第六百五十五話 彼について、自分について
「ぼくは、結局、なにものなんだろう」
雨が、止み始めた。
洪水をそのまま上空に打ち上げるような大竜巻も拡散し、消滅していくようであり、氾濫し放題だった未来河もその水量を減らし始めている。
急速に。
急激に。
いつだってそうだ、と、彼は想う。
ここは心象世界。
幸多の心情を映す鏡なのだ。
だから、幸多の感情がいまどうなっているのか、手に取るようにわかってしまう。
もっとも、その感情の詳細については、まったくわからないのが彼らなのだが。
「皆代幸多。魔暦二百六年六月五日生まれの十六歳。天燎高校に通いながら戦団戦務局戦闘部に所属。配属先は、第七軍団。軍団長・伊佐那美由理を師匠に持つ」
「そういうことをいいたいんじゃないんだけど」
幸多は、彼を見て、苦笑するほかなかった。
天変地異そのものに飲まれかけていた世界は、いまや、元に戻りつつあった。
雨は止み、風は止まり、雲間からは日が差してきている。
眩いばかりの太陽光線が、ずぶ濡れの全身を瞬く間に乾かしていった。
「ぼくは、ずっと考えていた。考えていたんだよ」
「自分がなにものなのかについて?」
「うん……」
幸多は、水が引いた河底から自分と同じ姿をした少年たちが這い出してくる様を見て、また土手によじ登ってくる少年の姿も見た。
皆、幸多と同じ容姿をしている。
「そういうのってさ。結局、長い人生の中でもずっと考え続けるものなんじゃないの? なんか、そんな話を聞いたような」
「うん。それも知ってる」
幸多は、彼らの視線が自分に集まっていることに気づきつつも、深くは考えないようにしていた。目の前の彼のように、彼らもまた、この心象世界の住人なのだろう。
自分と同じ姿形をした、自分ならざるものたち。
彼曰く、奇跡の欠片たち。
「それでも考えるよ。特異点ってなんだよ、とか」
幸多は、左手を見下ろして、いった。力を込めても、もうあのときのような感触はない。
マモンを殴り飛ばしたのは、幸多の力ではない。
ドミニオンが託してくれた力だ。
それは、間違いないはずだ。
「ぼくは、愛理ちゃんを助けたかった。そのためなら、特異点だってなんだっていいから、力が欲しかった。幻魔を斃せる、マモンを打ちのめせるだけの力が。でも、結局、ぼくには力なんてなかったんだ。ぼくは無力で、誰一人助けられなかった。守れなかった。そう……想ってた」
「だからか」
「うん。だから、そう……だから、荒れてたんだろうね」
幸多は、心象世界が安定を取り戻していく様を目の当たりにして、実感を込めて、いった。まさに幸多の心模様がそのままに反映されていたのは間違いない。
マモンとの戦い、サタンとの接触、愛理との別離を経て、幸多の心は荒れ狂っていた。
それこそ、あの瞬間、意識を失ってから今に至るまで、ずっと。
それもきっと、とても大切なことを忘れていたからにほかならない。
決して忘れてはならないことを、情報の濁流の中に置き去りにしてしまっていた。
この上なく大事なこと。
幸多は、大きく息を吸い込んだ。
激情の渦が破壊し尽くした未来河周辺の景色は、しかし、頭上から降り注ぐ暖かな日差しを浴びて、輝いてすらいる。
「ぼくは、皆代幸多だ。それ以上でも、それ以下でもない。それがぼくの全てで、だからぼくは、愛理ちゃんを助けに行くんだ」
幸多が心象世界で決意表明を行うと、彼は、小さく頷いた。
それでいい。
それだけで、いい。
いまは、なにも難しく考える必要などはなく、ただ、前に向かって進むだけで良いのだ。
皆代幸多とは、そういう人間なのだから。
「だったら、起きなよ」
彼がいうと、幸多は、大きく頷いた。
そして、幸多の姿が消えると、幸多と同じ姿の少年が現れた。
「お疲れ様」
「久々の出番だったから、しくじったよ」
