第六百六十二話 親友(一)
マモン事変が、央都とネノクニからなる双界全土に大問題として波及するのに時間はかからなかった。
ここ数ヶ月、大規模幻魔災害が頻発し、央都やネノクニの治安について、平穏について考える市民が増えていたということもあるのだが、マモン事変が前代未聞の大事件だったことのほうが理由として大きいだろう。
幻魔災害。
幻魔の発生とそれに伴う災害の総称だ。
大規模幻魔災害とは、特に規模の大きな幻魔災害の呼称であり、央都誕生以来使われることなどほとんどなかった言葉だった。
今や古の昔、魔法時代黄金期から混沌時代にかけては度々使われていた言葉であるが、それはそれだけ幻魔災害が身近だったからに他ならない。
そして、最近になって頻繁に用いられるようになったのは、もちろん、それだけ高頻度で規模の大きな幻魔災害が起きていたからだ。
虚空事変、天輪スキャンダル、機械事変、スコル事変、そして今回のマモン事変である。
それらが、この数ヶ月、いや、二ヶ月余りの間に起きているのだ。
央都市民も、戦団に不満や不信を持たないわけがなかった。
特にここ数日の報道は、市民の不安を掻き立てるには十分すぎるほどの力を持っていたし、戦団が公表した事実が、そうした報道の内容を裏付けるようなものばかりだということも大きかっただろう。
「幸多は無事だっていうけどよ」
圭悟が苦い表情を顔面に刻んだまま携帯端末を操作する様は、いつも通りではあった。しかし、厳めしい面構えの彼が渋面を作っていると、近寄りがたい雰囲気が周囲に漂うこともあり、道行く人々がぎょっとして道を空けるのが少しばかり愉快だった。
「おれには心配でたまらねえよ」
「そうよね……心配よね……」
「皆代くんのこと、ですからね……」
真弥にも紗江子にも、圭悟の考えていることが手に取るようにわかった。
きっと同じことを考えている。
八月二十八日。
もうすぐ八月も終わりだ。
つまり、夏休みも終わるということだ。
市内に溢れかえる人の多さもまた、夏休みの終わりを感じさせるようだった。
直に終わる夏休みを目一杯限界まで楽しもうという学生が大半なのだ。
そんな学生たちの人波をかき分けることができるのは、よく目立つ真っ赤な髪と厳つい顔立ちをした圭悟のおかげなのは、紛れもない事実だった。背格好もそうだが、服装が派手な色合いだということも大きいだろう。
目立てば目立つほど、彼の周囲に空間ができるのだ。
おかげで、真弥たちは人波を気にすることなく、すいすいと歩くことができた。
しかし、そんなことで喜んでいられたのは、つい先日までのことである。
ここ数日、浮かれていられるような精神的余裕はなかった。
「本当にね」
蘭も、静かに同意した。
四人は、立体映像や幻板が乱舞するかのような町並みの中を歩いている。
夏休みの終わりを目前に控え、こうして四人で集まるのも何度目なのかと想うくらいだが、しかし、真弥が呼びかければ集まるのがこの四人の関係性なのだから、仕方がない。
真弥は、少しでも四人で感情を共有したいという想いがあり、それがわかっているから、蘭も圭悟もなにもいわず、こうして目的もなく歩き回るだけの時間を過ごしているというわけである。
天気は、晴れ。
雲はあるが、いずれも太陽に照らされ、むしろ白く輝いているようだ。気温は高く、町中は暑い。けれども、立ち並ぶ店舗から流れ込んでくる冷気のおかげもあって、冷感系の魔具を用意する必要性すら感じなかった。
なかったとしても、魔法を使えばいいだけのことだ。
そうした補助系の魔法は、紗江子が得意としていた。
「幸多くん、大丈夫かな」
「……大丈夫なわけねえよ」
圭悟は、ぼやきながらメッセージアプリ・ヒトコトに返信する。
幸多は、いま合宿の休憩時間だということであり、だから、こうして圭悟とヒトコトで言い合うことができているのだが、彼の文面を見るに強がっているようにしか思えなかった。
