第六百五十九話 天使と悪魔(一)
地上は、相変わらず荒れ放題に荒れている。
それはつまり、なにひとつ変わっていないということだ。
常に変転し続けているのがこの世界の正しい在り方であり、一定の形に留まり続けるということは、ありえない。
この混沌たる世界で絶対の安定を求めることは、不可能に近い。
いや、不可能と断言するべきなのだろう。
この世界は、混沌そのものに飲まれている。
「結局、無駄骨を折ったことになったね」
ルシフェルは、混迷を極める地上の様子を魔法球に映し出しながら、告げた。
ロストエデン。
ルシフェルが主宰する〈殻〉であるそれは、遥か高空をゆっくりと移動し続け、留まることを知らない。
それもまた、安定していないということだ。
この世に、安定はない。
それこそが魔が支配する世界の法理であり、全てだ。
魔法とは、混沌そのものなのだ。
だから、黄金の大天使は、彼の傍らに腰を落ち着ける大天使ガブリエルと、白銀の大天使メタトロンを見比べるようにして、いうのだ。
ちなみに、彼らを指し示す大天使とは、天使の階級における大天使とは異なる意味を込められている。
階級に当てはめるのであれば、最上位の天使である熾天使ということになるだろう。
しかし、彼らが誕生したとき、彼ら以外に天使はおらず、故に天使を名乗ったのだ。そして、下位の天使が続々と誕生したことで、彼らは大天使と呼ばれるようになったのである。
天使たちを率いる大いなる天使、故に大天使なのだ。
「きみが関与せずとも、彼は死ななかった」
「……そのようだ」
メタトロンは、ルシフェルの視線を逃れるようにして、魔法球を見つめている。
魔法球には、地上の、日本列島の混沌たる現状が映し出されている。
つまり、幻魔大帝の死によって再来した幻魔戦国時代の有り様だ。
鬼級幻魔たちが主宰する〈殻〉が互いの領有権を主張するように乱立する地上は、まさに群雄割拠といっても過言ではない状況なのだ。
鬼級の中でも特に凶悪無比な鬼級たちは、それぞれに広大な版図を誇りながらも、さらなる勢力拡大を図り続けている。いまもなお周囲の〈殻〉への攻撃を行い、闘争に次ぐ闘争を繰り返しているのだ。
どこもかしこも闘争ばかりだ。
赤黒い混沌の大地も、どすぐろい混沌の海も、混沌に満ちた天空も、幻魔たちの闘争と死に溢れかえっている。
ありふれた生と死。
満ち溢れるばかりの勝利と敗北。
それこそが幻魔たちの求めた世界の形であるだろうし、幻魔大帝による一時の統一など、誰が望んだものでもあるまい。
もっとも、それらはメタトロンたちには全く関係のない話だったし、どうでもいいことではあるのだが。
天使とは、人類の守護者だ。
幻魔の世がどうなろうと、幻魔たちがなにを望み、なにを求め、なにを願って闘争を繰り返しているのかなど、知る由もない。
知りたいとも思っていない。
そんな幻魔たちが跳梁跋扈し続ける地上にあって、人類生存圏と呼べる領域はわずかばかりしかないことにこそ、注目するべきだ。
日本列島と呼ばれた島国の、ほんのわずかばかりの土地を維持するだけで精一杯なのが、いまの人類なのだ。
魔天創世によって大半が滅び去ったのだから、致し方のないことだろう。
この場合、よくもこのわずかばかりの土地を維持し続けられるものだと受け取るべきだし、褒め称えて然るべきだろう。
人間は、よくやっている。
上手く行きすぎているといってもいい。
それくらい、幻魔のほうが圧倒的優勢なのが地上の現状だった。
「きみの身勝手が、ドミニオンを死に追い遣った。それが彼の本望だったのだとしても、そうしたのは、きみだ。そうだろう、メタトロン」
「……ああ」
返す言葉もないとはまさにこのことであり、メタトロンは、今度こそ黄金の大天使を見た。蒼穹とも碧玉とも思わせる瞳を見つめ返せば、ルシフェルの表情はわずかに和らいだ。
「まあ、起きてしまったことをどうこういうつもりはないさ。時間は回帰しない。失われた命は戻ってこない。これがこの世の道理」
「その道理をねじ曲げて見せたのが、あの特異点の少女なのでしょう?」
ガブリエルが口を挟んだのは、彼女なりに気になることがあったからに違いない。
「うん。そうだね」
「砂部愛理といいましたね」