「仕方がないよ。皆代奏恵は、皆代幸多の母親で、いつだって彼を見守っていたんだから」
幸多と彼らの差違を見抜かれたのだとしても、致し方のないことだ。
彼は、やるべきことをやった。
そして、その結果、自分たちの存在を認識されることになってしまったのであれば、なにをいうことがあるというのか。
そんなことを彼らは考え、空を仰ぐ。
空に開かれた窓には、幸多の視点が映っていて、彼は、母の顔を仰ぎ見ていたのだ。
「あら、もうお目覚め?」
奏恵の顔がすぐ目の前にあったことで、幸多は、少しばかり戸惑った。
「えーと……」
「三十分くらいかしら。眠っていたのよ、わたしの膝枕で。なんだかとっても懐かしい気持ちになれたわ」
奏恵は、腿の上の幸多の頭を優しく、そして愛おしく撫でた。
伊佐那家本邸の縁側。
日差しは強く、日が傾きかけていることから、正午を大きく過ぎていることがわかる。まだまだ夕方には遠いが、だからこそ、幸多は体を起こそうとした。
すると、奏恵が幸多の頭を抑えつけたものだから、彼は困惑した。
「え?」
「ゆっくりしていなさい」
「え、ええ……?」
幸多には、なにがなんだかわからなかった。
気がついたら、伊佐那家本邸の縁側で、母の膝枕を堪能していたのだ。彼らのうちの誰かが幸多の代わりを演じてくれていたのは理解している。しかし、このような状況になっているとは、想定していなかったのだ。
想像だにできない。
「昨日の今日でしょ。疲れが溜まっているだろうから休養するようにって、杖長さんがいってくださったのよ」
「杖長命令……ってことか」
「そういうこと」
「だったら……仕方がないかな」
「うん。仕方がなく、休みなさい」
「そうする」
幸多は、満面の笑顔の奏恵の顔を見つめながら、母の膝枕など何年ぶりだろうと想ったりした。
小さい頃は、よく統魔と母の膝の上を取り合ったものだし、その結果、喧嘩に発展することさえあった。
そんなことを思い出すくらい、膝枕の記憶というのは、遠い。
風鈴の音が、涼やかに感じるのは、縁側に満ちた冷気も関係しているのだろうが。
「……お帰りなさい、幸多」
不意に、奏恵が、いった。
「た……ただいま、母さん」
幸多は、しどろもどろになりながらも、奏恵が全てを承知しているという前提で、そう答えた。
奏恵もいったように、昨日の今日だ。
昨日の朝には逢っているのだが、しかし、幸多には、なんだかとても長い間逢っていないような気がしてならなかった。
実際、幸多の体感した時間は、何時間、何十時間、いや、もしかすると、もっと長い時間かもしれないのだ。
それくらい、何度も繰り返されたのがあの〈時の檻〉の時間だった。
無限に長く、永久に近く繰り返される時間の輪。
幸多以外の全員は、ただ始点から始まるだけだからなんの負担も負荷もなかったのだろうが。
幸多だけは、時間転移魔法の影響を受けなかった。故に、負荷がかかり続けていたのだ。
愛理が姿を消した瞬間、幸多の意識が途切れたのは、その膨大な時間を駆け抜けてきたからに違いない。
緊張の糸が途切れ、重圧が意識を塗り潰した。
そして、いま、ここにいる。
「色々あったよ、母さん……」
「そうね。色々、あったわね……」
奏恵は、幸多が伸ばしてきた左手を両手で挟み込んで、撫でた。その左手には、一切の魔素が宿っていない。だから、わずかばかりの反発もなく、指先が彼の手の甲や手のひらに吸い込まれていくようだった。
「本当に、色々あったんだ……」
話せば長くなる。
けれども、奏恵には、母には聞いて欲しいことがたくさんあった。
昨日、出雲遊園地でなにがあったのか。
自分の身になにが起きたのか。
自分が一体なにもので、これからなにをするべきなのか。
幸多は、順を追って、話し始めた。
時間は、たっぷりとある。