大丈夫、問題ない、心配いらない――そのような言葉ばかりが、彼から帰ってくるのだ。
「……直接殴り込んでやろうか」
「あのね、皆代くんがいまどこにいるのか、わかっていってる?」
「わかってるての。伊佐那家本邸だろ」
「だったら、むちゃくちゃなこといわないでよ」
「なにがむちゃくちゃなんだよ」
「なにもかも!」
「真弥ちゃん、落ち着いて……」
肩を怒らせて圭悟に食ってかかる真弥を抑えるのは、いつものように紗江子の仕事だった。一方の圭悟に対しては、蘭が対応する。
「米田くんも、冷静になって」
「おれは冷静だっつの」
「どこがよ」
「どう見ても冷静だろが」
「そうかしら」
「そうだよ」
またしても言い合いを始める二人を見て、紗江子と蘭は顔を見合わせて、肩を竦めるほかなかった。
幸多のことが心配なのは、四人とも同じだった。同じだけ深く心配している。
それもそのはずだ。
マモン事変が起きたとき、幸多は、愛理と出雲遊園地に遊びに行っていたのだ。そして、出雲遊園地こそがマモン事変の中心地だったということが判明している。
幸多は、導士として幻魔災害に立ち向かい、新種の妖級幻魔マガミカヅチ、鬼級幻魔マモンとの戦闘に大きく貢献した、と、戦団によって発表されている。
その戦功によって、近く昇進するという噂もあるくらいだ。
鬼級幻魔相手に活躍したというのであれば、昇進するのも道理ではあるのだが、そのことを喜ばしくは思えないのもまた、事実だった。
愛理が、姿を消してしまったからだ。
戦団の発表によれば、マモン事変によって確認された唯一の行方不明者が、砂部愛理だった。
マモン事変の被害に遭った市民の数は、実はそれほど多くはない。もっとも多大な損害を被ったのは、出雲遊園地の入場客だが、それでも数百人が負傷しただけだという。
死者が出たのは戦団の中からだけであり、それは、当たり前のことといっていいだろう。
幻魔災害の対応に当たるのが、戦団なのだ。
戦団に所属するということは、死に最も近い職場で働くと同義であり、導士の誰もがそれを承知している。
それでも、今回の幻魔災害で命を落とした導士たちに対する哀悼の気持ちを持たないわけではない。
なにせ、圭悟たちの親友・幸多もまた、死にかけたという話だった。
そしてなにより、幸多は、心に深い傷を負ったのではないか、と、圭悟たちは考えるのだ。
愛理は、幻魔災害に巻き込まれ、姿を消してしまったのだが、そのとき、彼女が出雲遊園地にいたのは、幸多と交わした約束を果たすためだった。
愛理が星央魔導院の早期入学試験に合格したお祝いとして、幸多が彼女の願いごとを聞いた。
それが出雲遊園地での二人きりでのデートであり、その結果がマモン事変である。
幸多が悪いわけではないが、しかし、彼の性格を考えれば、全ての責任は自分にあるなどと考え、一人で背負い込んでしまうのではないか、と思えてならなかった。
圭悟たちが心配するのは、幸多がそういう精神性の持ち主だからだ。
自分のことよりも他人のことばかりを考えていて、自分が傷つくことなんてどうでもいいといわんばかりの少年。
自分以外の誰かのためにこそ力を発揮できる彼が、自分と一緒にいた少女が消息不明になったということを気に病まない理由がない。
事件終息以来、何度となく連絡を取り、幸多の精神状態を窺っているものの、直接逢って話したわけでもないから、よくわからないのだ。
人の感情、心の機微というのは、表情や態度にこそ現れるものだ。
だから、文字だけのやり取りでは、不安を拭いきれなかった。
「通話には出やがらねえしよ」
圭悟は、携帯端末の通話履歴を睨み付けながら、嘆息した。
理由は、わかっている。
幸多は、合宿中であり、連日連夜、凄まじい特訓を行っているのだ。空いている時間に通話できるほどの余裕がないのだとしても、致し方のないことだ。
それでも、と、圭悟たちは想ってしまう。
幸多の声が聞きたい、と。