第六百七十一話 特異なる力(四)
「ど、どういうことだよっ!?」
圭悟は、声が上擦らせながらも、自分が意味のない言葉を発していることに気づいていた。
いま、彼らの目の前で起きている出来事は、とてもではないが現実的なものではなかった。まるで幻想そのものだ。神秘と言い換えてもいい。
そしてそれは、簡単には受け入れがたいものでもあった。。
幸多が、消えた。
幻想訓練用の寝台に寝転がっていたはずの幸多の姿が、忽然と消えてしまっていたのだ。
幻創機と繋がっている神経接続のための頭用装具は、彼の頭が置かれていた枕の上に残っている。
しかし、幸多が頭用装具を外してどこかに姿を消した、などとは考えられなかった。
なぜならば、圭悟たちが見ている幻板の中では、法子と激闘を繰り広げる幸多の姿がはっきりと映っていたからだ。
幻創機を介することなく幻想空間内の幻想体を操作することは、必ずしも不可能ではない。
ただし、それ相応の性能を持った演算機による介入が必要であり、そんなものを即座に用意できるわけもなければ、幸多が、そんなことをする理由が思いつかなかった。
そもそも、仮に万能演算機を用いるなどのなんらかの方法で幻想体を操作することができたのだとして、幸多自身の意識と同期している状態と同等の戦いぶりを見せることは難しい。
外付けの機械で幻想体を動かそうとすると、直感的とはいかず、複雑極まりないものにならざるをえない。となれば、幸多本来の実力を発揮できなくなるのが自然であり、いままさに法子と凄まじい戦いぶりを発揮している幸多が、なんらかの方法で操作されているとは考えにくいのだ。
そこにいるのは、幸多の意識によって操られる幻想体であり、それ以上でもそれ以下でもないとしか思えない。
だとすれば、いま、この場でなにが起きているというのか。
「皆代くん……まさか……」
「まさか……そんなこと……」
「ありえない……ありえないけど……」
真弥たちが誰もいない寝台と、激戦の幻板を見比べ、愕然としながらも、一つの結論に辿り着かざるを得なかった。
ありえないことだ。
しかし、それ以外には考えられない。
「幸多は……あの子は、あの中にに入ってしまったの?」
奏恵は、導き出した結論を言葉にして呆然とするほかなかったし、もはや法子と激戦を展開する我が子を応援する気分にはなれなかった。
今目の前で起きている異常事態は、ただ受け入れることすら困難だ。
幸多が皆を驚かせるためにただ寝台から姿を消しただけだというのであればともかく、幻想空間に肉体ごと入り込む事態など、想像しようもない。
そもそも、幸多がこの場で友人たちを驚かせるような真似をする理由もないのだから、やはり、後者以外には考えられない。
幸多は、どういうわけか、幻想空間に入り込んでしまった。
つまり、いま、法子と凄まじい戦いを繰り広げているのは、幸多の実体ということになるのだろうか。
それはやはり、どう考えてもありえないことのように思えた。
幻想空間は、幻創機によって作られた情報のみの領域であり、そこに実体を持つ人間が介入することなどできるわけもなければ、当然、幻想体と直接戦闘を交えることなどできるわけもない。
しかし、幻板の向こう側で繰り広げられる激闘においては、幸多が幻想空間上の様々なものに触れ、法子の幻想体とぶつかり合っていた。
なにもかもが異様だった。
奏恵は、我が子の身になにが起きているのか、そればかりが気になって、気が気ではなかった。
幸多については、これまで散々、頭を悩まされてきた。
唯一無二の完全無能者なのだ。
その育て方については、夫・幸星と二人で散々に悩み、話し合いながら、周囲の助けをかりつつ、なんとか乗り越えてきたものだ。
また、幸多の中にいるなにものかの存在についても、奏恵は、頭を悩ませなければならなかった。つい先程、幸多の中の彼らが幸多の味方だということが判明したことで安堵したものの、それまでは大いに苦悩したものである。
そして、今回の事件だ。
奏恵は、頭がどうにかなりそうだった。
幻想空間内では、幸多と法子がもつれ合うようにして法器から落下するところであり、法子が膨大な律像を展開する光景が、奏恵たちの目に焼き付くようだった。
凄まじい密度の律像は、並の魔法士のそれとは比較にならないほどに強烈な光を放つ。
(ジ・オーバー……なんだって?)
