第六百六十五話 親友(四)
「これが……伊佐那家」
「本邸、ね」
「わーってるよ」
圭悟は、真弥が一々訂正してくるのに噛みつきながら、伊佐那家の使用人の痕に続いて歩いていた。
六人は、伊佐那家本邸の敷地内に迎え入れられたのだ。
あの後、すぐさま門衛が戻ってきたかと思うと、上新田憲弘という人物を紹介された。
上新田憲弘は、数多くいる伊佐那家の使用人の一人だという。長身痩躯の若い男だが、外見から年齢を当てるのは不可能に近いため、実年齢はわからない。黒髪に鈍色の瞳を持つ、秀麗な顔立ちの男だった。
なぜ彼を紹介してきたのかといえば、圭悟たちを敷地内に招き入れるためだということであり、圭悟たちは、あまりにもトントン拍子な出来事に大いに驚いたものだった。
いくら幸多の大親友と名乗ったところで、門前払いを喰らうだけだとばかり思っていたからだ。
幸多は、合宿の最中だ。
しかも、その合宿とやらは、この八月の終わりまで目一杯やるものであるらしい。
今日は、八月二十八日。
合宿も仕上げにかかる頃合いではないか。
猛特訓中の幸多から時間を奪うのは、なんとも心苦しいというのか圭悟たちの共通する想いだった。
ただ一人、法子を除いては、だが。
「ふむ。これが伊佐那家本邸の内部か」
「映像ではよく見るわよねえ」
「うむ。しかし、実際に見るのとでは趣が異なるものだな」
「改造されていますから」
「改造?」
「はい。このたびの導士合同強化訓練に伴い、伊佐那家本邸の敷地全体に様々な改造が施されたのですよ」
使用人は、爽やかな笑顔を法子に向けたが、法子は、そんなことなどつゆ知らず、周囲に視線を巡らせていた。
しかし、残念なことに、伊佐那家本邸の正門から母屋へと向かう道中では、合宿のために施されたという改造を実感することはできなかった。
見る限り、映像資料などでよく見られる伊佐那家本邸のそれと大差ないのだ。
「合宿のために屋敷まで改造するんだね?」
「なんつーか、すげえな」
「それもこれも、導士合同強化訓練は、美由理様が御提案なされたものであるが故ですよ」
「ほう」
「美由理様ほど戦団の未来を考えられておられる御方はいらっしゃらないかと」
そういって、使用人は、圭悟たちを母屋の正面玄関まで連れて行くと、その壮麗な内装に圧倒される様子を見守った。それから、伊佐那家の紋章入りの上靴に履き替えるように伝える。
全員が上靴に履き替え、家に上がる頃には、遠くから声が聞こえてきていた。
訓練を終えたばかりの導士たちの声だということは、上新田にはわかった。この一ヶ月、彼らの面倒を見ているのが、上新田ら伊佐那家の使用人なのだ。
とはいっても、面倒ごとなどほとんどない。
彼らは、戦団の導士なのだ。周囲に迷惑をかけることがないように徹底されていたし、そのことに関しては、この合宿でさらに叩き込まれていた。
「それでは、皆様。どうぞ、こちらへ」
上新田は、圭悟たちがそわそわしている様子に微笑さえ浮かべながら、母屋を進んでいく。
母屋は広く、無数の部屋が入り乱れるように存在している。複雑な通路は迷宮のようだ、と、始めてここを訪れたばかりの導士たちがいっていたものだったし、迷うことも少なくなかった。
そんな導士たちも、いまでは、母屋の構造を完璧に把握しているようであり、迷った挙げ句使用人が呼び出されるようなことはなくなっていた。
寂しくもあり、嬉しくもあり、といったところだ。
上新田が圭悟たちを案内したのは、奥まった場所にある客間である。
広々とした空間には、いくつかの長椅子と大きなテーブルがあり、調度品の数々が室内を飾っている。
「この部屋でしばしお待ちの程を。すぐに幸多様をお呼びしますので」
「うむ。善きに計らいたまえ」
「法子ちゃん!」
長椅子の真ん中に腰掛けた法子の鷹揚な態度には、さすがの雷智も慌てたようだった。
