第六百五十六話 あるいは全ての始まりの――(一)
「まったく、大変な人生さね」
愛が大きく伸びをしたのは、同じ姿勢で立ち続けていたからにほかならない。大きく息を吐くと、肺に溜まった煙が吐き出されて、輪っかになった。
電子煙草の煙だ。人体にとって無害そのものであり、副流煙など気にする必要もない。
だから、医療棟の屋上でも平然と吸っていられるのだが。
イリアは、そんな医務局長らしからぬ姿こそ愛らしいと想いながら、同意した。
「本当よ、本当……人生山あり谷ありとはいうけれど、あなたの人生ほど波瀾万丈なものはないんじゃなくて?」
「……かもしれないな」
二人の白衣の女神に心の底からの同情を寄せられて、美由理は、静かに肯定した。
医務局の女神と技術局の女神がふたり揃って同じような意見を述べてくるなど、そうあることではない。
いずれも戦団の根本といっても過言ではない部局であり、その部局を代表すると断言しても申し分ないのがこのふたりなのだ。
そして、美由理にとって特別な二人でもある。
そんな二人が同時に美由理の真実に近づき、触れたということは、まさに運命的という以外には言葉が見当たらなかった。
二人だからこそ、美由理もまた、応えられるのだ。
そんな想いが、想わず、溢れた。
「昔から想っていたことだが……」
「なになに?」
「改まって、どうしたのさ?」
「二人が友達で良かった」
どこか気恥ずかしそうに告げてきた美由理に対し、愛とイリアは顔を見合わせた。しばらく見つめ合ったのは、なにか聞き間違えたのではないかと想えたからにほかならない。
美由理がそのような言葉でもって自身の心情を直接的に伝えてくることなど、想像だにしない事態だったのだ。
驚天動地の出来事であり、だからこそ、二人はしばしの間、考え込むような素振りを見せた。
「そんなに、か?」
美由理は、一向に反応を示さない二人に対し、顔をしかめた。
「そんなにおかしなことか?」
「え、いや、別におかしいとか、そういうわけじゃなくてね」
「少しばかり驚いたってだけさ。気にしないでおくれよ」
「気にはする。が……まあ、いいさ。わたしが秘密を抱えたまま、打ち明けなかったのが悪いだけのことだ」
美由理は、二人の親友の反応に満足しながら、いった。
美由理が伊佐那麒麟と出逢ったのは、十年以上の昔のことだ。
そのとき、美由理にはなにもなかった。
自分がなにものなのか、名前すら覚えていない記憶喪失であり、だからこそ、麒麟の養子として伊佐那家に迎え入れられることになったのだが、成長するに連れ、時間が経つに連れて、記憶を取り戻していったのもまた、事実なのだ。
イリア、愛と知り合った頃、つまり星央魔導院に進学した当初こそ、ほとんど思い出せていなかった。
けれども、それから十数年が経過した今となっては、自分の正体についてはっきりと思い出せていたし、そのことを隠し続けていたことに対して、多少どころかかなりの罪悪感を抱いていた。
隠し通さなければならないような真実であっても、だ。
今回、結果的に打ち明けることになったのは、イリアと愛の二人が、同時に言い当てたからにほかならない。
突拍子もなければ、極めて飛躍した推論だった。
けれども、二人には確信があり、だからこそ、彼女たちは美由理に問うたのだろう。
あなたは、なにものなのか、と。
そうして、ようやく、美由理はふたりに全てを打ち明けることができた。
だからだろう。
美由理は、なんだか肩の荷が下りたような、心の奥底で蟠り続けていたものが解消したような、すっきりした気分だった。
「そんなことはないんだけどね」
「そうよ。だれだって秘密の一つや二つくらい、抱えているものよ」
「例えば?」
「わたしに聞かれても困るけど」
「ほーら、あんたにはないんじゃないか」
「どうかしらねえ」
「あるのかい?」
愛がイリアのなんともいいようのない口振りに反応したのは、彼女に隠し事ほど似合わない言葉もなかったからにほかならない。
それは、美由理も同意見だった。
イリアといえば、昔から自分の考えていることをなんでも話す人間だったし、だからこそ、美由理も愛も彼女に惹かれたという部分があるのだ。イリアほど明け透けな人間もいまい。
それくらいには、イリアはなんだって話してくれたし、教えてくれたのだ。
イリアがなにを想い、なにを考え、なにを望み、なにを求め、なんのために生きているのか。
星央魔導院時代を思い出せば、彼女ほど深く考えて生きている人間など、ほかにはいなかったのではないか、と、美由理は思ってしまう。
美由理も、様々なことを抱え込んでいた。
けれどもそれは個人的な問題であって、イリアのような社会全体に対する熱く強い想いとは全く異なるものだった。
イリアは、昔から、この魔法社会の在り様に疑問を呈しており、常々、変えたいと願っていたのだ。
それはつまり、魔法不能者を排斥するような人間のいない社会にこそ、変革したいという願望である。
イリアは、そのために星央魔導院に入学し、戦団へと進路を伸ばしたのだ。
戦団でもって魔法不能者の有用性を示せば、央都市民の根源に根付いているであろう魔法至上主義から脱却する――ことまではできなくとも、魔法不能者への差別を根絶することができるのではないか。
魔法不能者の兄を不能者差別によって失ったイリアの原動力が、そこにある。
そして、窮極幻想計画が誕生したのであり、幸多が適格者として選ばれたのだ。
「あるかもしれないわね」
イリアは、二人の親友に対して笑い返すと、戦団本部の動き出す様子を見下ろして、息を吐いた。
昼休みが終わろうとしている。
星央魔導院十八期の三魔女と呼ばれた三人組の逢瀬も、終わらなければならない。
それが少しばかり、イリアには心残りだった。
脳裏に、昨夜のことが浮かぶ。
八月二十五日の夜中から朝方にかけて、戦団本部は大わらわと言っても過言ではない状態が続いていた。
それはそうだろう。
マモン事変と名付けられた大規模幻魔災害の事後処理だけでなく、事件そのものの詳細に関する調査も行わなければならなかった。
事後処理そのものは、被災地の復旧作業を中心としたものであって、戦団のみならず、央都政庁や関連企業の力もあって速やかに行われていた。
戦団本部や各基地の復旧は、夜の間には完了しており、技術局棟や医療棟、兵舎なども元通りに戻っていた。
そんな状況下で大騒ぎに騒いでいるのは、戦団上層部であり、戦団最高会議の面々である。
今回の事件は、これまでの大規模幻魔災害などとは大きく異なる側面を持っているように思われてならなかったからだ。
〈七悪〉の一柱にして、〈強欲〉を司る悪魔マモン。
彼は、先日、天燎鏡磨を始めとする八名の囚人を浚い、宣言した。
特異点を狙い、動く、と。
戦団が認識している特異点といえば、皆代幸多と本荘ルナの二名だ。
よって、戦団は、この二名を厳重な監視下に置き、二人が行動を起こす場合には、過剰なまでの戦力を動かした。
本荘ルナがマモンのお目当ての特異点ではないらしいということが判明すれば、皆代幸多の監視をさらに強力かつ緻密なものとした。
そうすることであらゆる事態に対応できると考えたのだ。
だが、それすらも、間違っていた。
マモンが狙った特異点とは、戦団にとって未知の人物のことを指していたのだ。
いや、未知ではあるまい。
既知の、しかしながら、特異点とは認識していなかった人物。
砂部愛理。