
つまり、皆が幸多に話したことは、それくらい現実離れしているということだ。
だが、
「これがその証拠だよ」
蘭が携帯端末の幻板を出力して、先程撮影した映像を流しだしたものだから、幸多も信じざるを得なくなった。
確かに、幸多がいま座っている寝台に誰もおらず、頭用装具だけが転がっていた。そして、幻創機が青白い燐光を発すると、その光そのものが機材を伝って頭用装具に至り、爆発的に膨れ上がった。その光の中から自分の姿が実体化する様を目の当たりにすれば、幸多も唖然とするほかない。
もちろん、いまの技術ならばその程度の映像を作ることは容易い。しかし、蘭がそんな真似をする理由もなければ、奏恵たちが一丸となって幸多を騙す必要性などどこにもないのだ。
「本当……なんだ」
「ええ、本当なのよ」
奏恵は、幸多の呆然とする様子を見て、彼に歩み寄った。我が子の身になにが起きたのか、いままさになにかが起きているのか、まるでわからない。
幸多は、この世で唯一無二の存在だ。
完全無能者。
魔素を一切内包しないが故に、生まれることすら困難であり、特別な処置が必要だった。
彼の身になにか不思議なことが起きているのだとしても、なんらおかしくはなかった。
なにより、幸多の中には、幸多のことを見守る精霊たちがいる。
精霊。
奏恵は、彼らのことをそう認識していた。幸多とはまったく人格が異なる彼らは、しかし、幸多のためを思って行動しているようだった。幸多の日常を壊さないように、幸多の周囲の人達を傷つけないように。
そんな不思議が宿っているのが、幸多という人間だった。
奏恵は、全てを受け入れていた。
幸多になにが起こったとしても、幸多は幸多だ。愛しい我が子に違いはない。
幻想空間に干渉することができたのだとしても、それがなんだというのか。
奏恵は、幸多の隣に腰を下ろすと、彼の膝上の手に触れた。
「でも、なにも心配することはないわ、幸多」
「心配?」
幸多は、むしろ、母の心配ぶりにきょとんとなった。
「なにを心配するっていうのさ?」
「ええ?」
「ぼくは幻想空間に入り込めたんだよ。それって凄いことじゃない? うんうん、とっても凄いことだよ!」
「それは……そうだけど……」
「ううん……?」
「いやまあ、そうなんだけどさ」
幸多が一人興奮している様子には、室内にいる誰一人として同意できなかった。
「なんだか……凄いことになったな」
真白が考え込むような顔をしたのは、幻想訓練室の様子を覗き見していたからにほかならない。
幸多と黒木法子の幻想訓練そのものも見所が多かったが、それ以上に驚くべき出来事が起きてしまい、そちらのほうが気になってしまっていた。
「凄いっていうか、なんていうか……」
「彼は……なんなんだろうね?」
黒乃も義一も、いま目の当たりにした現象の異様さには、呆然とするしかない。
幸多の体が突如として青白い燐光を発したかと思うと、頭用装具に吸い込まれるようにしてその姿を消してしまったのだ。
幻創機から幻想空間へと潜り込むかのような現象であり、実際、その通りのことが起きていたようだった。
少なくとも、幸多の幻想体は消えていなかったし、幸多の意識も幻想空間上に存在していた。
そして、訓練を終えると、幻創機から機材を伝い、頭用装具から吐き出された光が幸多の肉体を復元して見せた。
「まるで魔法みたいだったな」
「魔法、使えないのにね」
「そうだね……」
義一は、幸多がなにやら興奮している様子を見つめながら、そんな反応をするのも無理はないのではないかと思ったりもした。
彼は、完全無能者だ。
なんら特別な力を持たずにこれまで生きてきたのだ。
そんな中、突如としてなにか不思議な力が発現したのならば、興奮したとしてもおかしくはない。