幸い、使用人が気にした様子はなかったが。
「先輩、さすがだな」
「どんなときでも動じないしね」
「まさに唯我独尊って感じ」
「こういう場では、控えて頂けると嬉しいのですが」
圭悟たちは、法子に聞こえないように囁き合うと、室内を見回して、それぞれに長椅子に腰を下ろした。
雷智は法子の隣に座り、圭悟は、別の長椅子に蘭とともに腰掛けた。対面の席に真弥と紗江子が座っている。
「高級品ばっかり……ってほどでもないんだね」
などと、室内の調度品を観察しながらいったのは、蘭である。
「そうだな。安物ばかりでもないが……決して庶民の手が届かないものでもない」
「そういうの、わかるんです?」
「わからんが」
「適当なの、法子ちゃん」
「それは……もう」
雷智の申し訳なさそうな表情に対し、圭悟は、なんともいえない顔になりながら、どういう返答をするべきか言葉を探した。
法子がある種適当な人間だということは、対抗戦部の誰もが知っていることだ。
圧倒的な魔法技量の持ち主であり、身体能力も頭抜けているが、こと会話においてはでたらめなことをいうことが少なくなかった。その結果振り回されることも多々あり、そのことを思い出すと、胃が痛くなる始末である。
しばらくして、別の使用人が客間を訪れたかと思うと、圭悟たちの前に飲み物を並べていった。テーブルの真ん中に置かれた大きな器には、山盛りの菓子が入っている。
「どうぞ、ごゆるりと」
「あ、どうも……」
「お気遣い、ありがとうございます!」
「うむ、これくらい当然だな」
「法子ちゃんってば!」
雷智がふんぞり返る法子をどうにかしようと苦闘する様を横目に見て、圭悟は、なんだか可哀想になってきたのだが、それもまたいつものことだということに変わりはなかった。
対抗戦部時代から、いや、それ以前から二人の関係に変わりはない。
普段、法子を好き放題にやらせているのが雷智なのだ。それなのになぜ、いまさら矯正しようとしているのかといえば、ここが伊佐那家本邸であり、央都の一般市民にとって、雲上人の世界だからに他なるまい。
「まさか伊佐那家本邸に足を踏み入れることがあるなんてね……」
「人生、なにがあるかわかったもんじゃねえな」
「本当だよ」
「ええ、まったく……」
蘭が感嘆の声を上げる横で、圭悟もまた、深々と息を吐いた。
今年になってから、圭悟自身の人生は、大きな変化を迎えた気がする。特にこの四月からは、激動の日々だった。
まさか魔法不能者の友人ができるとは思わなかったし、そんな彼のために自分が対抗戦部に入るなど、想像もできなかった。決勝大会で優勝したのもそうだし、親友を戦団に送り込んだのだって、そうだ。
そして、天輪スキャンダル。
圭悟の父が職を失う羽目になったのは、その立場上、生け贄として捧げるには十分すぎたからだろう。
けれども、そのおかげなのか、圭悟は、父と話し合う時間が増えた。
父のことをよく知らないまま嫌っていたことに気づかされた。
天輪スキャンダルという大事件は、確かにとてつもない厄災だった。人為的に引き起こされた災害であり、多大な被害が、天輪技研のみならず、双界に撒き散らされた。
失われたものは余りにも多く、得られたものなど、数えるほどしかないのではないか。
その中の一つが、米田家の不和の解消なのだとすれば、あまりにも釣り合いが取れていないが、しかし。
「禍福は糾える縄の如し……か」
圭悟は、思わずつぶやき、はたと気づいた。
「はい?」
「急にどったの、頭打った? 熱でもあるの? だいじょうぶ?」
「真弥ちゃん……」
言いたい放題の友人たちに対し、圭悟は、憮然とするほかなかったし、法子と雷智までもがきょとんとした様子でこちらを見てくるものだから、どうしたらいいものかと思ったほどである。
そして。
「ごめんごめん、待たせちゃったかな?」
幸多が客間に飛び込んできたのは、そんな頃合いだった。