マモンが特異点と見出し、そのために手に入れようとした人間の少女。
彼女は、皆代幸多の関係者ということもあり、メタトロンの記憶に留めていた人物でもあった。
しかし、メタトロンは、彼女が特異点であることに気づきもしなかった。注視していなかったからだろうし、皆代幸多のほうにこそ、意識を向けていたからに違いない。
(縁か)
メタトロンを、そして、ドミニオンをも突き動かした衝動について、彼は、考え込まざるを得ない。
この肉体を形成する膨大な情報、その一部に混ざり込んだそれは、彼の根幹そのものとしてその存在を主張している。
強く、激しく、燃え続けている。
だから、止まらない。
止めようがない。
縁とは、そういうものだ。
「彼女は、結局、この時空から消えてしまった。どこへ行ってしまったのやら。未来か、それとも、過去か。いずれにしても、わたしたちにはもはや無縁のものとなり、考慮する手間が省けたというわけだが」
「少し、気になりますわ」
「そうだね。その通りだ。時間に干渉する力が存在するというのであれば、厄介なことになりかねない」
「だが、特異点である以上は――」
「その通りだよ。手出し無用だ」
ルシフェルは、メタトロンの言葉を遮るようにして断言すると、再び魔法球に視線を戻した。
地上には、数多の幻魔が蠢いているが、人類もまた、確かに息づいている。
その息吹を感じるだけで、彼は、自分の存在意義を再確認できるのだ。
ロストエデンの天使たち。
その存在理由を。
なにかが、流れていく。
膨大な数の光点。
それがなんなのか、彼には想像もつかない。
一定の方向へと流れ落ちていくのは、自分も同じだった。
暗黒の深淵。
そのただ中を流れ落ちていく無数の光。
赤く、暗く、どす黒いその光が、かつて自分を構成していた情報なのではないかと思い至ると、合点がいった。
ああ、と、彼は想う。
これが、死、なのかもしれない、と。
サタンによって裁かれ、滅ぼされたのであれば、死を迎えるのは当然だった。
しかし、死の先があるというのは、想定外のことだったし、想像とは違うものだった。
彼は、常に疑問に解を求めた。
それが彼の欲求の全てだったし、存在意義の全てであり、存在理由そのものだった。
彼の〈強欲〉は、問いであり、解なのだ。
答えを求めることへの欲望こそが、彼の全て。
死もまた、彼の疑問の一つだった。
そしてそれは、答えの出ない疑問だと、アスモデウスに教わった。
死の先を知っているものは、この世に一人としていない。
なぜならば、死が全ての生物の終着点であり、死の先に到達したものなど存在しないからだ。
これが、死なのだとすれば、想像していたものとは随分と違う気がした。
死とは、物事の終わりであり、断絶だとばかり想っていたからだ。
だが、どうやら彼の意識は存在し続けていて、赤黒い無数の光点の流れの中を漂い続けている。
これが死だというのであれば、それもいい。
解が得られたのだ。
満足感さえあった。
同時に、不足を覚えた。
生前に抱いた数多くの疑問について、永久に解を得られないという事実に直面したからだ。
このまま意識が存在し続けるというのであれば、まさに地獄だ。
大いなる主君の命令に背いたが故の罰なのだとすれば、これほど最適なものはあるまい――などと、彼が考えていたときだった。
赤い光点の流れ、その終点が眼前へと迫ってきていた。
なぜそこが終点だと想ったのかはわからない。
また、疑問が湧いた。
解を欲した。
意識が、鮮明になっていくような、そんな感覚があった。
赤黒い無数の光点が彼の意識に収束していく。
そして、マモンは、目を見開き、眼前に膨大な闇が横たわっている様を見た。
視界に飛び込んできたのは、闇だ。
絶対の暗黒。
それこそ、死に相応しいというべき光景。
だが、違う。
肉体の感覚があり、足の爪先から頭の天辺に至るまで、神経が研ぎ澄まされていくのがわかったのだ。
「生きてる……?」
想わず口を吐いて出た言葉が、自分の耳から聞こえてきたものだから、マモンは、はっと上体を起こした。
光一つ見当たらない闇の中にあって、膨大な光を放つものがあった。
それはさながら、黒い太陽そのものであり、大いなる主君そのものであった。