幸多は、法子が囁くように告げた真言が、始めて聞く魔法の名称だということに気づいたとき、法子の全身から爆発的な魔力が拡散するのを認めた。
膨大な闇の奔流が、法子の華奢にも見える体から全周囲へと発散され、大気を押し退け、幸多の体を吹き飛ばす。
幸多は、空中で身を翻して落下態勢に移行しつつも、法子の全身が闇に覆われていくのを見ていた。
いまの幸多の目には、法子の律像は見えない。義眼ではないからだ。
話によれば、幸多の左手も右眼もどういうわけか復元してしまったという。
愛曰く、第四世代相当の魔導強化法のおかげとしか考えられない、とのことだが、それにしたってとんでもないことだ、ともいっていた。
失われた体の一部を一瞬にして元通りに復元してしまったのだ。
治癒魔法の中でも復元魔法と呼ばれる種類の魔法は、極めて高度な魔法技量を必要とする。誰もが真似のできるものではなかったし、故に、多くの場合、医務局で生体義肢を用意してもらうのだ。そのほうがなにかと手早かったりもするし、問題も少ない。
そして、生体義肢は、魔素を宿している。
魔法士が用いる上でなんら問題なかった。
だが、幸多の場合は、生体義肢に魔素が宿っていたが故に、あのとき、あの瞬間、溶けて消えてしまったのだと思っていたし、実際、その通りだったのだろう。
もし、幸多の左腕が本人のものだったならば、完全無能者の、魔素を一切宿していないものだったならば、愛理を手放すことなく、抱きしめ続けることができたのではないか。
彼女の暴走を食い止めることができたのではないか。
考えるのは、そのことばかりだ。
後悔ばかりが沸き上がる。
もし、あのとき、サタンに飛びかかるようなことさえしなければ。
サタンに左腕を切り取られるようなことさえなかったら――。
「あれは……?」
幸多は、目の前で起きた法子の変化に驚愕すらしながら、着地した。立ち上がり、武器を構える。双閃。
法子の姿に変化が生じていた。
彼女は、地上に落下してこなかった。
空中に止まったまま、膨大な闇を全身に纏うかのようにしていて、その闇が、さながら武装のように変化し、彼女の肢体を包み込んでいた。
闇そのもののような漆黒の装甲と衣は、どこか破壊的であり、強烈な印象を与えた。禍々しくもあれば、仰々《ぎょうぎょう》しくもある。
法子の肢体が膨れ上がったような、そんな印象すら受けてしまうほどだ。だが、均整は取れている。不安定ではない。
むしろ、完璧だと思えた。
だが、その姿は、まるで――。
「まるで星象現界みたいだ」
幸多は思わずつぶやくと、すぐさま口を噤んだ。
星象現界は、最近になって様々な機密情報を公開したばかりの戦団が、今もなお秘匿しているものだ。
戦団魔法技術の最秘奥。
一般市民に教えるわけにはいかない。
が、法子には、幸多が漏らした言葉が届いていた。
「せいしょうげんかい? なんだそれは?」
「さて、なんでしょう」
「……ふむ。わたしが勝てば、教えてもらえるんだったな?」
「そんな約束してませんし、負けませんけど」
「良い返事だ。さすがはわたしの一番弟子!」
法子が虚空を蹴るようにして飛び出すと、闇が飛び散り、一瞬にして幸多との間合いを詰めた。風圧だけで周囲の木々が吹き飛びかねなかった。
「いつ弟子になったんですかねえ!」
幸多は、法子が繰り出してきた拳を双閃で受け止めながら、いった。
法子が、にやりと笑った。